(写真)中央公園の「ホットコーナー」。野球狂たちの議論風景
おしゃべりと議論
キューバ人は、おしゃべりが大好きだ。
おしゃべりというより、あるテーマについての議論と言ったほうがいいかもしれない。
別にあらたまった会議の席ではない。ごくありふれた日常生活のひとときに、興味や信条を共にする者たちが、三、四人以上集まると、この手の議論が始まる。
内容は政治やスポーツ、芸術、宗教、コンピュータのこと、なんでもござれだが、あちこち別の分野に飛んだりしない。ひとつのテーマについて、休みなく二、三時間やりつづける。
自分の主張を、声の大きさやセンチメンタルな泣き言ではなく、深い蘊蓄(うんちく)を傾けるながら訴える。
日本では初等教育から高等教育まで、「ディベート(討論)」という科目がないため、こうした論理的な思考の訓練はおこなわれない。
そのため、一般的に言って、日本人は情緒に訴えることは得意でも、議論は苦手だ。しかも、日本文化の中には理路整然としたモノの言い方を嫌う風潮がある。論理的な思考に付いていけない者は、それを「屁理屈」や、世間知らずの「学者の物言い」として退けがちだ。往々にしてそうした非理知主義は国粋主義的な思想に結びつきやすい。愛国主義に理由や理屈など、いらないからだ。
それに対して、キューバ人は理屈が好きだ。たとえば、一九五九年にキューバ革命に成し遂げた革命軍の指導者、フィデル・カストロは、ハバナの革命広場に集まった群衆の前で、数時間に及ぶ演説をおこなったという。
十九世紀末のスペインからの独立の際に、アメリカに介入を許し、二十世紀はアメリカの属国としての位置を余儀なくされた。アメリカの大企業が進出し、経済的には潤ったが、貧富の差、人種差別、女性差別、教育の不均衡など、癒しがたい社会問題を抱えていた。それを正すための革命だった。そうカストロは革命の意義と正当性を訴えた。
政治家の演説として、その長さは有名で、党大会で10時間にも及ぶ演説をおこなったり、国連でもダントツの長演説をおこなっている。
キューバの集会で原稿を見ないで演説するカストロも偉いが、ずっと立ったままで聴いている市民はもっと偉い。よくも飽きずに聴いていられるものだ。
カストロが議論を得意とするのは、驚くに値いしない。大学時代に法律を学び、弁護士をめざしたカストロは、一九五三年にモンカダ砦(サンティアゴの国軍基地)襲撃に失敗して逮捕されたとき、法廷で、弁護士として自分自身の弁護をおこない、無罪を勝ち取っている。論理立てて議論を進めるだけでなく、必ず歴史的事実と統計的数字を持ち出す、その頭脳の明晰さと記憶力のよさには舌を巻く。
だが、それはひとりカストロだけの能力ではなさそうだ。
ハバナの中央公園に行けば、「エスキーナ・カリエンテ(ホットコーナー)」と呼ばれる一角で、プロ野球に関して何時間も口角泡を飛ばして議論している人たちがいる。さながら野球百科事典のような人たちが、持っている知識を最大限に活用して、互いに反対意見の人を論破しようとする。
だから、キューバ人と議論するには、よほどの勇気と準備がいる。
キューバとの国交を回復したアメリカの外交官たちは、そのことを思い知るだろう。
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