学校時代 テストが近づくと それまで勉強続けて居れば良いものを 前日になって猛勉強したものである
社会人になって多くのの資格試験に取り組んだが これも前日にある程度山勘にかけて成功したものだ
昨日のてんがらもんラジオのゲストさんの歴史 人物に至っては全く予備知識が無い それも数名出てくる
先ずはメモ 人物の名前の字も分からない かなで書いておく 次々と知らない名前が出てくる
午後は下町のうたごえ 想いきりピアノで楽しく伴奏して いつもの様に楽しむ
早い夕食も済ませて帰り さて 何からまとめようかとメモを見る
主要人物 桂庵玄樹 (けいあんげんじゅ)を知っている方は 地元の方かマニアックな歴史好きな方である
この人物を中心に一夜漬けの猛勉強(笑)で知りえたことを 時系列に書いて見た
次は 出てきた人物と どう 関わり合いがあるのかと相関図にしなくては 私には結びつかないのだ
私が車の安全祈願に神田明神に毎年行く この近隣に 神田昌平坂学問所がある
江戸時代から 家康の庇護を受けて江戸幕府直轄 多くの文化人 武士などがここで学んだ
当時の学問は おもに朱子学であり 先ずは朱子学とは何か? ここでも応えられる方は珍しいと思う
湯島聖堂
さて 桂庵玄樹 この方のお墓が 鹿児島・FM銀河があった 伊敷という地にある
彼は周防(すおう)山口の出身 16歳のとき出家 南禅寺の僧に学ぶ 難しいので名前は他も含めて省く
その後 当時の中国・明に渡り ここで朱子学などを6年間学んで帰朝した
時は応仁の乱の前後 京都は権力争いに巻き込まれ 略奪 放火 殺戮など荒廃していた世の中だった
彼は儒学などにも長けており 肥後の菊池氏 薩摩の島津氏から要請を受けて 講義などを行ってきた
特に薩摩の島津日新(じっしん)公忠良はこの朱子学を尊重 以後 藩教学の骨格となったのである
これを『薩南学派』と呼び 一方では土佐には『南学』があり学問の両雄となっており 維新の活躍に繋がる
桂庵玄樹は桂樹庵を建て 弟子の島津日新(じっしん)公は 鹿児島・加世田で これをいろは歌に詠んだ
47首あり これが薩摩の郷中(ごちゅう)教育の規範ともなって行く 先輩から後輩への教育の場だ
因みに 島津日新(じっしん)公は後に 日新寺に祀られるが 明治の廃仏毀釈で 現在は竹田神社にある
ここの参道には いろは歌の歌碑があり 現代の私たちに教えを広めているのだ
桂庵玄樹は朱子学の『大学章句』を日本で初めて本を出版した
また漢文のみの学問は難しいと 現代で言う 句読点 レ点なども発明して意味を分かりやすく説明した
大学とは 天下を平らかにするリーダーを養成する場所 なんと意義深いことか
やがて朱子学は全国へ普及 ここに 林羅山が登場するのである 冒頭の神田・昌平坂学問所である
もともとは上野忍岡にあったが 現在の湯島聖堂近くに幕府直轄で開校したのである
林羅山は建仁寺で仏教を学んだ方 現在もある孔子廟も建立 江戸初期の朱子学を教える
藤原 惺窩(ふじわら せいか)は林羅山の師である 元は冷泉家の公家だが 明に渡って朱子学を学ぶ
家康は この藤原 惺窩に仕官要請をしたが これを断り 林羅山を推挙したのである
林羅山はすごい 文章は五行を一度に読んで行く頭脳 たちまち 家康のブレーンとなっていった
この学問所から佐藤一斎が輩出する 彼の門下生は3千人とも言われ佐久間象山や渡辺崋山など多い
佐藤一斎は 40年かけてまとめた 『言志四録(げんししろく)』 は1133か条にも上る
そのうちの101か条は 後に西郷隆盛の愛読書となって 彼の思想にも大きな影響を与えた
島津久光に嫌われて沖永良部に流された時も この本を繰り返し読んでいたと言う
鹿児島の伊敷と言う地にある 桂庵玄樹の墓 生き方を話されたが ここにあげた人物がすべて語られる
余りにも広すぎて 部分的にただ聴いた どんな人物の理解 歴史は 私は頭に残らなかった
それもラジオだから もう少し工夫して 絞り込んで分かりやすく話された方が良い これが感想でもある
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