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井上井月の一句鑑賞      高橋透水

2014年01月17日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  袴着や酒になる間の座の締り      井月

 下島勲五歳(七歳とも)の袴着の儀における井月の祝句である。袴着の儀式の緊張感と、それを終えて祝宴になるまでの座の高揚感が伝わってくる。
 井月の良き理解者であった勲の父筆次郎は息子の袴着に井月を招待したのである。井月はその時の饗応のお礼に、一句を京短冊に認めて贈った。明治八年のことで、時に井月は五十四歳になっていた。奇しくも井月の出身地と思われる越後の元長岡藩主牧野忠訓の病死した年であった。
 さて、下島勲は後に弟の富士と井月の句や書などの遺業を発掘することになるが、その動機になる運命的な出会いがあった。勲(雅号空谷)は、長野県上伊那郡中沢村(現駒ヶ根市)生れ。軍医として日清戦争・日露戦争に従軍、退役後に東京市画外田端(現北区田端)で「楽天堂医院」を開業。田端には、大正の初めころから芥川龍之介の家族他、板谷波山、山本有三、室生犀星ら多くの文人、画家、彫刻家などがやって来て、勲との交流が深まった。
 勲は医師であったが俳句、画をよくし、能書家でもあった。龍之介とは特に親しくなり、井月の俳句と書を高く評価して勲に発掘を勧めたのである。ある日、勲は龍之介と井月の話していると、子供の頃に井月に石を投げた時の光景が蘇った。朧げながら袴着の時にいた井月のことも。
 いつも訳の分からないことをぶつぶつ言って、酒が出ると「千両、千両」を連発する。村人の大半は「乞食井月」と毛嫌っていたが、勲の父と母は違っていた。「井月という男は、姿を見るとこじきだが書を見るとお武家さまだ」「この人は身なりは乞食だが、その学殖の高さ、墨書の見事さは正に京のお公家さんだ」と語っていた父のことを思い出した。勲には故郷と井月が無性に懐かしくなった。
 龍之介に説得され、勲は井月を顕彰するのは今の自分しかないと考えた。そして駒ヶ根にいる弟の富士に早速井月の発掘蒐集を頼んだ。富士は快く承諾し、兄と協力しながら井月の遺墨蒐集とその解読に労した。富士は長野県の赤穂村で薬種業を営みながら、俳号を五山と名乗り句作する人でもあった。結果、大正十年の『井月の句集』、昭和五年の『漂泊俳人井月全集』の出版の道が開かれた。勲も然る事ながら富士の功績は多大であるといってよいだろう。

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 井上 井月(いのうえ せいげつ、文政5年(1822年)? - 明治20年2月16日(1887年3月10日)は、日本の19世紀中期から末期の俳人。本名は一説に井上克三(いのうえかつぞう)。別号に柳の家井月。信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた。その作品は、後世の芥川龍之介や種田山頭火をはじめ、つげ義春などに影響を与えた。
(ウィキペディアより)

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