越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

10月14日(水)のつぶやき

2015年10月15日 | サッカー部長日記

ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(11)急速に変化する通信事情 goo.gl/0f2kDW


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エリクソンの新刊『きみを夢みて』売っています!

2015年10月14日 | 本について

新宿の紀伊国屋さんに(多分ほかの本屋さんでも?)RKの訳したエリクソンの新刊『きみを夢みて』売っています!

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(11)急速に変化する通信事情

2015年10月14日 | キューバ紀行

(写真:スマホを使って、路上のWi-Fiスポットでネットをする若者たち、ハバナのベダド地区)

急速に変化する通信事情

越川芳明 

 いま、確実に変化していることがある。ネット事情である。

 キューバでは、少し前まで限られたエリートしかインターネットできなかった。しかも、電話回線を使っていたので、すごくのろかった。

 ADLSや光ファイバーが導入されるまでは、日本だって電話回線を使ってネットに入っていたのだが、その時代に戻った感じである。

 と同時に、ここ数年のあいだに、携帯電話が普及していた。アメリカやヨーロッパで使われなくなった旧世代の携帯やスマホを手に入れた若者が、路上でメールをしたりする姿は、ハバナでは当たり前になっていた。だが、それはあくまで携帯電話の回線を使ってのものだった。

 この夏の7月から、キューバ政府も思い切った手を打った。ハバナの各地域の公園でWi-Fi(無線LAN)を利用できるようにしたのだ。全国的には、そうした場所は35カ所あるらしい。人々は「エテクサ」(キューバ電信電話公社)で、1時間2CUCのカードを買う。カードの裏には、それぞれ8桁のIDとパスワードがしるしてある。30日間有効である。

 旧市街の「中央公園」から歩いて五分ほどにある、セントロ地区のサン・ミゲール公園には木が生い茂り、週末には衣類を扱う露店が出て大勢の人でにぎわう。いまは、平日の昼間だが、人々が木陰の下のベンチに腰をおろし、スマホでネットサーフィンに興じている。木や壁にもたれてタブレットをいじっている人もいる。ノートパソコンを膝の上に乗せている人もいるが、それは少数派である。

 キューバでは、国家による情報統制が行なわれている。新聞も政府公認の新聞しかない。新聞は、建前というか政府に都合のよいことしか言わない。だから、市民には本当のところは分からない。だが、Wi-Fiの導入によって、市民はいろいろな情報も手に入れることができるようになっている。

 いま、公園でWi-Fiをしているほとんどの人が、遠距離にいる知り合いや家族とチャットや、「スカイプ」に似た「モノMONO」と呼ばれるアプリを使って無料のテレビ電話をやっているようだ。その気になれば、世界の政治、ファッション、政治経済、スポーツなど、知りたい情報はいくらでも取ることもできる。

 だが、これは、キューバ政府が怖れることではないだろう。というのも、テレビ放送では、海外のニュースばかりを流す専門チャンネルがあり、国民が世界の動向に疎くなるということはない。

 むしろ、足りないのは、国内の動向に対する報道のほうだ。統制されているのはこちらのほうの情報だ。

 これまで政府は新聞やラジオ、テレビという古典的なメディアを使って、国民を啓蒙してきた。いわば、上から下への垂直的な情報の流れである。しかし、携帯やタブレット、パソコンを使った新しいメディアは、その流れを水平にする。それらのツールを使えば、誰でも発信することができるからだ。

 これからは、それまで受け手でしかなかった市民が身近な情報や自分の意見を発信し、双方向的でやり取りをし始めるだろう。

 キューバは、いうまでもなく共産党独裁の政治体制を取っている。中国で市民のデモがツイッターから始まったように、不満分子のツイッターが反政府デモを誘発することもある。キューバ政府が怖れるのは、今年1月に釈放したばかりの少数派の「政治犯」たちが、アメリカの支援を受けておこなう煽動活動ではないだろうか。

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10月12日(月)のつぶやき

2015年10月13日 | サッカー部長日記

ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(10)キューバとアメリカ(その4) goo.gl/RkMehO


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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(10)キューバとアメリカ(その4)

2015年10月12日 | キューバ紀行

(写真:デンバーに移住するキューバ人の一家、米国大使館の近くで)

アメリカとキューバ(その4)  

越川芳明

アメリカ大使館の近くにある公園には、初めて入国査証(ビザ)の申請のために訪れた人も、すでに大使館員との面接を済ませ、申請が受理されてビザを取りにきた人もいた。2度目に訪れたとき、いろいろと話が聞けた。  

25歳だというが、とても落ち着いた感じの白人女性は1週間前に申請を済ませて、ビザを取りにきていた。4年前から夫(30歳)がフロリダのタンパに住んでいて、ようやく一緒になれるのだという。  

恰幅のいい中年の白人女性(45歳)は、初めて申請に来た。この10月で50歳になる夫が1年前にアメリカに亡命した。彼女も夫の住むマイアミに移住したいのだという。  

50歳ぐらいの混血女性は、ハバナ空港に近いボジェロ地区に住んでいる。初めて申請にきた。親族らしい人たちが彼女を囲んで、話を聴いていた。女性によれば、彼女の夫、娘夫婦、娘夫婦の子どもたちだという。彼女の弟がフロリダに暮らしていて、家族全員で移住したいのだという。みなでフロリダのディズニーワールドに行くみたいに、期待に胸をふくらましている感じだった。  

30代の白人女性は、夫の代わりに短期滞在用のビザを取りにきた。夫がメソジスト系(プロテスタント)の教会の仕事で、オハヨオ州に行くのだという。あなたは同行しないのですか?と訊くと、私は行かない、とあっさりと答えた。こうした手続きには慣れた感じだった。  

この小さな公園は、まるでいろいろな人々の思惑や不安や希望が交錯するジャングルだ。とはいえ、ここにいる人たちには、ちょっと前までキューバが閉塞状況にあったとき、ボートや筏でメキシコ湾流を渡ろうとした人々の切羽詰まったようなところはない。少なくとも飛行機でアメリカへ旅するだけの経済的な余裕がある人たちだった。  

ビザを申請するにせよ、受け取るにせ、みな午後1時に来るように指示されていた。ようやく1時半をすぎた頃に、大使館のゲートから赤いビブスをつけた白人女性が公園のほうにゆっくりと歩いてくる。いま大使館で働いているキューバ人は3000名と言われるが、そのうちの1人だ。女性は、ビザを申請にきた人のグループと取りにきた人のグループに分かれ、2列に並ぶように命じる。初めて申請にきた人は4、5名。それに対して、ビザの受け取りにきた人は20名以上いた。

赤いビブスの女性に率いられ、彼らはまるで囚人みたいに一列になってぞろぞろと大使館のゲートのほうへ歩いていく。真上から太陽が彼らを容赦なく照らす。  

これは、親しい友人から聞いた話だが、アメリカに旅するのは比較的容易になっているようだ。一度、滞在許可が得られれば、何度も行き来できるようだ。ちなみに、その友人の知り合いは、3カ月ほどテキサス州のヒューストンに滞在して、そこで働いてカネを稼ぎ、いったん帰国して1カ月ほどキューバにいて、またアメリカに出稼ぎにいく。手に職があるので、それほど過酷な労働条件にさらされないという。  

私は、それ以外に二つの出稼ぎのケースを思い出す。ハバナのサントスワレス地区に住み、タクシーの運転手をしているアーノルドは、いま53歳だ。数年前に弟が単身でフロリダに出稼ぎにいった。最初、マイアミに行ったが、その町でカストロ体制のキューバへの反感、経済難民への冷たい視線を感じて、さらに北の都市へいき、そこのタイヤ工場で働いた。休むことなく働いたが、暮らしはちっとも上向かなかった。  

アーノルドは、「上向く」という意味で「プログレソ」という単語を使った。英語で言えば「プログレス」。進歩、発展、向上という意味である。確かに、月給が約20ドル(約2500円)のキューバより、ずっと稼ぎはある。だが、衣食住にかかる費用も想像以上だった。休みの日もキューバにいるときみたいに、のんびりできなかった。おまけに、健康保険に入っていないので、病気はできない、怪我もできない。そうした緊張感で、まるで仕事やカネの奴隷になった気分だった。それで、3年ほどでそんな暮らしに見切りをつけて、貯めたカネを持ってキューバに帰国した。いまは兄のアーノルドがそのカネの一部で57年型のシボレーを買い、タクシー運転手をやって、弟の家族をふくめ、一家を支えている。贅沢はできないが、ほどほどの稼ぎはある。弟には孫もできて、いまは幸せだ。  

ハバナ湾の対岸の街グアナバコアに住むオダリスは、30代半ばの白人女性だ。母親の家に、夫と生まれたばかりの息子と同居している。数年前に、彼女はマイアミでひと稼ぎしようとキューバを離れた。もちろん、名目は親族への訪問である。マイアミではホテルのメイドをした。しかし、毎日、同じ肉体労働の繰り返しで、うんざりした。カネも思ったほど儲からなかった。それで3カ月の滞在期限が切れると、キューバに戻ってきた。アメリカに不法滞在するのは意味がないと思ったからだ。稼いだカネを元手に、ときどきメキシコやベネズエラに行って、安い女性服を仕入れてきて、それを転売している。もはやアメリカに出稼ぎに行く気はない(1)。  

大使館の向かい側で写真を撮っていると、ある家族がゲートの回転ドアから勢いよく出てきた。中年の両親と中学生ぐらいの息子が2人、白人の家族である。道路を渡ってきた彼らに、フェリシダデス(おめでとう)と声をかけると、両親は破顔一笑した。マイアミですか?と訊くと、デンバーだと言って、また笑う。  

冬は雪に覆われるロッキー山脈にある都市だ。標高は1600メートルもある。何でまたそんな寒いところへ? と失礼な質問をすると、夫の弟がいるので、そこへ家族で移住するのです、と嬉しそうに母親が答える。私が息子のひとりに、英語はできるの?と訊くと、全然できません、と笑う。これから勉強します。でも、スキーができるね、と二人の息子に言うと、彼らは微妙な顔をした。  

デンバーは人口63万人の大都市だからそんなことはあり得ないだろうが、将来、またこんな風に彼らに出会うことができたら、ぜひ話を聞いてみたいものだ、と思った。

註 1 ここでは、米国に「出稼ぎ」に行きキューバに戻ってきた人たちの話を収録しているので、アメリカ生活にあまりポジティヴな感想はあまりない。キューバから米国に「移民」した人の話は、牛田千鶴氏の論文(『アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るための55章』(明石書店)所収)や、四方田犬彦氏の『ニューヨークより不思議』(河出文庫)の第二部などに詳しい。  

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(9)キューバとアメリカ(その3)

2015年10月11日 | キューバ紀行

(写真:アメリカ大使館前に並ぶ人々 2015.9.1)

(3)キューバとアメリカ(その3) 

越川芳明

2015年7月20日、国交正常化交渉の結果、ハバナのアメリカ大使館が再開された。それまでスイス大使館に間借りするかたちの「利益代表部」だった。

だが、人々はそれまでも「アメリカ大使館」と呼んでいた。建物も場所も変わらない。ただ、大使がいないだけだった(1)。

海岸通りにあるアメリカ大使館に行ってみた。9月初旬の朝早くと、1週間後のお昼すぎに。いずれも35度を越す真夏日で、道を歩いているだけで、汗が吹き出てしまう。まるでサウナの中でフィットネスをしているような感じだ。

大使館から300メートルくらい離れたところに、うっそうとした大木に覆われた小さな公園があった。人々が木陰に群がっていたが、近くの別の役所への申請者もかなり混ざっていた。

数年前のこと。90年代初頭の経済不況を背景にしたフェルナンド・ペレス監督の名作『永遠のハバナ』(2003年)に想を得て、キューバで知り合った人々に「唐突な質問ですみませんが、あなたの夢は何ですか?」と、訊いてまわったことがある。

ほとんどの人が異口同音に、外国に行ってみたい、と答えたものだった。

 じゃ、どこへ? と訊くと、たいがいの人が、どこでもいいから、とにかくキューバを一度は出てみたい、と答えたものだった。

それほど閉塞感が強かったのである。

長引く経済停滞で、毎日のように、太陽は燦々と射しているのに、人々の心の上にはどんよりとした雲が覆っているかのようだった。 

もちろん、社会のエリート層をなす政治家、役人、医者、スポーツ選手、学者、芸術家などは例外である。海外からの招聘があれば、キューバを出ることは簡単だ。だが、私が質問したのは、そうした少数のエリート層ではなかった。

小さな公園のベンチに腰をおろす老女がいた。老女と一緒にいるのは、13歳の孫娘とその母親だった。老女の息子が、8年前に単身、アメリカに亡命した。いまはマイアミで別の女性と結婚しているという。こちらでも、妻は別の男と結婚している。

老女によれば、孫娘だけがアメリカに移住するのだという。少女は英語が話せない。いくら父親がいるとはいえ、海の向こうで待っているのは、他人の家庭である。こちらで実の母親と暮らしているほうがずっと安心なのではないか。この移住に関して、母親も娘も口数は多くない。老女がすべてを私に説明してくれた。少女はすでに申請を済ませ、ここ一週間毎朝ここに来て、入国査証(ビザ)が降りるのを待っているのだという。

経済不況による移住によって、こうして家族がばらばらになり、と同時に、別のパートナーやその連れ子と一緒に新しい家族を作り直すケースがいくつも見られる。キューバでは、とくに都市部で、血のつながりに寄らない家族が増えているようだ。

このことは、必ずしもデメリットばかりではない。日本では、昔からよく「血は水よりも濃い」と言われ、血のつながりの大切さが強調されるが、血は濃いほど、逆に働くこともある。遺産相続などで、きょうだいのあいだで骨肉の争いを繰りひろげられる例が多く見られる。また、血のつながりに甘えて、自分の子供をおもちゃにする親もいる。

たとえ血のつながりがなくても、新しい両親がそれぞれの連れ子たちをいたわり、連れ子同士が仲良くしさえすれば、家族として機能する。キューバは、そんな血のつながらない家族の実験場である。古い因習にとらわれないという意味で、キューバ革命はいまもつづいている。

註1 在キューバアメリカ大使の任命には、上院議会の承認が必要。過半数をしめる共和党の反対があれば、大使不在の大使館となる。

 (参考)

革命以後のキューバから米国への移民の流れ

第1波:1959年1月~1962年10月(4年間弱)

 富裕層・中間層の政治亡命。

 24万5千人。白人が98%

 ’61年4月亡命キューバ人による軍事侵攻(プラヤヒロンの戦い)

 

第2波:1965年~73年4月(7年半) 

 29万7千人。マタンサス州カマリオカ漁港の開放。

 ’66年11月:米国1年以上の滞在者に永住権(キューバ人調整法)

「フリーダム・フライト」バラデロからマイアミへ

 

第3波:1980年4月から5カ月

 カーター政権による受け入れ。12万5千人。

 4割が黒人。7割が男性で独身。米国に親類縁者なし。

 ハバナの西マリエル港からの出港を許可(マリエトス)。

 10万人がマイアミに。中に2万人の犯罪者や精神異常者も?

 

第4波:1990年~94年9月(約9カ月)

 特別期間(経済不況)

 筏やボートに乗った難民32万2千人。

 

*牛田千鶴「在米キューバ系移民社会の発展とバイリンガリズムーーフロリダ州マイアミ・デイド郡を事例として」南山大学ラテンアメリカ研究センター編『ラテンアメリカの諸相と展望』(行路社、2004年)pp.116-144を参考に作成。

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ロベルト・コッシーのサッカー部長日記(26)

2015年10月11日 | サッカー部長日記

(写真:京大吉田食堂。京大の「自由の学風」は、好きだな)

10月10日(土)

 京都大学でアメリカ文学会全国大会が開催される。泊まっていた烏丸通りのホテルから京都大学まで1時間半ぐらい歩く。途中、京都御苑や鴨川のそばを通る。小さくオシャレな喫茶店や食事処などが途中にあり、寄るわけではないが、歩いていて楽しい。

(京大熊野寮。寮祭のたて看)

鴨川も遊歩道が広く、木もたくさん植わっていて、しかも鳥たちが多く、この川べりを歩くだけでも京都に住む価値がある、と思った。京都の人には、当たり前かもしれないが、鴨がほんとうに多く、川をせき止めてあるところ群がって水に顔を突っ込んで餌を捜している。まさに、鴨(のための)川だった。

(鴨川のカモ、どうしてカモはいつもカップル/ペアなのか?)

 午後二時から四時まで、若手二人の発表の司会をした。発表が始まる少し前に、主務の西原天童君(政経4)から、「4−1で(法政に)勝ちました」というメールが届く。返事をすぐに書きたかったが、発表前なので我慢する。

 あとで、マネージャー日記を見ると、得点をあげたのは順番に、和泉竜司(政経4)、藤本佳希(文4)、瀬川祐輔(政経4)、差波優人(商4)と4年生ばかり。つねづね4年生がひっぱらなきゃ、と言っていた者にとっては、とても嬉しい。まず天童君に「ヤッタネ!」の返事をスタンプつきで出し、得点をあげた選手たちにもメールでお祝いする。ご飯をおごってあげないといけない。

 来週の土曜日(17日)は、いよいよ首位の国士舘大との一戦。確かに、勝点差5をつけられている明治にとっては、天王山ともいうべき戦いだが、だからと言って、選手たちは気張ることなく、平常心でいいパフォーマンスをみせてほしい。結果は、おのずからついてくるはずだから。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(8)キューバとアメリカ(その2)

2015年10月11日 | キューバ紀行

(写真:キューバの花、ベダド地区)

(4)キューバとアメリカ(その2)

越川芳明

1991年以降、米国からキューバへの渡航は、家族訪問を目的とするキューバ系アメリカ人だけに限られていたが、国交正常化の動きに合せて2015年から、渡航目的が学術、芸術、取材、人道支援、スポーツ、貿易など12の分野に拡大された。  

だが、渡航規制は、すでに2014年の夏に緩和されていた。おそらく試験的に。  

ハバナの閑静なベダド地区にあるマンションに映像作家ミゲル・コユーラ(1977年生まれ)を訪ねたときだった。彼はグッゲンハイム奨励金を得て、ニューヨークで暮らしながら、『セルヒオの手記————ユートピアからの亡命』(2010年)を完成させ、それはサンダンス国際映画祭でプレミア上映された。その後、数々の賞も受賞したが、奨励金が切れて帰国していた。  

彼のスタジオ=自室を訪れたのは、次作『コラソン・アスール(青い心)』の中に、彼自身が作った日本風アニメが出てきて、日本語による吹き替えを頼まれたのだ。2、3個の短いセリフだが、映画全体の説明をしてもらい、その問題のシーンを見せてもらい、スペイン語で書かれた紙を渡され、それを自分なりに日本語に訳して映像シーンに合わせる。日をあけて2日間訪れて、作業に付き合った。還暦を過ぎてからアニメの吹き替えをやるなどとは、夢にも思わなかった。しかも、自分の娘に殺される父親の役だから、もの好き以外のなにものでもない。  

2日目には、彼の家に頻繁に電話がかかってきて、作業は何度も中断を余儀なくされた。ミゲルによれば、研修の名目でキューバにやってくるアメリカ人だという。

『セルヒオの手記』は、自由を求めて米国に亡命したキューバ知識人を扱ったものだ(1)。主人公は、亡命先の米国でも自分の居場所を見いだせず、宙ぶらりんの状態のまま人生を無為に過ごす。キューバも米国も、どちらもユートピアになり得ないという意味で、両国の関係史を論じるには格好の「テクスト」かもしれない。ハバナでの映画鑑賞や監督との質疑応答などをリストアップして学術研修会の形を取り、それを渡航理由にするのだろう。ミゲルによれば、マイアミから船で毎週のようにやってくるのだという。  

これは2014年夏の話である。その年末に、海外からの観光客は、過去最高で300万人を超えた。『グローバル・トラベル・ニュース』によれば、国交正常化のニュースが出て以来、観光客はさらに急増しているという。キューバ統計局(ONEI)は、2015年の上半期の外国人旅行者がすでに170万人に達し、前年比で15.3%増である、と公表した。とりわけ、5月は24万人弱の外国人が訪れ、それは前年比で21%増である、と。夏には、さらなる増加が見込まれるので、年間でも前年を上まわるに違いない。  

いまのところ、得意先はカナダ、ドイツ、フランス、英国、イタリア、アルゼンチン、ベネズエラなどである。だが、これから米国が上位に食い込んでくるのは必至である。フロリダからの船便に加えて、ニューヨークから格安航空会社の「ジェットブルー・エアウェイズ」がチャーター便を飛ばしている。ロサンジェルスからもアメリカン・エアが2015年12月からチャーター便を週一便だが、飛ばすことを決めた。

 チェ・ゲバラが誰か、知らない若者が増えている。いつまでも、「革命の国キューバ」というコンセプトにあぐらをかいているわけにはいかない。あるいは、リゾートビーチだけがウリではない。観光省は自然を楽しむエコツーリズム、学会研修、アウトドア、文化・歴史遺産など、旅の多様性を打ち出して、外国からの集客に躍起になっている。  

観光業が主要産業であるキューバにとって、外国人観光客の急増は好ましいことにほかならない。だが、世界がどんどん均質化(アメリカ化)していくなか、マクドナルドとスターバックスがまったくない街並みには、それなりに魅力はある。  

だが、あの海岸通りに、ふたつ会社のロゴが掲げられ、そこに外国人観光客や成金のキューバ人がたむろするようになるまで、そう時間はかからないかもしれない。

註 1 

この映画は、エドムンド・デスノエスの小説(『大開発の記憶』)に基づく。デスノエスの前作を基にグティエレス・アレア監督が制作した『低開発の記憶』では、キューバに取り残された知識人を語り手にしている。キューバでも宙ぶらりんの状況は一緒だった。つまり、「キューバのブルジョアのことを考えるたびに、口から泡を吹くほど腹立たしくなる」とアメリカに影響されたブルジョワ的価値観を否定しながら、かといって、語り手の「僕」はキューバ革命の社会主義的イデオロギーを信奉しきれない。アメリカ資本主義の虜になって亡命に走る者たちを愚かだと感じるほどにはインテリだが、しかし政治活動に走るタイプではない。いわば、どっちつかずの非政治的なダメ男。自虐のユーモアがデスノエスのお家芸だ。

 

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(7)キューバとアメリカ(その1)

2015年10月09日 | キューバ紀行

(写真:ハバナ、ベダド地区の猫、「国交回復はオイラの生活にも及ぶのかな?」)

キューバとアメリカ(その1)

越川芳明

2014年の12月半ばに、世界のマスコミは、キューバとアメリカの国交回復のための交渉を大々的に報じた。もちろん、日本のマスコミも例外ではない。それ以来、2015 年7月20日の大使館の再開まで、日本のマスコミがこれほど両国の関係について紙面を割いたことは、最近ではめずらしい。世界同時多発テロ事件以降に、キューバにある米軍のグアンタナモ基地でおきた「テロ容疑者」への拷問事件を除けば、の話だが。  

オバマ大統領は、在位中の「遺産」作りのために、54年も続いた国交断絶にケリをつける決断をしたとも言われているが、それは正しいし、正しくもない。実は、2008年に「Change, Yes, We Can(変化をもたらすことができる)」を合い言葉に大統領に就任して最初におこなった政策のひとつが「制裁の緩和」だった。2009年4月に、キューバ系アメリカ人の渡航や家族への送金を承認したのである。  

これは共和党出身の前ブッシュの「孤立政策(キューバを孤立させる)」から大きく「転換」した「関与政策」(キューバと付き合う)」だった。  私がそれを実感したのは、サンティアゴ・デ・クーバのアントニオ・マセオ国際空港でハバナ行きの便を待っていたときだった。なんと「フロリダ行き」の便の掲示があったのだ。正直、これには驚いた。2008年に初めてキューバに行ったとき、ハバナの宿にニューヨーク在住のアメリカ人が泊まっていて、国交がないから、わざわざメキシコ経由でやってきたと話していた。1962年からアメリカ人のキューバ渡航は禁止されている。  

というわけで、私は好奇心に駆られて、フロリダ行きの列に並んでいた人に、フロリダまでいくらですか? あちらへ旅行で行かれるのですか、それとも移民するのですか? などと図々しく訊いてみた。フロリダまでは片道500CUC(その頃のレートで、5万円ぐらい)、久しぶりに帰省した家族を送りにきたので、自分があちらに行くのではない、という答えだった。それはそうだ。5万円と言えば、キューバ人にとって大金である。  

そのとき、キューバ系アメリカ人には、細いながら、そうしたパイプがあることを知ったのである。ちなみに、ハバナのホセ・マルティ国際空港では、そうした光景は見られない。私たち外国人は国際便が発着するす第1ターミナルや国内便が発着する第3ターミナルを使うが、もう一つ、第2ターミナルという謎のターミナルがあり、キューバ系アメリカ人を乗せたアメリカの飛行機はそこを使っているようなのだ。  

それはともかく、オバマの「関与政策」は、順風満帆(まんぱん)とは言えないようだ。反対勢力がいるからだ。反カストロ派の亡命キューバ人は言うまでもなく、彼らの利益を代表するフロリダ選出の上下両院議員、伝統的に共産主義アレルギーの共和党など。彼らは、グアンタナモ基地の返還や「禁輸措置」解除に反対している。  

だが、微妙なねじれもある。まず、共和党の支持母体のひとつである産業・経済界がオバマの「関与政策」を後押ししていることだ。たとえば、全米商工会議所のトーマス・ドナヒュー会頭は、禁輸措置の解除を求める旨の声明をただちに発表している。読売新聞(12/19/2014)によれば、ドナヒュー会頭は、すでに春先にキューバを訪問し、国家による統制経済が弱まっている状況を視察したという。「中国などがキューバに接近するなか、米産業界には現状のままではビジネスの機会に乗り遅れるという危機感がある」というのが消息筋の見方だ。だから、共和党が「関与政策」に賛成する可能性もある。  

さらに、米国在住のキューバ人の中にも、微妙なスタンスの相違がある。かつて政治亡命したキューバ人は革命政府の転覆を目指したが、米国生まれの2、3世の世代が増えてきて、反カストロ感情が弱まっているようだ。さらに、80年代以降にキューバから逃げて来た難民は、故郷への思いが違う。60年代の亡命キューバ人にとって理想のキューバとは、富裕層が快適にすごしたかつてのキューバだが、難民キューバ人にとって、それは理想郷ではない。革命後に、自分たちが受けることができた教育や治療のことを思えば、貧困に喘ぐことさえなければ、革命以後のキューバの方がいいのだ(1)。

註1 伊藤千尋『反米大陸』(集英社新書)によれば、「マイアミのキューバ系市民90万人のなかでも、革命直後の60年代にアメリカに逃れた政治亡命者は、今や少数派だ。80年代に押し寄せた経済難民や、90年代以降の『出稼ぎ』が、今は多数派を占める。亡命者の子どもたちは、自分をキューバ人でなく、アメリカ人だと考えている。経済難民や『出稼ぎ』は、本国の家族に送金し、年に一度は帰国する。キューバを訪ねるキューバ系アメリカ人は、年間約12万5000人にも上っている。彼らのほとんどは、アメリカによるキューバ経済制裁に反対だ」(189ページ)

(参考) 米国とキューバの最近の関係

2013.6~11 カナダで互いの工作員の釈放をめぐって、両国が秘密交渉

2014.3 オバマ大統領、バチカンでローマ法王と会談

2014夏 ローマ法王、両国首脳に親書、人道問題の解決をうながす

2014.7 プーチン露大統領、習近平中国国家主席がキューバ訪問。とくに、習国家主席は、自国の艦艇(ミサイル駆逐艦)の派遣を確認。のちにキューバがそれを撤回。

2014.10 ローマ法王、両国代表団を招待。 

2014.12.16 両国首脳、国交正常化交渉開始をめぐって電話交渉。政府高官による発表

2014.12.17 両国首脳による声明

2015.1.12  キューバ、政治犯53人の釈放完了

2015.1.21.~22 第1回両国高官協議(ハバナ) キューバ移民問題(米、脱出者の受け入れ)

2015.2.27 第2回両国高官協議(ワシントンDC)

2015.4.11 米州首脳会議の開かれているパナマで、キューバ、アメリカ両国首脳会談

2015.4.14 オバマ大統領、議会に、キューバの「テロ支援国の指定」(1982年~)の解除を通知。

5月29日に解除が発効。キューバへの軍事物資輸出禁止、経済援助禁止、国際金融機関の融資規制などが解除。ただし、「キューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)」*などによる制裁は継続。

2015.3 EU外相、キューバ訪問。カストロ議長らと会談

2014.4 スペインの財界代表団、経済界の幹部を連れてニューヨーク州知事がキューバを訪問。 英国とキューバが経済協定締結。

2015.5.2 日本の岸田外相、キューバ訪問。ラウル・カストロ議長と会談。商社や金融、医療など、日本企業20社25名も同行

2015.5 オランド仏大統領、キューバ訪問。カストロ議長と会談。「(米国の)制裁解除に向け、できるかぎりのことを行なう」と述べる。

2015.5.19 キューバ政府、米国内で銀行口座を開設。

2015.7.20 米国、キューバ国交回復。54年ぶりに互いの大使館を再開。

2015.8.14 ケリー米国務長官、キューバ訪問。

2015.9.29 米国、キューバ両国首脳が国連本部で会談。

* 「キューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法(1996年) 」キューバ革命で米国民から接収された土地や資産への投資など経済活動を行なった外国企業の役員や家族の米国入国を拒否する条項などを持つ。第三国にキューバへの投資をさせないため。解除には、米議会の手続きが必要。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(6)長蛇の列

2015年10月09日 | キューバ紀行

長蛇の列    

(写真:マリアナオ地区の小学生たち)

越川芳明

ハバナでは、人々が道で大勢たむろしている風景をよく見かける。   

日本では「長蛇の列」と言うが、だいたいまっすぐ並ぶ方式である。キューバ人は同じ蛇でも、大雑把にとぐろを巻いている感じである。バス停でもアイスクリーム屋でも、仮に大勢の人が待っているところへ行くとしよう。キューバ人ならば、必ず「ウルティモ?」と、大声を張りあげる。  

最後の人は誰ですか? という意味だ。自分より一つ前で待っている人が誰であるかが分かれば、どこか日陰を見つけてそこで待てばよい。炎天下できちんと列を作って、いつ来るかもしれないバスや自分の順番を待っているより、ずっと合理的だ。そういう意味では、キューバ人(ハバナッ子)は、ラテンアメリカの中では、情に訴えるより、割り切ったモノの考え方をする人たちかもしれない。  

数年前のこと。キューバの大学から研究者ビザ用の招聘状を送ってもらい、東麻布のキューバ大使館で三カ月滞在のビザを作ってもらった。だが、ハバナの空港の税関では一カ月分の滞在しか認めてもらえなかった。市内の税関事務所で更新の手続きをすれば、問題ないと言われた。そこで、期限が切れる一週間前に町の税関を訪ねると、例によって大勢の人が待っていた。  

ようやく自分の番が来たと思ったら、この件では別の税関に行かないといけない、と言われた。そこで、そちらの税関に行ってみた。そこでも大勢の人が待っていた。ようやく自分の番が来た。思ったら、こんどは大学の国際課に行くように言われた。人に道を訊きながら二つの税関をはしごしても、まったく進展がなかった。がっかりすると同時に、不安にもなった。  

社会主義の官僚制は最悪だ。グティエレス・アレア監督の『ある官僚の死』(1966年)という映画では、叔父の死体の埋葬をめぐって、役所のたらい回しの犠牲になる主人公が登場する。そうした役人たちの体質は何年経っても変わらないのだ。役所では、仕事柄、業績主義を取りにくい。市民に喜ばれるどんなに立派な仕事をしたところで、給料や昇級には影響しない。上司に喜ばれる仕事をする者だけが得をする。それは多かれ少なかれ資本主義社会でも同じかもしれないが、市民の声を聞くシステムのない社会主義社会では、権力のピラミッドの底辺に質(たち)のわるい小役人たちが跋扈する。上司には楯を突けないので、市民に対してわざと仕事を遅らせて意地悪をする。意地悪をしたところで、罪に問われないのだから平気である。力の弱い市民は、心づけという名の賄賂を渡して、仕事をしてもらうことになる。  

長蛇の列と言えば、最近では、ハバナのオビスポ通りの「エテクサ」(キューバ電信電話公社)のオフィスの前は、いつも黒山のような人だかりである。電話回線を引きたい人、インターネットをやりたい人、携帯電話を始めたい人、電話代を払いたい人などが、いろいろな目的で道路に群がっている。でも、いちばん多いのは、携帯電話を始めたい人だろう。  キューバ人は待つことに対して、合理的なモノの考え方をすると同時に、 相当に我慢強い印象を受ける。待たされることに慣れているというべきか。  

実は、私たちも、携帯電話のない時代には待つことを厭わなかった。たとえば、私たちは学生時代、駅前で待ち合わせをして、30分や1時間ぐらい待っていても平気だった。ご親切にも、駅には小さな黒板があって、「5時半まで待ったが、先に行くぜ。YK」とか、書き置きをしたものだ。40年前のことである。  

いま、キューバでは急速に携帯電話が普及してきている。市民の時間感覚も、当然、変化するだろう。やがては待つことに我慢できなくなるかもしれない。  

「ほかのラテンアメリカの国では、「アオリタ(英語でナウ)」というと、「いま」を意味するけど、キューバでは「アオリタ」というのは、「あさって」を意味するかもしれない」。キューバの友人はそう言って、キューバ人の時間感覚を笑う。  

ということは、あの小役人は、仕事を遅らせて私に意地悪をしたのではないかもしれない。そうした緩い時間感覚の中に生き、私みたいにあくせく仕事をすることに意味を見いだせなかっただけなのだろう。

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ロベルト・コッシーのサッカー部長日記(25)

2015年10月08日 | サッカー部長日記

(写真:神大のシュートをぎりぎりで防ぐGK服部 (c)明大サッカー部マネ—ジャー日記)

10月3日(土)  

千葉の東総運動場で、第1試合(11時半より)に神奈川大学との試合があった。なんでこんなところまで?と思えるくらい東京からは遠い。むしろ、私の実家、銚子からほんの目と鼻の先である。母親の実家が旭市なので、そこからはもっと近い。逆に言うと、選手=学生たちがかわいそうだ。会場の設定や運営を取り仕切る学連のスタッフ(おもに学生)の努力にも頭がさがる。  

「明スポ」の最新号に、「聖地なき大学サッカー」というタイトルのコラムが載っていて、その通りだと思った。六大学野球には神宮球場があり、大学ラグビーには秩父宮があるのに、大学サッカーにはメインとなる球場がないのだ。確かに、関東では西が丘があるが、使える回数がひどく限られている。  

これは日本サッカー協会が大学サッカーを軽視していることの証しである。

「聖地」は、求心力を生み出す。選手だけでなく、一般の観客の心もそちらへ向かう。マスコミも扱いやすくなる。  

人々の目は、つねに代表チームにいくが、代表チームを本当に強くしたかったら、下部の組織を強化しなければダメである。つまり、下部の層が厚ければ厚いほどよいということだ。そんなことは素人でも分かるのに。  

ユース、高校のサッカーに力を入れても、大学のサッカーには力を入れない。日本サッカー協会はバランスがわるい。大学を経て、Jリーグに入り活躍している選手が大勢いるというのに。次の長友や武藤を輩出したかったら、はやく「聖地」を作るべきではないか。    

さて、神奈川大戦である。あとで振り返ると、神大は明治をよく研究してきた。研究してきただけでなく、それをよく実行した。それは、一言で言えば、守備におけるプレスということではないか。中盤から激しい当たりで、明治に自由にボールをまわさせない。明治は、仕方なく後ろにまわすか、中盤でのパスまわしを省略して前にロングボールを蹴らざるを得ない。  

神大は、180センチ大の選手を大勢そろえていて、ゴール前にボールをあげても簡単に弾かれる。  

前半は、最初のうちだけ道渕諒平(農3)や瀬川祐輔(政経4)が攻めあがりはしたが、そのうち攻撃の手を失って防戦一方。それでも、ゼロで抑えて後半を迎える。ハーフタイムでは、三浦ヘッドコーチから、守備から攻めへの切り替えを早くするように、との指示がある。スローイングをはじめ、リスタートがのろい。それで、相手の守備網に引っかかっている、と。  

栗田監督からは、こういう内容の悪い試合でも、まだゼロで抑えていることをポジティヴに捉える発言がある。こういう悪い流れでも、最後には勝つことも覚えようというわけだ。監督はこの試合だけを考えているわけではない。選手とチームの「成長」をつねに意識している。

後半は、向こうも脚が止まってくるはずだから、チャンスは来る、と。  

栗田監督の予想通り、後半30分を過ぎると、明治が攻め込む時間が長くなり、流れは明治にきた。あとはFWの誰かが得点を入れるだけ。後半16分には、道渕に代わり櫻井敬基(政経2)を、35分には藤本佳希(文4)の代わり土居柊太(政経2)を、45分+ロスタイムには早坂龍之介(法3)の代わりに丹羽詩温(文3)を投入し、攻撃モードを加速させるも、いま一歩及ばず、0-0の引き分けに終わった。  

きょうのヒーローは、強いて言うなら、GKの服部一輝(法3)だろうか。前後半に一回ずつ、枠内にとんだシュートをぎりぎりで防いだシーンがあった。その他にも、よく声をだして、選手とコミュニケーションをとっていたし、DF陣のリーダー山越康平(法4)と一緒に落ち着いてプレーをしていた。  

試合後、選手たちに「君たちは優勝したいの?」と2度聞いた。答える選手の声が小さかったからだ。別に選手を叱ったわけでも挑発したわけでもない。いまは苦しいかもしれないけど、最後には「優勝して笑いたいの?」と聞いただけである。噴火や地震をおこす火山性マグマは困るが、選手たちの心の中のマグマはそろそろ活発になってほしいものである。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(5)死者の声

2015年10月08日 | キューバ紀行

(写真:パンの木の実 ハバナのラリサ地区)

死者の声      

越川芳明

ビクトルの母親が亡くなったらしい。ある朝、師匠が私にそう告げた。ビクトルは師匠の子供の頃からの親友である。実は、ビクトルも司祭歴10年のババラウォである。  

若い頃は商船の船員をしていて、日本をはじめアジアにも旅したことがある。スペイン語以外にも、英語も堪能だ。プッシーとか、人前で絶対に言ってはいけないスラングもいろいろと知っているが、もちろん、普段はそんな言葉は使わない。  

ハバナのマリアナオ地区にあるビクトルの母親の家は、何度か訪ねたことがある。広い通りに面した小さな二階建ての家で、周囲に金網を張り巡らしていた。金網には植物の蔓が巻きついて、日除けの役目を果たしている。  

私と師匠は、乗り合いタクシーを降りると、ビクトルの家まで歩いていく。儀式の前にちょっと寄っていくのである。入口のドアのすぐ向こうにある小さな部屋で、冷たい水をもらい、喉をうるおしながら仕事の打ち合わせや世間話をする。そんなときに、母親が奥の部屋からぬっと顔を出して、私たちと挨拶をかわす。  

彼女がどんな顔つきをしていたのか、思い出そうとしても、記憶がはっきりしない。むしろ、彼女はすでに死者の仲間入りをしているかのように影が薄い存在だった。  

人間の死をめぐっては、あるアメリカ作家が面白いことを言っていた。その作家によれば、人間は長く生きていると、魅力的な穴があいてきて、その穴から死者たちが招き入れられるのだという。体の中が死者たちで一杯になったら、その人間は死ぬ。死んだ人間はどうなるのか。別の人間の魅力的な穴を見つけ、その中に招き入れられるのだという(1)。

ハリウッドであれば、ゾンビ映画に仕立てそうなこの発想には、はっとさせられた。いつの頃からか、私は生きている人より死んだ人のほうに惹かれるようになった。果たして、私には魅力的な穴はあいているのだろうか?  

夕食をとってから、私たちはマリアナオ地区へ向かった。師匠のパートナーと、高校三年生の娘も一緒である。外はすでに真っ暗だった。  

薄暗い葬儀場の前の通りには、いくつかのグループが散らばって、ひそひそ話をしていた。まるで獲物を襲ったあとのハイエナみたいに未練が残り、その場から立ち去れないでいるようだった。  

私と師匠だけが外の石段をのぼり葬儀場の中に入っていく。師匠は奥まった方へ廊下をどんどん歩いていく。すると、右手に壁を取り払った葬儀室が見えてくる。棺が上座に置かれている。棺に直角をなすように2列に親類縁者が向かい合うようにすわっている。廊下にも椅子がおいてあり、葬儀室に入りきれない人々がすわっている。音楽はいっさいかかっていない。人々の囁き声だけが、夏の夜の虫の音のように耳に響いてくる。  

ビクトルは廊下の椅子にすわっていた。師匠と私はそこまでに歩いていき、一人ずつビクトルとハッグをした。彼は赤い目を腫らしている。私はティッシュに包んだ紙幣をポケットから出して、ハッグするときに彼にそっと手渡した。ビクトルは、何のことか分からず一瞬ためらったが、それを受け取った。キューバには香典という考えはないのかもしれない。 でも、そんなことはどうでもいい。 

私たちは棺までいき、蓋があいているところから、ビクトルの母親の死化粧を見た。私は、そのとき初めてビクトルの母親の顔を見たような気がした。乾いた肌に白粉が塗られていて、古びたチョコレートみたいだった。黒地に白っぽい粉が浮いている。頬と唇にうっすらと紅をさしていた。でも、死者の顔には、まるで永遠の生命力があるかのようだった。きっとこうした生命力のある死者が、魅力ある生者の中に招き入れられるのだろう。  

私たちは空いている席にすわった。となりの葬儀室でも、静かに死者との最後の夜を過ごしていた。  

しばらくすると、師匠が立ち上がった。私たちはもはやビクトルには挨拶せずに外に出た。師匠のパートナーと娘が待っていた。彼女たちはやって来たものの、死者と対面するのが怖いと言う。ちょっとしんみりとなった。外にいる人たちはその場から立ち去れないのではなく、彼女たちと同じ理由で中に入れないのかもしれなかった。  

私は景気づけにある提案をした。近くの店でアイスクリームをおごる、と。それはひょっとしたら、私の口を借りて出たビクトルの母親の声だったかもしれない。アイスクリームと聞いて、二人の女性の顔には笑みが浮かんだ。  

註1 ハリー・マシューズ(木原善彦訳)『シガレット』(白水社、2013)、369ページ。

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10月6日(火)のつぶやき

2015年10月07日 | サッカー部長日記

ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(3)モノを大切にするわけ goo.gl/tvcojf


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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(4)無駄足は無駄足ではない?

2015年10月07日 | キューバ紀行

(写真:ハバナのマリアナオ地区から来たという大家族)

無駄足は無駄足ではない?  

越川芳明

確かにキューバは経済停滞が著しい。日本に比べれば、店にはモノが少ない。まず、どこの店に何があるか、捜す必要がある。だから、買う気がなくても、ときたま店の中を覗いて、どの店にどんな品物があるか、在庫を知っておくことは大切だ。  

いざと言うときに、無駄足を避けることができるから。  

だが、実は、無駄足は無駄足ではないかもしれない。  

キューバ人は、街で友人や知人たちと挨拶をかわしたあと、細かい情報交換をしている。これもモノ不足が常態化しているから、その対応策と言うべきだろうか。目指す品物に出くわせなくても、そうやって新たな情報や品物を得られるかもしれないから、無駄話もばかにできない。  

あるとき、街で得てきた情報をもとに、師匠がカンピスモ(キャンピング)に行かないか、と私を誘う。きれいなビーチに行って、二、三日のんびりバカンスを過ごそう、というのだ。もちろん、師匠にはそんな経済的な余裕はない。もし私が行こうと言えば、旅費は私が負担することを意味する。  

「どのくらいかかるのか」と尋ねると、にやりと笑って、「それがものすごく安い」と答える。さらに、「どのくらい」と突っ込むと、8人乗りの貸し切りの自動車(運転手付き)と、寝室2つと台所のついた一軒家をまるごと貸し切るという。「3泊しても、たったの160CUC(約20,640円)さ」  

人のカネをアテにしながら「たったのXXX」という言い方が少々気になるが、確かに、世界的なリゾートであるバラデロ(マタンサス州)のホテルで過ごそうと思ったら、交通費・食事込みで、1人1泊3万円はくだらない。  だから、この「バカンス」はひどく格安に思える。昔から、日本では「安物買いの銭(ぜに)失い」とか「安物は高物」と言うではないか。安物買いは、かえって損をする。  

だが、師匠によれば、向かう先はプラヤヒロンだという。バラデロはキューバ島の北側、メキシコ湾流に面したビーチだが、プラヤヒロンは南側、カリブ海に面したビーチだ。ハバナ市内から200キロほど。高速道路を車で飛ばせば、2時間半ぐらいで着く。  

プラヤヒロンは、英語では「ピッグズ湾」とも呼ばれ、キューバ革命直後の1961年4月に、亡命キューバ人からなる部隊がCIA(米中央情報局)の支援を受けて武力侵攻を試みた歴史的な舞台だ。彼らはカストロの指揮する革命軍の反撃に遭ってあえなく敗れ去る。  

ビーチから100メートルほど離れたところに博物館があり、庭には当時の戦車が2台、戦闘機が1機飾られている。戦没者の名前を刻んだ慰霊碑があり、フィデル・カストロの言葉が添えられている。「いま、どんな場合でも、死にゆく者は、キューバの人として、プラヤヒロンの人として死ぬだろう。それだけのために、真理のために、放棄できない独立のために」と。  

しかし、プラヤヒロンの浜辺には、かつての戦場の面影はひとつもない。ビーチから1キロほど離れたところに住宅地があり、ほとんどの家が民宿をやっているか、レンタルハウスの看板を出していた。  

ビーチは遠浅で、200メートル沖に大きく長い堤防が走っていて、波がビーチに押し寄せないようになっている。キューバ人は冷たい水が苦手のようで、温泉のようにぬるくなった水に浸かってのんびりしているのが好きなようだ。  

浜辺を歩いていくと、水に浸かっている黒人女性の家族から、「中国人(チノ)!」と呼びかけられた。見るからに、祖母を中心に母と叔母、娘といった感じである。  

私が「前にいる日本人!」と、応じると、彼女たちはケラケラと声で笑った。「背後にいる中国人(は不吉)」というキューバの諺をひねってみたのだ。  

彼らはそれほど裕福そうに見えないが、一軒家を貸し切って、格安のバカンスを楽しんでいるのだろう。カネがなくてもモノがなくても、人生は楽しめる。幸福のかたちは、ひとつではない。彼女たちの笑顔がそのことを表わしていた。

 

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(3)モノを大切にするわけ

2015年10月06日 | キューバ紀行

(写真:ハバナのベダド地区の野菜市場、大きいキューバのアボガド)

モノを大切にするわけ

越川芳明 

  キューバでは、一日のうちに必ず水道の水が出なくなる時間帯がある。だから、たいていの家庭は貯水タンクを備えている。ちょくちょくある停電も困る。しかし、停電も、考え方次第ではポジティヴに捉えることができる。テレビも何も見られないのだから、さっさとベッドに入るしかない。そうすれば、一日の疲れを癒す睡眠時間が長く取れるし、パートナーがいれば、愛を確かめる時間ができる。

 確かに、キューバでは、ガスや水道、電気、道路、電話、インターネットなどのインフラが整備されているとは言えない。

 とはいえ、インフラ整備が遅れていることは、果たして「不幸」なのだろうか。

 確かに、私たちは「不便」でない生活のほうがよいと感じる。私たちは18世紀の蒸気機関の発明を転機にして、生活の快適さや効率のよさを追い求めつづけてきた。いま先端産業はハードな重工業からソフトなハイテクへとシフトしているが、「不便」は「不幸」、「便利」は「幸福」といった基本的な「等式」は変わらないままである。

 果たして、産業文明の根底にあるそうした「等式」は、正しいのだろうか。

 インターネットが整備されて便利になったが、真夜中に同僚からどうでもいいメールが届き、目が覚めてしまい眠れなくなった。そういうグチをこぼした友人がいる。

 あるとき、私の同僚の一人が、『赤毛のアン』の中にあるエピソードを教えてくれた。アンのいる村にも電話が開通することになり、どこの家でも「便利さ」を求めて、電話を引くことに躍起になる。約100年前のことだ。他人の家の出来事が手に取るように分かるようになる。だが、一人だけある老女が電話回線を引くのを拒む。老女は最新の情報機器を「モダン・インコンビニエンス」だと言い切る。私の同僚はその老女の言葉を「現代の不便」という直訳でなくて、ほかにうまく意訳できないか、思い悩んだという。そして、とうとう「便利は不便」という日本語訳を思いついた。

 キューバは慢性的なモノ不足に悩まされている。キューバ政府は、それを米国の経済封鎖のせいだという。60年代からずっとその被害を被ってきたのだ、と。確かに、その通りかもしれない。だが、賢明な庶民は怒りを募らせたりしない。そんな口実は何十年も聞かされてきた。アメリカに腹を立てても、腹はふくれないのだ。むしろ、庶民はモノを捨てないで、大切にする習慣を身につけた。

 そうした姿勢が端的に表れているのが、米国に亡命した富裕層が置いていったアメ車の存在である。世界広しといえども、50年代のクラシックカーが現役で走っているのはキューバぐらいなものだろう。ガソリンが恐ろしく安かった時代に製造されたので、ボディは重たく頑丈な鉄板だ。内装は現在の所有者によって改造されていて、応接間のソファみたいなゴージャスな座席から硬い木板まで千差万別。ダッシュボードのメーター類はまったく動かないが、オーディオデッキは必ず取り付けてある。それにメモリーフラッシュを差し込んで、レゲトンやサルサなどを大音響でかき鳴らす。ボンネットを開けてもらわなくても、エンジンは分かる。たいてい日本製か韓国製、あるいは英国製かドイツ製だ。モノがなければ、人は工夫をする。修理の技術も磨かれる。

 一方、日本では、スーパーの売り場に象徴されるようにモノが溢れている。モノがたくさんあることが「幸福」であるかのような幻想をつくりだしている。だが、すべての現象には利点があれば、欠点もある。モノの欠点は、人間の欲望と同様に、キリがないということだ。だから、モノに取り憑かれた人間は幸せになれない。この辺でいいや、と満足できないから。

 いま、日本ではそうした行き過ぎた消費生活を見直す「里山資本主義」という思想が語られ始めている。モノが必ずしも幸福をもたらさない、ということを私たちは学んだ。それに対して、キューバは、いま社会主義から限定的な市場主義へと舵を切り、いわば「プチ消費主義的」な世界へ移行しようとしているように見える。

 

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