越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

ジョルジョ・ディリッティ『やがて来たる者へ』(2)

2011年09月09日 | 映画
 映画は、彼女が感じるはずの喜怒哀楽をあえて表現しない。

 とりわけ、彼女は恐怖や不安を感じると、母や神父に打ち明けることもできずに、ひとり納屋の片隅に逃げのび、心が落ち着くまでじっと待つ。

 私たち観客は彼女の目が捉えた世界を受けとり、彼女が抱く感情を共有する。

 映画の描きだすのは、そんな彼女の目が見た世界であり、一つには戦時中であっても変わらない田舎の農民たちの日常生活だ。

 心に残るシーンはたくさんある。
 
 一九四三年のクリスマス・イヴから始まり、子どもたちによるクリスマスの飾りつけや教会での朗読会、父母による葡萄の蔓の手入れ、寝たきりの祖父の介護、納屋での籐カゴ作りと、男たちの語る遠い海の世界、クリスマスのご馳走になる豚の解体、こっそり行なわれる若者たちの夜の踊り、マルティーナ自身も参加する聖体拝領式など・・・。

 なかでも印象的なのは、女性同士の心のやり取りが見られるシーンだ。

 その中の一つのシーンで、生まれたばかりの赤子を失ったあと再び妊娠した母と一緒に、マルティーナは夜中に丘の上の安産の女神のところまでいき安産を祈る。

 空襲に遭った遠くの町の火事の火が夜空に立ちのぼり、それを眺める無言の二人の不安が伝わってくる。

 もう一つは、二人の若い叔母がマルティーナと一緒に一つのベッドに入って、「愛することと殺すこと、どちらが罪深いのか」を話し合うシーンだ。

 叔母たちは村の旧弊な慣習に息苦しさを覚えており、「婚前交渉」の是非をそれとなくマルティーナの前で話し合っている。

 戦争の影がそんな日常生活の細部のなかに入り込む。

 少女の目が捉えるのは、次々と出現する死者たちの姿だ。

 生後数ヶ月で自分の胸のなかで亡くなった弟、

 森の池のそばで自分の墓穴を掘らされ、パルティザンの手によって殺害される捕虜のドイツ兵、

 ドイツ軍に殺されて死体で戻ってきた叔父、

 そして、ドイツ軍に大虐殺される住民たち、そして、家の前で殺害される母と祖母・・・。

(つづく)
 

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