- エディット・ピアフ Edith Piaf -
<シャンソンの代表曲>
シャンソンという言葉は、フランス語で「歌」を現す言葉です。したがって、特定のリズム・パターンや楽器編成を現すものではありません。と言うことは、「シャンソン」はフランス語で歌われる歌謡曲、ポップスということになるわけです。しかし、我々日本人にとっての「シャンソン」は、明らかにひとつの音楽ジャンルのことであり、そこにはアコーディオンという楽器の存在や何曲かの名曲の存在が大きな影響を与えているようです。イブ・モンタンの「枯れ葉」やアダモの「雪は降る」などは、ある意味シャンソンのイメージを決定づけた作品ですが、それ以上にシャンソンの代名詞とも言える作品が、エディット・ピアフの「愛の讃歌」だと言えるでしょう。
彼女こそ、世界中の人々が「シャンソン」と聞いてイメージするある種の音楽スタイルを確立したアーティストなのです。もちろん、現在のフランスにおいて、彼女のシャンソンは過去のものとなっています。その点では彼女はオールド・スタイル・シャンソンの確立者であったと同時に、最後のアーティストであったとも言えるようです。
<ストリートが生んだ孤独なヒロイン>
エディット・ピアフがこの世に生まれ落ちたのは、1915年12月19日、クリスマスを目前にしたパリの下町ベルヴィルの路上だったと言われています。(実際は、ちゃんと病院で生まれたらしいのですが・・・)父親のルイ・アルフォンス・ガション Louis Alphonse Gassionは、ストリートで逆立ちなどの軽業を披露する大道芸人で、母親のアニタ Anita Maillardもストリートで歌う歌手でした。そんな貧しいその日暮しの夫婦の元に生まれた彼女は筋金入りの「ストリート・チルドレン」でしたが、母親の家出によって必然的に彼女は「ストリート・シンガー」の道をも歩まざるを得なくなりました。こうして、ある日病に倒れた父親に代わって、彼女が歌える唯一の歌「ラ・マルセイエーズ(フランス国歌)」を歌った時、彼女の歌手人生はスタートしたのです。
<ストリートのアイドルへ>
15歳の時、彼女は酒癖の悪い父親に嫌気がさし、ついに家を出ました。彼女は一人街角に立って歌うようになったわけですが、下町のいかがわしい繁華街で生き抜くため、自ずと強い女へと成長してゆきました。(パリでは無許可営業のミュージシャンは取締の対象になったので、彼女は何度も警察に逮捕されたようです)後に彼女が国民的な人気者となってゆくのは、彼女のこうした叩き上げの人生と反権力的な生き方が、フランスの国民性にマッチしたからだと言えそうです。
<ストリートから舞台へ>
1935年、そんな下町のアイドルに大きなチャンスが訪れました。ある一流クラブが、彼女の人気と実力に目を付け、専属契約を申し出てきたのです。こうして、20歳のピアフは、ついに屋根付きの舞台に立つことになり、すぐにシャンソン界の人気者になって行きました。
1937年には名門のABC劇場でのステージを成功させ、いっきにトップ・スターへの階段を駆け上がり始めます。しかし、運命はいつまでも彼女に微笑み続けてはくれませんでした。それどころか運命は、彼女を含むフランスの全国民を不幸のどん底に突き落としたのです。
<ナチス・ドイツ占領下のパリにて>
1940年6月14日、フランス領内に侵攻していたナチス・ドイツは、ついにパリを占領。フランスはドイツの占領下に置かれることになりました。彼女にとっても、フランス国民同様辛い日々が始まりました。ナチスの占領下において、アーティストたちはナチスに反抗して地下に潜るか、彼らのプロパガンダ活動に協力するかの二者択一を迫られました。いかに強い女性とはいえ、彼女がナチスと闘うことは不可能だったため、しかたなく彼女はナチス主催のパーティーで歌ったり、捕虜収容所でフランス人のために歌ったりする生活を始めました。(と言っても、後に彼女はこの時のことを「ナチスという連中がどんな奴らかを見たかったから出演したのだ」と言っているのですが)しかし、さすがは反骨のストリート・ファイティング・ミュージシャンだけあって、その後彼女は自分の立場を利用して、ナチスへのレジスタンス活動を展開して行きます。それは、慰問先の捕虜収容所から何人かの捕虜をバンドのメンバーに紛れ込ませて脱走させるという、まるで映画のような作戦でした。
<ドラマを求める人生>
戦争中、それだけ危険な行為に荷担していながら、彼女はけっして熱烈な愛国者ではなかったようです。もしかすると、彼女は自分が挑んでいる「危険な賭け」に喜びを感じていたという説もあるくらいです。その後の彼女の人生に見られる数々の恋愛ドラマもそんな彼女のドラマチック大好き人間的性格の成せる技だったのかもしれません。そして、それが彼女の歌のもつドラマ性と独特の表現力の源になっていたのかもしれないのです。
ピアフのシャンソンを「真実を歌うシャンソン」と呼ぶそうですが、それも彼女のそんなドラマチックな人生があったからこそ可能だったのかもしれません。
<ラヴィアン・ローズ>
彼女の人生において「恋」こそが最大のエネルギー源だったこともまた間違いないでしょう。なかでも有名なのは、年下の大スター、イブ・モンタンとの恋です。と言っても、この恋には、師弟愛という側面もあり、単純な恋とは言えないかもしれません。第二次世界大戦が終わり、ナチス・ドイツの占領から解放された喜びと若いイブ・モンタンとの恋の喜びは、彼女の代表曲のひとつ「ラヴィアン・ローズ」を生んだと言われています。
デビュー当初は、ジャズーポップス系のアメリカナイズされた歌手だったモンタンを、ピアフは一から教育し直し、フランスを代表するシャンソン歌手へと育てあげました。しかし、彼がピアフと肩を並べるほどの人気歌手に成長した時、すでに二人の恋は終わりを向かえていました。
<愛の讃歌>
そしてもうひとつ、彼女の人生を変えた「至上の愛」は、あの名曲「愛の讃歌」を生みました。それが、プロ・ボクシングの世界チャンピオンだったマルセル・セルダンとの恋でした。世界的に有名な二人は、忙しいスケジュールの合間を縫って、愛を確かめ合っていたが、1949年ニューヨークで公演中だったピアフに会うために乗ったマルセルの飛行機が大西洋上に墜落、わずか一年の短い恋は、セルダンの突然の死により、悲劇の結末を迎えました。
セルダンの突然の死にピアフは、立ち直れないほどのショックを受けましたが、歌に人生のすべてを捧げてきた彼女は、この悲劇をもひとつの歌にしてしまう力をもっていました。こうして、生まれたのがあの名曲「愛の讃歌」だったというのが、かつての定説でした。
しかし、最近になってこの曲はマルセルの死の以前に書かれていたことがわかりました。ピアフは、妻子がいるマルセルとの愛に自ら幕をおろすため、この曲を作ったらしいのです。したがって、自分が歌うのではなくイベット・ジローにこの曲を歌ってもらうことになっていたというのです。ところが、マルセルの死によって、別れは突然に訪れてしまったのです。そこで、彼女は急遽この歌を自ら歌うことを決意したというのが、真相だったようなのです。
こうして、シャンソンを代表するだけでなく「愛の歌」を代表する名曲として「愛の讃歌」が生まれたのです。
<シャンソン旧世代の女王>
こうして彼女は、1963年48歳の若さでこの世を去るまで、フランスでは別格的な人気を保ち続けました。そして、彼女の死とともに戦前から続いてきた古いタイプのシャンソンの時代は終わりを告げ、新しいシャンソンの時代を生み出して行くことになるのです。
「世の中のことなんて、どうでもいいの
ただあなたが愛してさえくれれば・・・
あなたが死んでも私は平気、あなたが愛してくれれば
私も死ぬのだから・・・」
「愛の讃歌」より
<締めのお言葉>
「エディット、君は僕なんかより、ずっと素晴らしい仕事をしているんだね。あの人たちを幸福にするのが君の仕事なんだ」
マルセル・セルダン
※この文章は下記のホームページより
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/edith-piaf.htm
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