お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「鉄腕アトム」白黒版のみ、DVDがありました。「アテンションプリーズ」は無かった。

2005年11月26日 | 映画・DVD・ビデオ
鉄腕アトム Complete BOX 1

コロムビアミュージックエンタテインメント

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「鉄腕アトム」のカラー版はDVDになっています。でも、僕にとっての「アトム」は、昭和38年1月1日にフジテレビで放送の始まった「白黒版」です。最初は、「アトムの足音」も「キュキュ」とは付いておらず、無音だったそうです。
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「アテンションプリーズ」と「鉄腕アトム」の歌い出しは似ている。

2005年11月26日 | 歌・CD
テレビドラマ「アテンションプリーズ」の主題歌の最初と「鉄腕アトム」の主題歌の最初が似ている事に気付いた。

「アテンションプリーズ」の一番の歌詞は、

陽に光り ひらける波を 今私は見る
アテンションプリーズ アテンションプリーズ
ゆれ動く 愛の雲間を ひとすじに
つづく私の エアルート エアルート
恋人は ここにもいないかもしれない でも
私は飛ぶ 私は飛ぶ 私は飛ぶ 飛ぶの

である。作詞が岩谷時子だったのには、びっくりした。「越路吹雪」のマネージャーであり、あの「愛の讃歌」を日本語に訳詞した人だからである。

「鉄腕アトム」の歌詞は、

空を越えて ラララ 星のかなた
ゆくぞ アトム ジェットの限り
こころやさし ラララ 科学(かがく)の子
十万馬力(じゅうまんばりき)だ 鉄腕(てつわん)アトム

耳をすませ ラララ 目をみはれ
そうだ アトム 油断(ゆだん)をするな
こころ正し ラララ 科学の子
七つの威力(いりょく)さ 鉄腕アトム

街角(まちかど)に ラララ 海の底に
きょうも アトム 人間守って
こころはずむ ラララ 科学の子
みんなの友達 鉄腕アトム

である。

どちらかをイントロから歌い出してみるといい。突然、反対の曲を歌いだしたくなるから。

こんな発見・・・どうなのよー
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黄色いボタン

2005年11月26日 | 歌・CD
「ネットワークウォークマン」を聴いていて、そういえば、「初代ウォークマン」には、本体の上の所に「黄色いボタン」がついていて、誰かと話す時とか、周りの音を聞きたい時、そのボタンを押すと、「音楽が聴こえなくなる機能」になっていた。もちろん、ボタンを押して、周りの音を聞いている間も「曲」はどんどん流れていくのだが。

もう、二代目には、そうした機能は無かった様な気がする。CD・MDウォークマンは手元のスイッチでボリュームを下げれば、周りの音が聞こえる。「ネットワークウォークマン」でボリュームを下げようと思うと「本体」で操作しなければならない。手元のスイッチが無くなっているからだ。

ふと、蘇った記憶の断片・・・。
http://www.interq.or.jp/www-user/soeda/saki/walkman.htm
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「レントゲン」は「被爆」なのだろうか・・・

2005年11月26日 | 病院・薬・病気
毎年、僕と妻は会社の指定する病院で「人間ドッグ」を受けている。しかし、妹のダンナは医者だが、絶対「人間ドッグ」は受けないと言う。
理由は「被爆」するから。つまり、レントゲンである。
僕たちの言っている「人間ドッグ」でも、胸のレントゲン、バリウムを飲んで「消化器系」のレントゲンと、いろんな角度から何枚もレントゲン写真を撮る。

「人間ドッグ」が終わった日は、体がだるかったり、痒かったりする。その症状がレントゲンを何枚も撮って「被爆」したせいかどうかは分からないが、医者である義弟が「絶対受けない」と言っているので、不安を持って毎年、「人間ドッグ」に行っている。
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「ショパン猪狩さん」の訃報。

2005年11月26日 | エッセイ・日記・意見
ショパン猪狩さんの訃報が今日の朝刊に載っていた。享年76歳。最初は誰の事か分からなかったが、死亡記事を読んでいくと、「東京コミックショウ」を率い、笛の音に合わせて、人形のヘビがかごから躍り出るショーで人気を集めた・・・と書いてある。

思い出した。よくお正月の演芸番組で、3つの穴から手先にヘビの人形を被せたものを出し入れし、笑いをとる芸をやっていた。

自分が歳をとると、子供の頃に自然に見ていた「タレントさん」「有名人」「作家」等が実は、高齢になっていて、突然、新聞紙面などで知らされると、「あの人も、こんなに年取っていたのか・・・」と驚き半分、喪失感半分という気分になる。

親しい新聞記者と飲んでいて、聞いた話だが、そういう高齢或いは重病で入院している「世間一般がよく知っている有名な人」の訃報記事は予定稿が既に書いてあるのだそうだ。

今、映画「ALLWAYS 三丁目の夕日」がヒットしている。昨夜の「越路吹雪」のドラマもそうだと思うが、「昭和という時代への回帰」をみんなが求めているのかもしれない。
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「前説」

2005年11月26日 | テレビ番組
「前説」というのを御存知だろうか。番組の「収録」或いは「生放送」の前に、スタジオにお越しのお客さん達に、「注意事項(携帯の電源を切っておくとか、トイレは早めに済ませてておくとか)の最低必要な情報を伝える事。それと「収録前」にお客の雰囲気を盛り上げておく事。大きく言えば、この二つである。

よく若手のこれから売り出す漫才コンビにやらせている番組もある様だが、うちの会社が制作している「あるバラエティー番組」の「前説」は多分、第1回目から、A君という、今では「演出」担当のスタッフがやっている。この番組の司会は「お笑い界の大物」。その司会が出てくるまでに、「コンビニのレンジ」ではないが、お客さんのテンションを上げるだけ上げておく。そして、司会登場。だから、普通の収録番組では、放送時間が1時間なのに、3時間収録するものもあるのに、この番組は「そんなホットな空間で司会とゲストが面白いトーク」をするので、収録時間も1時間半はいかない。

こないだ久しぶりに、彼の「前説」を聞いたが、「お客さんのテンション」の上げ方が上手い。彼も僕よりは下だが、若者という世代ではないのに、素晴らしいエネルギーを持っている。しかも、それを公表したり、取材させたり、絶対にしない。「彼の前説」は「番組収録への助走」で、「縁の下の力持ち」に徹したいからだと思う。

一緒に番組をやっていた時代(15年位前)もあったが、彼は「番組作りには貪欲」である。その時からそう感じていた。僕はちょうど、ドラマからバラエティーに移動になり、結構ノイローゼになる位、悩んでいたのを彼と話をする事で新しいアイデアを教えてもらったり、思いついたりして、とても助けて貰った。

その時に比べ、もちろん、年齢を重ねたという事もあるが、彼の顔が「柔和」になっている。「笑い顔」もより自然に見える。

番組はこうした「縁の下の力持ち」がどれだけいるか、によって、画面から視聴者に伝わる番組のパワーが違うと思う。
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「巨大デパート」の裏側は恐ろしい「女の世界」

2005年11月26日 | エッセイ・日記・意見
今、うちの会社で働いている女の子と喋る機会があった。彼女は過去に「デパートのアナウンス係」「野球のウグイス嬢」等のアルバイトをした事があるという。

そのうち、もっとも大変だったのが、「デパートのアナウンス係」。
社員の「エレベーターガール」とか、「アナウンス係」に混じっての仕事。仕事内容は「迷子のお知らせ」等をデパート館内にアナウンスする事。
仕事が大変なのではなく、当時いちばん下っ端だった彼女に対しての「イジメ」である。全員が「女の世界」。その「イジメ」は陰湿を極めたそうである。「くつ」を隠された事から始まり、何かすると、必ず「怒りの声」が彼女を襲った。彼女はそれが嫌で短期間でそのアルバイトを辞めた。

僕の高校の友達でデパートに勤めていた男性がいるが、圧倒的に女性の多い職場で、彼が売り場に立っていても、女子店員の視線を鋭く感じたと言っていた。
社内恋愛の末、どろどろの関係になったりするのは、日常茶飯事の事だとも。

僕らが「お客」として入る時のデパートの「エレベーターガール」も「案内のアナウンス係」の人も笑顔を絶やさないで、いい気分で買い物ができる。その蔭には、そこから来るストレスをぶつけられている「女の子」がいるかと思うと、「デパート」のウラも「おどろおどろしい江戸川乱歩の世界」か「水木しげるの妖怪の住みか」に思えてしまう。

とは言っても、「男の嫉妬」の方がよっぽど陰湿で怖い事を僕は何度も実感しているのだが。
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亡くなった後輩と「社報」

2005年11月26日 | エッセイ・日記・意見
「社報」というものが多くの会社にある。先日、配布されたうちの会社の「社報」についてである。

僕が「バラエティー番組」の制作をやっていた頃、ADで一緒に仕事をした後輩が先月、亡くなった。享年38歳。これから生きていれば、いろんな体験もでき、本当に彼にとっては無念だっただろうと思っていたら、香典返しが届いた。女性の名前になっていたので、よく見ると「妻」とある。
僕の中での感覚は彼が20代で、その後、別々のセクションで働く事になってしまったので、その時点で止まっていた。だから、彼が「結婚して家庭を持っていた」のも、その「妻」という字を見て初めて知ったし、「子供の有無」については、未だ分からない。

先月の「社報」の発行日の前に亡くなったが、多分締め切りの後だったのだろう。彼の死亡についての記事は載っていなかった。

そして、先日配布された「社報」を見て、違和感を覚えた。
たった、一行、「○○は×月×日をもって死亡により退職とする」としか載っていない。
僕は、彼の写真が乗り、彼と仕事をやっていた人の追悼の文が小さなスペースでも載るものだと信じていた。

気がついた。ここからは推測だが、「管理職以上」の部長・局長・役員だったら、写真と追悼文が載っていたのだろうと。

過去の記事を思い出せば・・・確かに部長以上か、かなりベテランの社員が死亡した時は写真と追悼文は載っていた。
30代で死亡したというケースが、僕の入社以来、無かったのである。

「人が亡くなる事」はとても大きな悲しい事である。たとえ、会社からみて、キャリアが短くても、ちゃんと、写真を載せ、一緒に働いた「いちばん近しい同僚・同期」等の追悼文を載せる事が故人に対しての「礼」だと思うのだが。



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「枚方パーク」の「大菊人形」が今年で見納めになる!!!

2005年11月26日 | エッセイ・日記・意見
「枚方パーク」の「大菊人形」が96年目の今年で見納めになるという記事が、昨日発売の「週刊文春」に載っていた。

関西の人なら誰でも知っている、この「大菊人形」。僕は見に行った事が一度も無い。枚方というのが「京阪電車」の通っているところで、僕が育った「阪神電車」「阪急電車」の通っている地域と離れている事が行った事が無い原因がもしれない。

ただ、まだ阪神甲子園球場の前に、「阪神パーク」という遊園地があった時代、この「阪神パーク」でも「菊人形」をやっていた。
僕たち、子供には何か、「菊人形」は「怖い存在」だった。白塗りの歌舞伎役者の様な人形の首があり、胴体が菊でできているのだから、「怖い」。
誰が「菊」で「人形」を作ろうとなんて考えたのだろう。関西だけでなく、全国にもあるのだろうか。或いは、海外では、「菊」と違う花で「バラ人形」とか「除虫菊人形」とかあるのか・・・。

96年前という事は、1911年。大正初期に始められた事になる。「菊」の栽培は難しいと聞く。それを「人形」の様に見せる事がその時代はステータスだったのかもしれない。

「大菊人形」の無くなった後の「枚方パーク」は何を目玉として、集客するのだろうか。http://www.hirakatapark.co.jp/

話題は跳ぶが、「香港ディズニーランド」にはお客があまり入っていないらしい。ゴミとかがたくさん落ちていて、不衛生なのだそうだ。香港から来た友達が言うのだから間違いない。広さも「東京ディズニーランド」より狭く・・・「アメリカ」「日本」「フランス」と「ディズニーランド」を作ってきて、何故、次が「香港」だったのかが分からない。中国本土からの集客を狙ったのだろうか。
http://www.hketotyo.or.jp/hkdesneyland/hkdisenyland02.html
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エディット・ピアフ・・・好き。

2005年11月26日 | 歌・CD
Edith Piaf: 30th Anniversaire
Edith Piaf
Capitol

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- エディット・ピアフ Edith Piaf -

<シャンソンの代表曲>
 シャンソンという言葉は、フランス語で「歌」を現す言葉です。したがって、特定のリズム・パターンや楽器編成を現すものではありません。と言うことは、「シャンソン」はフランス語で歌われる歌謡曲、ポップスということになるわけです。しかし、我々日本人にとっての「シャンソン」は、明らかにひとつの音楽ジャンルのことであり、そこにはアコーディオンという楽器の存在や何曲かの名曲の存在が大きな影響を与えているようです。イブ・モンタンの「枯れ葉」やアダモの「雪は降る」などは、ある意味シャンソンのイメージを決定づけた作品ですが、それ以上にシャンソンの代名詞とも言える作品が、エディット・ピアフの「愛の讃歌」だと言えるでしょう。
 彼女こそ、世界中の人々が「シャンソン」と聞いてイメージするある種の音楽スタイルを確立したアーティストなのです。もちろん、現在のフランスにおいて、彼女のシャンソンは過去のものとなっています。その点では彼女はオールド・スタイル・シャンソンの確立者であったと同時に、最後のアーティストであったとも言えるようです。

<ストリートが生んだ孤独なヒロイン>
 エディット・ピアフがこの世に生まれ落ちたのは、1915年12月19日、クリスマスを目前にしたパリの下町ベルヴィルの路上だったと言われています。(実際は、ちゃんと病院で生まれたらしいのですが・・・)父親のルイ・アルフォンス・ガション Louis Alphonse Gassionは、ストリートで逆立ちなどの軽業を披露する大道芸人で、母親のアニタ Anita Maillardもストリートで歌う歌手でした。そんな貧しいその日暮しの夫婦の元に生まれた彼女は筋金入りの「ストリート・チルドレン」でしたが、母親の家出によって必然的に彼女は「ストリート・シンガー」の道をも歩まざるを得なくなりました。こうして、ある日病に倒れた父親に代わって、彼女が歌える唯一の歌「ラ・マルセイエーズ(フランス国歌)」を歌った時、彼女の歌手人生はスタートしたのです。

<ストリートのアイドルへ>
 15歳の時、彼女は酒癖の悪い父親に嫌気がさし、ついに家を出ました。彼女は一人街角に立って歌うようになったわけですが、下町のいかがわしい繁華街で生き抜くため、自ずと強い女へと成長してゆきました。(パリでは無許可営業のミュージシャンは取締の対象になったので、彼女は何度も警察に逮捕されたようです)後に彼女が国民的な人気者となってゆくのは、彼女のこうした叩き上げの人生と反権力的な生き方が、フランスの国民性にマッチしたからだと言えそうです。

<ストリートから舞台へ>
 1935年、そんな下町のアイドルに大きなチャンスが訪れました。ある一流クラブが、彼女の人気と実力に目を付け、専属契約を申し出てきたのです。こうして、20歳のピアフは、ついに屋根付きの舞台に立つことになり、すぐにシャンソン界の人気者になって行きました。
 1937年には名門のABC劇場でのステージを成功させ、いっきにトップ・スターへの階段を駆け上がり始めます。しかし、運命はいつまでも彼女に微笑み続けてはくれませんでした。それどころか運命は、彼女を含むフランスの全国民を不幸のどん底に突き落としたのです。
<ナチス・ドイツ占領下のパリにて>
 1940年6月14日、フランス領内に侵攻していたナチス・ドイツは、ついにパリを占領。フランスはドイツの占領下に置かれることになりました。彼女にとっても、フランス国民同様辛い日々が始まりました。ナチスの占領下において、アーティストたちはナチスに反抗して地下に潜るか、彼らのプロパガンダ活動に協力するかの二者択一を迫られました。いかに強い女性とはいえ、彼女がナチスと闘うことは不可能だったため、しかたなく彼女はナチス主催のパーティーで歌ったり、捕虜収容所でフランス人のために歌ったりする生活を始めました。(と言っても、後に彼女はこの時のことを「ナチスという連中がどんな奴らかを見たかったから出演したのだ」と言っているのですが)しかし、さすがは反骨のストリート・ファイティング・ミュージシャンだけあって、その後彼女は自分の立場を利用して、ナチスへのレジスタンス活動を展開して行きます。それは、慰問先の捕虜収容所から何人かの捕虜をバンドのメンバーに紛れ込ませて脱走させるという、まるで映画のような作戦でした。

<ドラマを求める人生>
 戦争中、それだけ危険な行為に荷担していながら、彼女はけっして熱烈な愛国者ではなかったようです。もしかすると、彼女は自分が挑んでいる「危険な賭け」に喜びを感じていたという説もあるくらいです。その後の彼女の人生に見られる数々の恋愛ドラマもそんな彼女のドラマチック大好き人間的性格の成せる技だったのかもしれません。そして、それが彼女の歌のもつドラマ性と独特の表現力の源になっていたのかもしれないのです。
 ピアフのシャンソンを「真実を歌うシャンソン」と呼ぶそうですが、それも彼女のそんなドラマチックな人生があったからこそ可能だったのかもしれません。

<ラヴィアン・ローズ>
 彼女の人生において「恋」こそが最大のエネルギー源だったこともまた間違いないでしょう。なかでも有名なのは、年下の大スター、イブ・モンタンとの恋です。と言っても、この恋には、師弟愛という側面もあり、単純な恋とは言えないかもしれません。第二次世界大戦が終わり、ナチス・ドイツの占領から解放された喜びと若いイブ・モンタンとの恋の喜びは、彼女の代表曲のひとつ「ラヴィアン・ローズ」を生んだと言われています。
 デビュー当初は、ジャズーポップス系のアメリカナイズされた歌手だったモンタンを、ピアフは一から教育し直し、フランスを代表するシャンソン歌手へと育てあげました。しかし、彼がピアフと肩を並べるほどの人気歌手に成長した時、すでに二人の恋は終わりを向かえていました。

<愛の讃歌>
 そしてもうひとつ、彼女の人生を変えた「至上の愛」は、あの名曲「愛の讃歌」を生みました。それが、プロ・ボクシングの世界チャンピオンだったマルセル・セルダンとの恋でした。世界的に有名な二人は、忙しいスケジュールの合間を縫って、愛を確かめ合っていたが、1949年ニューヨークで公演中だったピアフに会うために乗ったマルセルの飛行機が大西洋上に墜落、わずか一年の短い恋は、セルダンの突然の死により、悲劇の結末を迎えました。
 セルダンの突然の死にピアフは、立ち直れないほどのショックを受けましたが、歌に人生のすべてを捧げてきた彼女は、この悲劇をもひとつの歌にしてしまう力をもっていました。こうして、生まれたのがあの名曲「愛の讃歌」だったというのが、かつての定説でした。
 しかし、最近になってこの曲はマルセルの死の以前に書かれていたことがわかりました。ピアフは、妻子がいるマルセルとの愛に自ら幕をおろすため、この曲を作ったらしいのです。したがって、自分が歌うのではなくイベット・ジローにこの曲を歌ってもらうことになっていたというのです。ところが、マルセルの死によって、別れは突然に訪れてしまったのです。そこで、彼女は急遽この歌を自ら歌うことを決意したというのが、真相だったようなのです。
 こうして、シャンソンを代表するだけでなく「愛の歌」を代表する名曲として「愛の讃歌」が生まれたのです。

<シャンソン旧世代の女王>
 こうして彼女は、1963年48歳の若さでこの世を去るまで、フランスでは別格的な人気を保ち続けました。そして、彼女の死とともに戦前から続いてきた古いタイプのシャンソンの時代は終わりを告げ、新しいシャンソンの時代を生み出して行くことになるのです。
「世の中のことなんて、どうでもいいの
ただあなたが愛してさえくれれば・・・
あなたが死んでも私は平気、あなたが愛してくれれば
私も死ぬのだから・・・」 
「愛の讃歌」より

<締めのお言葉>
「エディット、君は僕なんかより、ずっと素晴らしい仕事をしているんだね。あの人たちを幸福にするのが君の仕事なんだ」
マルセル・セルダン 
※この文章は下記のホームページより
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/edith-piaf.htm
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「越路吹雪」のドラマを見て・・・

2005年11月26日 | テレビ番組
ベスト・コレクション
越路吹雪, 岩谷時子, 内藤法美
東芝EMI

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フジテレビの「越路吹雪」のドラマを見た。「愛の讃歌」が好きだからだ。
天海祐希は歌も当然上手く、松下由樹の岩谷時子役もはまっていた。ちょっと、痩せた方がいいと思ったけど。

エディット・ピアフが好きなのもドラマを見ようと思った大きな要素。「越路吹雪」と「エディット・ピアフ」、どこか人生が重なる所があるように感じた。久しぶりの「永山耕三演出(「愛という名のもとに」とか、フジテレビのトレンディドラマの多くを演出)」を見て、その見やすい部分ときめの細かい部分の、安心感があって、スッとドラマに入っていけた。

僕が2時間以上も早送りもせずにドラマを見たのは久しぶり。でも、最後に、「越路吹雪」本人が歌っている「愛の讃歌」が流れると、声の「厚さ」、その人の持つオーラ・・・が天海さんには申し訳ないが、「越路吹雪」の方が僕の胸に深く染み渡った。


[越路吹雪略歴]
1924年2月18日:誕生。父・友孝は東京電灯のエンジニアだった。
1937年4月:宝塚歌劇団入団。
1939年2月:初舞台。
1951年8月:宝塚歌劇団を退団。東宝専属となる。
1959年11月:内藤法美と結婚。
1965年:9月、母・益代死去。12月、日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1966年2月:父・友孝死去。
1968年:東宝から独立、フリーとなる。
1980年11月7日午後3時2分:胃癌のため死去。享年56。


[人物]
宝塚歌劇が生んだシャンソンの女王。戦中~戦後にかけて男役として舞台に立った。

退団後、女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽を多くカヴァーし、特にシャンソンにおいては岩谷時子とともに数多くの名曲を日本に紹介した。昭和33年(1958年)テアトロン賞、昭和40年(1965年)レコード大賞、昭和43年(1968年)芸術祭奨励賞など受賞した賞は数知れない。

また、宝塚OGの枠を超えて国民的人気を博したため、美空ひばりや吉永小百合と並んで女性アイドルの源流とみる向きもある(もっとも越路・ひばり・吉永らの時代は芸能人に対して「アイドル」という言葉はあまり使われず「スター」と呼ぶのが普通であった)。

同時期に活躍した美空ひばりが現在の演歌のパイオニアとすれば越路吹雪はJ-POPの先駆者ともいえる。夫は作曲家の内藤法美。

独身時代、三島由紀夫の恋人だったことがある。三島の母は、自分の息子が越路吹雪と結婚するものと思い込んでいたようだ。また、彼女のファンの1人が佐藤栄作元首相の配偶者の佐藤寛子で、後援会会長を引き受けていたのも著名なエピソードである。


[代表曲]
「ラストダンスは私に」
「愛の讃歌」
「サン・トワ・マミー」
「夢の中に君がいる」
「誰もいない海」
「ある愛の詩」
「別離(わかれ)」
「イカルスの星」
「夜霧のしのび逢い」
「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」
「ろくでなし」

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