映画『エディット・ピアフ 愛の讃歌』を観て来た。前から彼女には興味を持っていたが、2時間20分のこの映画、主演の女優良し、脚本の構成良しで全く「長く感じないで」観られた。長いので、寝てしまうかと、ドリンク剤は飲むは、目薬は差すはと、細心の注意を払ったのだが、杞憂というものだった。歌っている声が「ピアフ本人」の声という事もあり、久々に素敵な映画に出会えた。おススメ。平日の最終回だったが、年配の人を中心に有楽町の有楽座(400人店員)のほぼ半分弱が埋まっていたので、地味な映画という印象、ピアフを知らない人達の多さを超えて、多くの人が観に来られていた様だ。今、観たい映画をやっていないという事もあるのだが。http://www.piaf.jp/
エディット・ピアフ(Édith Piaf, 1915年12月19日 - 1963年10月11日)は、フランスのシャンソン歌手。
フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴であった。有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の賛歌 Hymne à l'amour」 (1949年)、「ミロール Milord」 (1959年)、「水に流して Non, je ne regrette rien」 (1960年)などがある。
生涯
生い立ち
数々の伝記が書かれているにもかかわらず、エディット・ピアフの生涯の多くの事実と出来事は謎に包まれている。彼女はエディット・ジョヴァンナ・ガション(Édith Giovanna Gassion)としてパリの貧しい地区ベルヴィル(Belleville)に生まれた。 ピアフはベルヴィル街72の路上で生まれたという伝説があるが、出生証明書によればベルヴィルのテノン病院で誕生したというのが事実である。エディットという名はドイツ軍に処刑されたイギリス人看護婦イーディス・キャヴェル(Edith Cavell)にちなんでいる。(キャベルが処刑されたのはこの年の10月でパリでも大きな話題となっていたのだ)。(ちなみにパリジャンの俗語で雀を意味するピアフが彼女のニックネームになるのは20年後のことである)
母親のアンネッテ・ジョヴァンナ・メラール(Annetta Giovanna Maillard, 1898-1945)はイタリア系であり、出産当時17歳であった。彼女はリヴォルノの出身でリーヌ・マルサ(Line Marsa)の芸名のもとカフェのシンガーとして働いていた。エディットのミドルネーム「ジョヴァンナ」は母親からのものであった。父親のルイス=アルフォンス・ガション(Louis-Alphonse Gassion, 1881-1944)は、過去に劇場で演技をしたこともある大道芸人であった。幼いエディットはまもなく母方の祖母の元に短期間預けられる。ほどなく父親はエディットを、ノルマンディーで売春宿を営んでいた自らの母親の元に連れて行った。その後彼は1916年にフランス軍に入隊する。こうしてエディットは、早い時期から娼婦やさまざまな売春宿への訪問者と接触をもち、このような状況は彼女の人格と人生観に強いインパクトを与えた。
3歳から7歳にかけて彼女は目が見えなかった。ピアフの伝説の一部として、祖母の元で働く娼婦がリジューのテレーズへ巡礼を行った後にエディットの視力が回復したというものがある。1929年になるとエディットは大道芸をする父と行動を共にする。その後1930年には父に反発してグラン・オテル・ドゥ・クレルモン(Grand Hôtel de Clermont)に一室を取り、父と別れてパリ郊外でのストリート・シンガーとして自身の道を歩むようになる(「Elle fréquentait la Rue Pigalle」を参照)。彼女は16歳で御用聞きの少年、ルイ・デュポンと恋に落ちまもなく子供を産んでいる。生まれた女の赤ん坊はマルセルと命名されたが、2年後に小児性髄膜炎で死んだ。
歌手活動:第二次大戦期まで
1935年にエディットはナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレー(Louis Leplée)によって見出され、彼の店で歌を歌うようになる。そのナイトクラブは上流、下流両階層の客達が出入りしていた。ルイは彼女が極端な神経質だったにもかかわらず、店への出演を説得した。エディットの身長は142cmにすぎず、その小柄な体からルイは彼女に、後の芸名となる「小さなスズメ」(La Môme Piaf)の愛称を与えた。彼女の最初のレコードはこの年に録音された。ほどなくルイは殺害され、ピアフはその共犯者であると告発されるが、無罪とされた。
1940年にはジャン・コクトーが彼女のために脚本『Le Bel Indifférent』を執筆する。ピアフはまた、俳優のモーリス・シュバリエや詩人のジャック・ボーガットのような有名人と知己となる。彼女は自らの歌の多くの歌詞を書き、作曲家達と協力した。
彼女の代表曲「ばら色の人生」(この曲は1998年のグラミー賞名誉賞を受賞している。)は第二次世界大戦のドイツ占領下に書かれた。この時期彼女は大変な成功を収め、大きな人気を得る。ワン・ツークラブでドイツ軍高官のために歌を歌うことでピアフはフランス兵捕虜との写真をとる権利を得る。それは表面的には士気を高めるためのものとして行われたが、捕虜達は彼女と共に撮った写真から自らの写った部分を切り取って、脱走計画に使用する偽造文書に貼り付けた。今日、ピアフのレジスタンスへの貢献はよく知られており、多くの人々が彼女によって救われた。
歌手活動:第二次大戦後
戦後、彼女は世界的な人気を得、ヨーロッパとアメリカ合衆国、南アメリカで公演旅行を行った。彼女のアメリカでの人気は「エド・サリバン・ショー」へ8度も出演するほどのものであった。1947年のアメリカ初公演では大女優で歌手でもあるマレーネ・ディートリッヒとも知友を結び、以後2人は生涯にわたる親友となった。フランス語を話せたディートリッヒは、ピアフの「ばら色の人生」を自らの持ち歌に加えて歌っている。
彼女はシャルル・アズナヴールのデビューを手助けし、自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させた。アズナブールの他にも、イブ・モンタン、ジルベール・ベコーなどピアフに才能を見出された歌手は多い。
ピアフの生涯の大恋愛はボクサーのマルセル・セルダンとのものであるが、セルダンは1949年に飛行機事故死している。ピアフは2度結婚しており、最初の夫は歌手のジャック・パル(Jacques Pills)であった。2人は1952年に結婚し、1956年に離婚した。2人目の夫はヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身したテオファニス・ランボウカス(Theophanis Lamboukas,「テオ・サラポ」の名で知られる)であった。サラポはピアフよりも20歳も若かったが、ピアフの大ファンであったことが昂じて交際するようになり、2人はマレーネ・ディートリッヒの介添えのもと1962年に結婚した。サラポはピアフの死後、彼女の残した多額の借金を独力ですべて返済した。
1951年に彼女は自動車事故に遭い、その後深刻なモルヒネ中毒に苦しんだ。
エディット・ピアフの墓(パリ市)パリの「オランピア劇場」は彼女が名声を得た場所であり、その死の数ヶ月前に、かろうじて立ち上がることの状態で最も記憶されるコンサートを開いた場所である。1963年、ピアフは最後の曲「ベルリンの男 L'homme de Berlin」をレコーディングしている。
死
47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラで癌で死去する。 死はその翌日に公表されたが、同日友人のジャン・コクトーが死去した。彼女の公式の命日は死が公表された10月11日とされている。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。彼女はそのライフスタイルゆえに、カトリック教会のパリ大司教は葬儀におけるミサの執行を許さなかったが、葬儀には無数の死を悼む人々が路上に現れ葬列を見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑した。シャルル・アズナブールは第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと述懐している。
パリの5, rue Crespin du Gast, 75011にエディット・ピアフ博物館がある。
今日、彼女はフランスで最も偉大な歌手の一人として記憶され、尊敬されている。フランスではいまだに彼女のレコードが売れ続けている。彼女の生涯は悲劇的な私生活と一連の名声、そしてステージ上で轟くような力を備えた声と華奢で小さな姿がコントラストとして現れたものであった。
主な作品
歌唱曲
「ばら色の人生」 - La Vie en rose (1945)
ピアフの持ち歌の中でも最も有名な曲で、各国語で歌詞が付けられ、多数の歌手によって歌われている。
「谷間に三つの鐘が鳴る」- Les Trois Cloches (1945)
「愛の讃歌」 - Hymne à l'amour (1949)
マルセル・セルダンに捧げられた情熱的な曲で、「ばら色の人生」と並んでピアフの代表作となっている。この歌はJean-Paul Civeyracの映画『Toutes ces belles promesses』の触発となった。
「パダム・パダム」 - Padam... Padam... (1951)
「パリの空の下」 - Sous le ciel de Paris (1954)
「水に流して」 -Non, je ne regrette rien (1956)
「いつかの二人」 -Les Amants d'un jour (1956)
「群衆」 -La Foule (1957)
「ミロール」 -Milord (1959)
映画
La garçonne (1936年), Jean de Limur ラ・ガルソーヌ
Montmartre-sur-Seine (1941年), Georges Lacombe モンマルトル・スル・セーヌ
Etoile sans lumière (1946年), Marcel Blistène 「光なき星」
Al diavolo la celebrità (1949年), Mario Monicelli Steno アル・ディアボロ・ラ・セレブリタ
Paris chante toujours (1951年), Pierre Montazel パリ・シャント・トゥジュール
Boum sur Paris (1953年), Maurice de Canonge 「パリは踊る」
Si Versailles m'était conté (1954年), Sacha Guitry シ・ベルサーユ・メテ・コンテ
French Cancan (1954年), Jean Renoir 「フレンチ・カンカン」
Edith et Marcel (1983年), Claude Lelouch エディット・エ・マルセール
La môme (2007年), Olivier Dahan ラ・モーム(フランス国外では、La Vie En Rose - ラ・ヴィ・アン・ローズ、日本では「エディット・ピアフ~愛の讃歌」)
本人が歌っている映像を収めた貴重なDVD↓
内容紹介
世界で最も愛された伝説のシャンソン歌手、エディット・ピアフ―その貴重なコンサート映像集とフランスで異例の視聴率を記録したドキュメンタリーが、映画「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(監督・脚本:オリヴィエ・ダアン/主演:マリオン・コティヤール)の今秋公開にあわせてリリース決定!!
♪CONCERT IDEAL【コンサート映像】
ファン垂涎のレア映像を収録したライブ映像集!
【収録曲】
●LA FOULE(群集) ●L'ACCORDEONISTE(アコーディオン弾き)
●JE ME SOUVIENS D'UNE CHANSON (私はあの歌を思い出す)
●L'HYMNE A L'AMOUR(愛の讃歌)【仏語~英語バージョン】
●LA VIE EN ROSE(バラ色の人生)【仏語~英語バージョン】
●SALE PETIT BROUILLARD(こまかな霧) ●MILORD(ミロール)
●FAUT PAS QU'IL SE FIGURE(彼は知らないこと)
●A QUOI A SERT L’AMORE(恋は何のために)
●L'HOMME A LA MOTO(オートバイの男) ●MON DIEU(私の神様)
●MON MANAGE A MOI(私の回転木馬)
●LES TROIS CLOCHES(谷間に三つの鐘がなる) ●MARIAGE(結婚)
●LA GOUALANTE DU PAUVRE JEAN (かわいそうなジャン)
●NON, JE NE REGRETTE RIEN(水に流して)
●BRAVO POUR LE CLOWN(道化師万才)
♪SANS AMOUR ON ´EST RIEN DU TOUT【ドキュメンタリー】
エディット・ピアフの誕生から伝説の歌手になるまでを追った貴重な記録映像集!初出し映像も収録!!
2006年にフランスARTE TVにて放送され、異例の視聴率を記録したドキュメンタリー。フランスで未公開のピアフのアコーディニストだったマルク・ボネルによるインタビューやピアフのカラー映像(ボネル・コレクション)も収録。
映像特典:映画「エディット・ピアフ 愛の讃歌」予告編
内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
伝記映画の公開で注目を集めるフランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフのコンサート映像とドキュメンタリーを収録。レア映像を含むライブ風景、関係者へのインタビューや貴重な写真など、伝説の歌手の痛切な歌声と悲劇的な私生活を垣間見られる。
曲目リスト
1. アコーディオン弾き
2. 谷間に三つの鐘が鳴る
3. バラ色の人生
4. 街に歌が流れていた
5. 愛の讃歌
6. 王様の牢屋
7. パダン・パダン
8. パリの空の下
9. あなたの目よりも青く
10. あなたに首ったけ
11. 十字架
12. メア・キュルパ
13. かわいそうなジャン
14. 群衆
15. ミロール
16. 私の神様
17. 水に流して(私は後悔しない)
18. 愛する権利
19. 恋は何のために(テオ・サラポと共に)
20. ベルリンの男
商品の説明
Amazon.co.jp
パリの貧民街の路上に生まれ育つが、シャンソンの女王として世界に君臨したエディット・ピアフ。死後も唯一無二の存在として、その名は語り継がれている。
あまりにも有名な<5>は、彼女の公演先に向かう途中の飛行機事故で帰らぬ人となった、ボクシングの世界チャンピオン、マルセル・セルダンのために作られたものである。彼女が最も愛した人とされるマルセル。激しい喪失感は、彼への永遠の愛を歌わせることとなった。
ほかにも、彼女によってポピュラーになった名曲が並ぶ。このジャンルに苦手意識がある人でも、エディット・ピアフだけは必ず心に響くはずだ。(春野丸緒)
内容(「CDジャーナル」データベースより)
ムスタキやコクトーを知ったころにピアフを初めて聴いたつもりだったが,老人ピアフと陰気そうな若者との結婚式のニュース映像に驚いた朧気な幼い記憶がある。ともかくピアフを聴かずにシャンソンを聴いても中身からっぽに等しいというほどの存在だ。
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エディット・ピアフ(Édith Piaf, 1915年12月19日 - 1963年10月11日)は、フランスのシャンソン歌手。
フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴であった。有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の賛歌 Hymne à l'amour」 (1949年)、「ミロール Milord」 (1959年)、「水に流して Non, je ne regrette rien」 (1960年)などがある。
生涯
生い立ち
数々の伝記が書かれているにもかかわらず、エディット・ピアフの生涯の多くの事実と出来事は謎に包まれている。彼女はエディット・ジョヴァンナ・ガション(Édith Giovanna Gassion)としてパリの貧しい地区ベルヴィル(Belleville)に生まれた。 ピアフはベルヴィル街72の路上で生まれたという伝説があるが、出生証明書によればベルヴィルのテノン病院で誕生したというのが事実である。エディットという名はドイツ軍に処刑されたイギリス人看護婦イーディス・キャヴェル(Edith Cavell)にちなんでいる。(キャベルが処刑されたのはこの年の10月でパリでも大きな話題となっていたのだ)。(ちなみにパリジャンの俗語で雀を意味するピアフが彼女のニックネームになるのは20年後のことである)
母親のアンネッテ・ジョヴァンナ・メラール(Annetta Giovanna Maillard, 1898-1945)はイタリア系であり、出産当時17歳であった。彼女はリヴォルノの出身でリーヌ・マルサ(Line Marsa)の芸名のもとカフェのシンガーとして働いていた。エディットのミドルネーム「ジョヴァンナ」は母親からのものであった。父親のルイス=アルフォンス・ガション(Louis-Alphonse Gassion, 1881-1944)は、過去に劇場で演技をしたこともある大道芸人であった。幼いエディットはまもなく母方の祖母の元に短期間預けられる。ほどなく父親はエディットを、ノルマンディーで売春宿を営んでいた自らの母親の元に連れて行った。その後彼は1916年にフランス軍に入隊する。こうしてエディットは、早い時期から娼婦やさまざまな売春宿への訪問者と接触をもち、このような状況は彼女の人格と人生観に強いインパクトを与えた。
3歳から7歳にかけて彼女は目が見えなかった。ピアフの伝説の一部として、祖母の元で働く娼婦がリジューのテレーズへ巡礼を行った後にエディットの視力が回復したというものがある。1929年になるとエディットは大道芸をする父と行動を共にする。その後1930年には父に反発してグラン・オテル・ドゥ・クレルモン(Grand Hôtel de Clermont)に一室を取り、父と別れてパリ郊外でのストリート・シンガーとして自身の道を歩むようになる(「Elle fréquentait la Rue Pigalle」を参照)。彼女は16歳で御用聞きの少年、ルイ・デュポンと恋に落ちまもなく子供を産んでいる。生まれた女の赤ん坊はマルセルと命名されたが、2年後に小児性髄膜炎で死んだ。
歌手活動:第二次大戦期まで
1935年にエディットはナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレー(Louis Leplée)によって見出され、彼の店で歌を歌うようになる。そのナイトクラブは上流、下流両階層の客達が出入りしていた。ルイは彼女が極端な神経質だったにもかかわらず、店への出演を説得した。エディットの身長は142cmにすぎず、その小柄な体からルイは彼女に、後の芸名となる「小さなスズメ」(La Môme Piaf)の愛称を与えた。彼女の最初のレコードはこの年に録音された。ほどなくルイは殺害され、ピアフはその共犯者であると告発されるが、無罪とされた。
1940年にはジャン・コクトーが彼女のために脚本『Le Bel Indifférent』を執筆する。ピアフはまた、俳優のモーリス・シュバリエや詩人のジャック・ボーガットのような有名人と知己となる。彼女は自らの歌の多くの歌詞を書き、作曲家達と協力した。
彼女の代表曲「ばら色の人生」(この曲は1998年のグラミー賞名誉賞を受賞している。)は第二次世界大戦のドイツ占領下に書かれた。この時期彼女は大変な成功を収め、大きな人気を得る。ワン・ツークラブでドイツ軍高官のために歌を歌うことでピアフはフランス兵捕虜との写真をとる権利を得る。それは表面的には士気を高めるためのものとして行われたが、捕虜達は彼女と共に撮った写真から自らの写った部分を切り取って、脱走計画に使用する偽造文書に貼り付けた。今日、ピアフのレジスタンスへの貢献はよく知られており、多くの人々が彼女によって救われた。
歌手活動:第二次大戦後
戦後、彼女は世界的な人気を得、ヨーロッパとアメリカ合衆国、南アメリカで公演旅行を行った。彼女のアメリカでの人気は「エド・サリバン・ショー」へ8度も出演するほどのものであった。1947年のアメリカ初公演では大女優で歌手でもあるマレーネ・ディートリッヒとも知友を結び、以後2人は生涯にわたる親友となった。フランス語を話せたディートリッヒは、ピアフの「ばら色の人生」を自らの持ち歌に加えて歌っている。
彼女はシャルル・アズナヴールのデビューを手助けし、自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させた。アズナブールの他にも、イブ・モンタン、ジルベール・ベコーなどピアフに才能を見出された歌手は多い。
ピアフの生涯の大恋愛はボクサーのマルセル・セルダンとのものであるが、セルダンは1949年に飛行機事故死している。ピアフは2度結婚しており、最初の夫は歌手のジャック・パル(Jacques Pills)であった。2人は1952年に結婚し、1956年に離婚した。2人目の夫はヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身したテオファニス・ランボウカス(Theophanis Lamboukas,「テオ・サラポ」の名で知られる)であった。サラポはピアフよりも20歳も若かったが、ピアフの大ファンであったことが昂じて交際するようになり、2人はマレーネ・ディートリッヒの介添えのもと1962年に結婚した。サラポはピアフの死後、彼女の残した多額の借金を独力ですべて返済した。
1951年に彼女は自動車事故に遭い、その後深刻なモルヒネ中毒に苦しんだ。
エディット・ピアフの墓(パリ市)パリの「オランピア劇場」は彼女が名声を得た場所であり、その死の数ヶ月前に、かろうじて立ち上がることの状態で最も記憶されるコンサートを開いた場所である。1963年、ピアフは最後の曲「ベルリンの男 L'homme de Berlin」をレコーディングしている。
死
47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラで癌で死去する。 死はその翌日に公表されたが、同日友人のジャン・コクトーが死去した。彼女の公式の命日は死が公表された10月11日とされている。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。彼女はそのライフスタイルゆえに、カトリック教会のパリ大司教は葬儀におけるミサの執行を許さなかったが、葬儀には無数の死を悼む人々が路上に現れ葬列を見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑した。シャルル・アズナブールは第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと述懐している。
パリの5, rue Crespin du Gast, 75011にエディット・ピアフ博物館がある。
今日、彼女はフランスで最も偉大な歌手の一人として記憶され、尊敬されている。フランスではいまだに彼女のレコードが売れ続けている。彼女の生涯は悲劇的な私生活と一連の名声、そしてステージ上で轟くような力を備えた声と華奢で小さな姿がコントラストとして現れたものであった。
主な作品
歌唱曲
「ばら色の人生」 - La Vie en rose (1945)
ピアフの持ち歌の中でも最も有名な曲で、各国語で歌詞が付けられ、多数の歌手によって歌われている。
「谷間に三つの鐘が鳴る」- Les Trois Cloches (1945)
「愛の讃歌」 - Hymne à l'amour (1949)
マルセル・セルダンに捧げられた情熱的な曲で、「ばら色の人生」と並んでピアフの代表作となっている。この歌はJean-Paul Civeyracの映画『Toutes ces belles promesses』の触発となった。
「パダム・パダム」 - Padam... Padam... (1951)
「パリの空の下」 - Sous le ciel de Paris (1954)
「水に流して」 -Non, je ne regrette rien (1956)
「いつかの二人」 -Les Amants d'un jour (1956)
「群衆」 -La Foule (1957)
「ミロール」 -Milord (1959)
映画
La garçonne (1936年), Jean de Limur ラ・ガルソーヌ
Montmartre-sur-Seine (1941年), Georges Lacombe モンマルトル・スル・セーヌ
Etoile sans lumière (1946年), Marcel Blistène 「光なき星」
Al diavolo la celebrità (1949年), Mario Monicelli Steno アル・ディアボロ・ラ・セレブリタ
Paris chante toujours (1951年), Pierre Montazel パリ・シャント・トゥジュール
Boum sur Paris (1953年), Maurice de Canonge 「パリは踊る」
Si Versailles m'était conté (1954年), Sacha Guitry シ・ベルサーユ・メテ・コンテ
French Cancan (1954年), Jean Renoir 「フレンチ・カンカン」
Edith et Marcel (1983年), Claude Lelouch エディット・エ・マルセール
La môme (2007年), Olivier Dahan ラ・モーム(フランス国外では、La Vie En Rose - ラ・ヴィ・アン・ローズ、日本では「エディット・ピアフ~愛の讃歌」)
本人が歌っている映像を収めた貴重なDVD↓
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内容紹介
世界で最も愛された伝説のシャンソン歌手、エディット・ピアフ―その貴重なコンサート映像集とフランスで異例の視聴率を記録したドキュメンタリーが、映画「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(監督・脚本:オリヴィエ・ダアン/主演:マリオン・コティヤール)の今秋公開にあわせてリリース決定!!
♪CONCERT IDEAL【コンサート映像】
ファン垂涎のレア映像を収録したライブ映像集!
【収録曲】
●LA FOULE(群集) ●L'ACCORDEONISTE(アコーディオン弾き)
●JE ME SOUVIENS D'UNE CHANSON (私はあの歌を思い出す)
●L'HYMNE A L'AMOUR(愛の讃歌)【仏語~英語バージョン】
●LA VIE EN ROSE(バラ色の人生)【仏語~英語バージョン】
●SALE PETIT BROUILLARD(こまかな霧) ●MILORD(ミロール)
●FAUT PAS QU'IL SE FIGURE(彼は知らないこと)
●A QUOI A SERT L’AMORE(恋は何のために)
●L'HOMME A LA MOTO(オートバイの男) ●MON DIEU(私の神様)
●MON MANAGE A MOI(私の回転木馬)
●LES TROIS CLOCHES(谷間に三つの鐘がなる) ●MARIAGE(結婚)
●LA GOUALANTE DU PAUVRE JEAN (かわいそうなジャン)
●NON, JE NE REGRETTE RIEN(水に流して)
●BRAVO POUR LE CLOWN(道化師万才)
♪SANS AMOUR ON ´EST RIEN DU TOUT【ドキュメンタリー】
エディット・ピアフの誕生から伝説の歌手になるまでを追った貴重な記録映像集!初出し映像も収録!!
2006年にフランスARTE TVにて放送され、異例の視聴率を記録したドキュメンタリー。フランスで未公開のピアフのアコーディニストだったマルク・ボネルによるインタビューやピアフのカラー映像(ボネル・コレクション)も収録。
映像特典:映画「エディット・ピアフ 愛の讃歌」予告編
内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
伝記映画の公開で注目を集めるフランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフのコンサート映像とドキュメンタリーを収録。レア映像を含むライブ風景、関係者へのインタビューや貴重な写真など、伝説の歌手の痛切な歌声と悲劇的な私生活を垣間見られる。
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曲目リスト
1. アコーディオン弾き
2. 谷間に三つの鐘が鳴る
3. バラ色の人生
4. 街に歌が流れていた
5. 愛の讃歌
6. 王様の牢屋
7. パダン・パダン
8. パリの空の下
9. あなたの目よりも青く
10. あなたに首ったけ
11. 十字架
12. メア・キュルパ
13. かわいそうなジャン
14. 群衆
15. ミロール
16. 私の神様
17. 水に流して(私は後悔しない)
18. 愛する権利
19. 恋は何のために(テオ・サラポと共に)
20. ベルリンの男
商品の説明
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パリの貧民街の路上に生まれ育つが、シャンソンの女王として世界に君臨したエディット・ピアフ。死後も唯一無二の存在として、その名は語り継がれている。
あまりにも有名な<5>は、彼女の公演先に向かう途中の飛行機事故で帰らぬ人となった、ボクシングの世界チャンピオン、マルセル・セルダンのために作られたものである。彼女が最も愛した人とされるマルセル。激しい喪失感は、彼への永遠の愛を歌わせることとなった。
ほかにも、彼女によってポピュラーになった名曲が並ぶ。このジャンルに苦手意識がある人でも、エディット・ピアフだけは必ず心に響くはずだ。(春野丸緒)
内容(「CDジャーナル」データベースより)
ムスタキやコクトーを知ったころにピアフを初めて聴いたつもりだったが,老人ピアフと陰気そうな若者との結婚式のニュース映像に驚いた朧気な幼い記憶がある。ともかくピアフを聴かずにシャンソンを聴いても中身からっぽに等しいというほどの存在だ。
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