「善人」と「罪びと」とのあいだをゆく
ーーーーホン・ウィジョン監督『声もなく』
現代韓国のどこにもあるような、それほど大きくない都市とその郊外が舞台だ。
中年男と青年の二人は、生卵の移動販売を生業にしている。毎日、小型トラックに生卵のパックを積んで街に出かけていって、人通りの多い路上で売りさばく。中年男はチャンボクといい、片足が不自由で、見るからに冴えない田舎のオッサンである。一方、助手の青年はテインといい、大柄で小太りで、耳は聞こえるが口がきけない。
二人の身体障害は、社会の周縁に追いやられた者の象徴となっている。
というのも、かれらは生業だけでは暮らしていけずに、裏の稼業にも手をだしているからだ。裏の稼業というのは、反社会的組織の末端で、組織が処分した人間の死体処理を請け負うことである。自分たちが殺人を犯すわけではないが、証拠が残らないように安物のヘアキャップやレインコートを着て、死体をビニールシートで包み、裏山へ運んでいき、穴を掘って埋葬する。
二人はこうした作業を生卵売りと同様に、淡々とこなす。そこに「罪意識」はないかのようだ。むしろ、敬虔なクリスチャンのチャンボクは、埋葬するときにポケット版の聖書を取り出して死人の罪を償ってあげたり、テインひとりが穴に死体を安置した後で、「北枕」の縁起を気にしたりと、その善人ぶりは尋常ではない。
チャンボクは青年を小さい頃から父親代わりに面倒を見てやっているらしい。青年の障害もあり、「人をうらやんではだめだ」とか、「謙虚に生きないとだめだ」とか、「(買ってやったキリスト教の)テープを聞け」とか、のべつまくなしにお説教を垂れる。
もちろん、チャンボク自身も、目上の者に対しては一切反抗しない。それどころか、言葉遣いは丁寧すぎるほど丁寧だ。
だが、この映画が提示する最大の皮肉は、そうした社会的に「善」として認められた価値観(韓国社会の儒教的な道徳観)が裏目に出ることだ。
チャンボクは、反社会組織の長である「キム様」からあることを頼まれる。ちょっとだけ人を預かってほしい、と。いったんは専門外の領域なので、と断るが、「キム様」に凄まれて、しぶしぶ応じてしまう。
映画の提示するもうひとつの大きな皮肉は、「キム様」のかかわった身代金を目的にした誘拐が「善良」な二人を本当の「罪びと」にしてしまうことだ。
誘拐犯が連れてきたのは十一歳の少女で、チョヒという。「キム様」の計画では、弟のほうを誘拐するはずだったらしい。韓国社会の男尊女卑の風潮を反映して、そのほうが身代金を高く要求できるからだ。しかし、二人が預かるのはその姉で、チャンボクはテインにその少女を押しつける。口のきけないテインは激しく抵抗するが、しぶしぶ引き受けざるを得ない。ここでも映画は韓国社会特有のノーと言えない上下関係を揶揄している。
かくして、テインは幼い妹と一緒に暮らしている人里離れた小さな家に少女を連れていく。面白いのは、社会階層の違う、テインやその妹と少女の三人の作る疑似家族の描写である。
妹はムンジュというが、髪がぼさぼさで野生児のようなムンジュは、兄が帰ってくるなり、「腹減った」と兄に訴える。中西部の大都市である大田(テジョン)の富裕な家庭で育つ少女は、服が乱雑にちらかった部屋で、ムンジュに服のたたみ方を教えて、部屋をきれいに整理する。また、食事のときも、床で食べるのではなく、折り畳み式の小さなテーブルを出してきて、テインが街で買ってきた料理をのせる。そして、ムンジュが先に食べようとすると、少女は「お兄さんからよ」と諫(いさ)める。テインはそう堅苦しいことを言わなくても、といった怪訝そうな顔つきをしながらマンドゥに箸をつける。
このシーンから、少女チョヒの家庭環境を覗き見ることができるが、映画は少女の中に内面化された「良妻賢母」という価値観を美化しているのではない。むしろ、それが少女への抑圧になっていることをしめそうとしているのだ。
それがわかるのは、少女がムンジュと一緒にたらいで洗濯をするシーンだ。
水をたっぷり含んだ大きなタオルを絞るのは、二人の女の子には大変な作業で、そこにテインが割ってはいる。そして、庭に張った洗濯ロープに濡れた衣類を吊るす。おそらく少女の家庭では、父親なり弟なりが洗濯をすることなどないのだろう。
「家族」がそろって洗濯をする体験は、少女の心を知らないうちに解放する。その証拠に、身代金をなかなか払おうとしない少女の両親にあてて、写真つきで手紙を出すという誘拐犯のアイディアで、チャンボクがポラロイドカメラで少女の写真を撮ろうとするとき、少女は緑の田園風景をバックに明るく笑っているからだ。
この映画では、町の保育園や養鶏場の経営者たちが児童誘拐や人身売買に関係している。かれらは善良な市民を装って、陰で犯罪行為に手を染めている。韓国社会の表と裏を描きながら、「本当の犯罪者は犯罪者の顔をしていない」というパラドックスが効いている、優れた寓話である。
(『すばる』2022年1月号、312-313頁)
ーーーーホン・ウィジョン監督『声もなく』
現代韓国のどこにもあるような、それほど大きくない都市とその郊外が舞台だ。
中年男と青年の二人は、生卵の移動販売を生業にしている。毎日、小型トラックに生卵のパックを積んで街に出かけていって、人通りの多い路上で売りさばく。中年男はチャンボクといい、片足が不自由で、見るからに冴えない田舎のオッサンである。一方、助手の青年はテインといい、大柄で小太りで、耳は聞こえるが口がきけない。
二人の身体障害は、社会の周縁に追いやられた者の象徴となっている。
というのも、かれらは生業だけでは暮らしていけずに、裏の稼業にも手をだしているからだ。裏の稼業というのは、反社会的組織の末端で、組織が処分した人間の死体処理を請け負うことである。自分たちが殺人を犯すわけではないが、証拠が残らないように安物のヘアキャップやレインコートを着て、死体をビニールシートで包み、裏山へ運んでいき、穴を掘って埋葬する。
二人はこうした作業を生卵売りと同様に、淡々とこなす。そこに「罪意識」はないかのようだ。むしろ、敬虔なクリスチャンのチャンボクは、埋葬するときにポケット版の聖書を取り出して死人の罪を償ってあげたり、テインひとりが穴に死体を安置した後で、「北枕」の縁起を気にしたりと、その善人ぶりは尋常ではない。
チャンボクは青年を小さい頃から父親代わりに面倒を見てやっているらしい。青年の障害もあり、「人をうらやんではだめだ」とか、「謙虚に生きないとだめだ」とか、「(買ってやったキリスト教の)テープを聞け」とか、のべつまくなしにお説教を垂れる。
もちろん、チャンボク自身も、目上の者に対しては一切反抗しない。それどころか、言葉遣いは丁寧すぎるほど丁寧だ。
だが、この映画が提示する最大の皮肉は、そうした社会的に「善」として認められた価値観(韓国社会の儒教的な道徳観)が裏目に出ることだ。
チャンボクは、反社会組織の長である「キム様」からあることを頼まれる。ちょっとだけ人を預かってほしい、と。いったんは専門外の領域なので、と断るが、「キム様」に凄まれて、しぶしぶ応じてしまう。
映画の提示するもうひとつの大きな皮肉は、「キム様」のかかわった身代金を目的にした誘拐が「善良」な二人を本当の「罪びと」にしてしまうことだ。
誘拐犯が連れてきたのは十一歳の少女で、チョヒという。「キム様」の計画では、弟のほうを誘拐するはずだったらしい。韓国社会の男尊女卑の風潮を反映して、そのほうが身代金を高く要求できるからだ。しかし、二人が預かるのはその姉で、チャンボクはテインにその少女を押しつける。口のきけないテインは激しく抵抗するが、しぶしぶ引き受けざるを得ない。ここでも映画は韓国社会特有のノーと言えない上下関係を揶揄している。
かくして、テインは幼い妹と一緒に暮らしている人里離れた小さな家に少女を連れていく。面白いのは、社会階層の違う、テインやその妹と少女の三人の作る疑似家族の描写である。
妹はムンジュというが、髪がぼさぼさで野生児のようなムンジュは、兄が帰ってくるなり、「腹減った」と兄に訴える。中西部の大都市である大田(テジョン)の富裕な家庭で育つ少女は、服が乱雑にちらかった部屋で、ムンジュに服のたたみ方を教えて、部屋をきれいに整理する。また、食事のときも、床で食べるのではなく、折り畳み式の小さなテーブルを出してきて、テインが街で買ってきた料理をのせる。そして、ムンジュが先に食べようとすると、少女は「お兄さんからよ」と諫(いさ)める。テインはそう堅苦しいことを言わなくても、といった怪訝そうな顔つきをしながらマンドゥに箸をつける。
このシーンから、少女チョヒの家庭環境を覗き見ることができるが、映画は少女の中に内面化された「良妻賢母」という価値観を美化しているのではない。むしろ、それが少女への抑圧になっていることをしめそうとしているのだ。
それがわかるのは、少女がムンジュと一緒にたらいで洗濯をするシーンだ。
水をたっぷり含んだ大きなタオルを絞るのは、二人の女の子には大変な作業で、そこにテインが割ってはいる。そして、庭に張った洗濯ロープに濡れた衣類を吊るす。おそらく少女の家庭では、父親なり弟なりが洗濯をすることなどないのだろう。
「家族」がそろって洗濯をする体験は、少女の心を知らないうちに解放する。その証拠に、身代金をなかなか払おうとしない少女の両親にあてて、写真つきで手紙を出すという誘拐犯のアイディアで、チャンボクがポラロイドカメラで少女の写真を撮ろうとするとき、少女は緑の田園風景をバックに明るく笑っているからだ。
この映画では、町の保育園や養鶏場の経営者たちが児童誘拐や人身売買に関係している。かれらは善良な市民を装って、陰で犯罪行為に手を染めている。韓国社会の表と裏を描きながら、「本当の犯罪者は犯罪者の顔をしていない」というパラドックスが効いている、優れた寓話である。
(『すばる』2022年1月号、312-313頁)
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