85年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故の生存者の1人、川上慶子さんが入院した国立高崎病院(当時)=群馬県高崎市=の副院長だった故浦野悦郎さん(事故当時58歳)が、慶子さんが転院するまでの2週間を記録した手記を残していた。入院時の様子などが克明に記され、事故から20年たつ今年、初めて明らかになった。
浦野さんは、慶子さんの医師団の一人として治療に当たった。手記は今年7月、浦野さんの遺品を整理していた妻千代子さん(66)が書斎の本棚から見つけた。市販のリポート用紙に約80ページにわたってつづられていた。
「患者(慶子さん)が搬入されたのは8月13日午後3時45分頃(ごろ)であった。(中略)14日。お水が飲みたい又(また)うわ言のように痛いと言う。(中略)事故により目の前で父、母、妹を失ったショックからかほとんど自語を発しない。(中略)事故のこと、家族の死については(慶子さんに)話さない方がよい」
医師たちは慶子さんの心のケアに腐心する。ようやく口を開き、家族の生死を尋ねる慶子さんに、医師たちは事実を伝えることを決めた。
「(8月15日)午前10時半頃から家人(親族)より両親と妹の死を告げさす。(中略)『お父ちゃん、お母ちゃん、咲子(妹)は駄目だったんよ』。彼女はポロポロと涙をこぼしていたが声を上げて嗚咽(おえつ)する様なことはなかった」
転院が決まった日、慶子さんは「島根に帰りたくない。家には思い出すものがいっぱいありすぎるから」とこぼし、浦野さんは「返す言葉もなかった」と記している。
同27日、慶子さんは島根県内の病院に転院。3カ月後、入院中の慶子さんから手紙が届いた。後遺症が残る右手で書かれた字は震え、「早く学校に行って友達にあいたいです」と記されていた。
以後、慶子さんとの交流は途絶えた。浦野さんは94年6月に白血病で死去。亡くなる2カ月前、慶子さんが看護師になったことを週刊誌で知った。浦野さんは「良かった」と喜び、週刊誌をしばらく枕元に置いていたという。千代子さんは「退院後もずっと気にしていた。医者人生で最も忘れられない患者だったんでしょう」と振り返った。【杉本修作、伊澤拓也】
◇94年、看護師に…川上さん
事故は85年8月12日夕、羽田から大阪へ向かっていた日航123便ボーイング747ジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗客・乗員524人のうち520人が死亡した。
4人の生存者の一人となった川上慶子さんは事故当時12歳。島根県大社町(現出雲市)から北海道への家族旅行の帰途、事故に遭い、会社員の父と母、妹の3人を失った。慶子さんは看護師だった母和子さん(当時39歳)と同じ医療の道を選び、94年春に看護師として兵庫県内の病院に就職した。
(毎日新聞より引用)
幸せを掴んだ川上慶子さん
2005年07月17日 | その他
タイガースが21年ぶりの優勝を決めた1985年。その年の8月12日に、日本航空123便が群馬県の高天原山(たかまがはらやま)に墜落した。*1乗員&乗客併せて524人の内520人が死亡。助かったのは僅か4人という大惨事で在った。亡くなられた方の中には、歌手の坂本九氏やタイガースの中埜肇球団社長、女優の北原遥さん等著名人も居られた。(個人的には「新八犬伝」に見入って来た世代なので、坂本九氏の死は哀しみが一入だった。)
レスキュー隊が現場に到着出来たのは、墜落から一夜明けてからの事だった。現場の余りの惨状に、当初は全員死亡を誰もが疑わなかったと思う。それ程酷い状況で在った。*2しかし、4人の命が救い出される事となる。その中の一人が川上慶子ちゃん、当時12歳だった。救出された時の姿は今でもハッキリと脳裏に刻まれている。あれから、もうすぐ20年を迎える事になる・・・。
「週刊朝日(7月15日号)」に「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」という記事が載っていた。慶子さんの父親の姉、つまり伯母に当たる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。”あの日”、慶子さんは父親(当時41歳)と母親(同39歳)、そして妹(同7歳)と共に123便に乗り合わせていた。当時大阪に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。待てど暮らせど来ない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったという。翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心の凄まじさを感じ、又、近くに居た人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。
その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。
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「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」
「(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。」
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事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリが既に現場に到着していたものの、「日本側が現場に向っているので帰還せよ。」という上官の指示で現場には降りなかったのだとか。(在日米軍による誤爆で、123便は撃墜されたという説も在る。)確かに、慶子さんもその事を語っている。
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「(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」
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「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの”意図”が在ったのか不明だが、人命第一で動くべきであったろう。
事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(飛行機には乗り合わせていなかった)兄の3人で生活し、小田さんも大阪から足繁く通って彼女等の面倒をみた。美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。小田さんは、「今は色々な事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」と漏らした事も在ったのだそうだ。被害者が、マスメディアの”煽り”で更なる心の傷を負わされる典型だろう。この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。
慶子さんが保健士だった母親の遺志を継いで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。
やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、夫となる男性と知り合った慶子さん。中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言い続けていた彼女が、その男性と結婚式を挙げたのは2002年の秋だった。今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。
事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に乗る事は出来る様になったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。
事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。廻り近所に”あの川上慶子さん”と知られる事も無く、愛する家族と共に送る”普通の生活”に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。
最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。そして、その後に彼女が歩んで来た苦難の道程。やっと幸せな生活を掴んだ事を知り、思わず頬が緩んだ。これからも、亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。
*1 当時の報道が余りにも強烈に脳裏に焼き付いていた為、自分自身もつい最近迄誤解していたのだが、実際の墜落現場は御巣鷹山ではなく、その直ぐ南に位置している高天原山の尾根という事で在る。
*2 この事故をモデルにしたと思われる山崎豊子女史の「沈まぬ太陽」には、如何に現場が”地獄絵図”の有様で在ったかが記述されている。「白い巨塔」や「大地の子」、「華麗なる一族」、「不毛地帯」等々、多くの名作を世に送り出している彼女だが、この「沈まぬ太陽」も心に残る作品の一つで在る。
上記文章はこちらのHPようり引用しました→
http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/3af1244c227aa673412f99309b8879fa
奇跡的に助かった4人のうちの1人、川上慶子さん(32)の兄、千春さん(34)は島根県出雲市に住む。5年前に結婚し、長男の創也君(3)も生まれた。
事故当時は中学2年生。野球部の練習のため、留守番をしていた。父の英治さん(当時41歳)、母の和子さん(同39歳)、もう一人の妹の咲子さん(同7歳)を奪われ、祖母のキミエさん、慶子さんと3人の生活が始まった。
「生きている実感が持てなかった」。心臓の病気でキミエさんが入退院を繰り返すようになると、一家の大黒柱として重圧がのしかかった。高校2年の秋、不登校になり、中退。慶子さんは地元の高校から大阪の看護系短大に進んだ。
「失敗や挫折を事故のせいにしていた。慶子に比べ、自分に弱さがあったかもしれない」
町議として医療費貸し付け制度の創設に奔走した父、朝から晩まで患者さんのもとを駆け回った看護師の母。その姿を忘れることはなかった。親類の励ましもあって、通信制高校から大学に進学。福祉関連の会社に勤め、お年寄りの車いすを修理し、住宅の段差をなくす工事をする。
慶子さんは2002年に結婚し、昨年夏に男の子を出産した。四国に移り住み、看護師を辞めて子育てに専念する。今年の大型連休には帰省し、墓前に長男の誕生を報告した。
2人を見守ってきた伯母の池田富士子さん(65)は「平凡だが、地に足の付いた幸せをつかんでくれた」と語る。
夫婦で支え合う生活や子供が生まれる喜び。「父も母もきっと経験していた。決して不幸ではなかった。両親と妹の命は次の世代につながっていくんだ」。千春さんはおもちゃで遊ぶ創也君をいとおしそうに見つめた。(おわり)
(読売新聞より引用)
1990年、8月11日の夕方、明日は三人の命日だからと英治さんところ(つい、そう言ってしまう)へ寄って手桶を借りてお墓まいりをした。夏は蚊が発生するので伏せてあった花立ての筒を起こし、水を注いで、持って来た菊やりんどうなどの花を供えた。一年前、キミエおばあさんが病に倒れ家を離れてからからは、英治さんの姉妹が交替で留守宅の世話をしているのだが、「お墓にまで、なかなか行き届かなくて」と、洗濯物を取り込んでいたおばさんは苦笑しながら言った。
それから3日後の「赤旗」投書欄、「川上さん夫婦の記録残したい」が目に入った時、「さあ、どうしよう」と、そのことが頭から離れなくなってしまった。そんなところへ、佐々木隆一さんが「出雲でやろう、二人が救援会の関係で旅行に出たのだから、救援会がやることにしよう」と言って下さった時には、これで何とか出来ると思え、これまでの長年のもやが晴れる気持ちになった。
6年前の8月12日、夕闇が迫る頃、川上さん一家を知る者を大きな驚きと、続く悲しみの中におとし込んでしまった日航機墜落事故。
あの日、私も夕食をとりながら〝日航機レーダーから機影消える〟とのテレビのテロップを横目に見、「また日航か」と思っているところへ電話のベルが鳴った。「まさか、そんなこと」と繰り返しながら英治さんところへ行くと、キミエおばあさんとおばさん二人がいて、すでに大阪のおばさんからも連絡が入っていて、おばあさんは私の顔を見るなり「祝部さん、今度の旅行を思い立ったは、英治かね、和ちゃんかね……」と問い詰めるように言われたが、返す言葉はなかった。やがて家の中は人の出入りで騒然となった。
カタカナで発表される搭乗者名簿はカワカミエイジ以外はカワカミフサコ、カワカミエイイチ、カワカミテツジで「カワカミエイジはどこにでもある名前だ、汽車に乗ったかもしれない」などと、みんな無事を祈った。
やがて夜が明け、現地に向かう千春君らを見送って、昼前になった。目の前の有線放送電話のベルが鳴って、受話器を取ると「慶子ちゃんがテレビに・・・・・・」の声が飛び込んだ。「慶子が無事なら三人も……」と待ったが、その日は何の情報も入らなかった。夕飯におばあさんは、「慶子が助かったから」と赤飯を炊いた。
14日の午後2時25分、「和子さんの確認をした、免許証で……」、そして4時53分に英治さんの、5時58分に咲子ちゃん確認の悲しい知らせが次々に入った。「慶子が助かったけん……」と言う以外に、みんな慰めの言葉も出なかった。
お寺さんへの連絡、お通夜や葬儀の準備、その間にマスコミ取材への対応、臨時電話の申し込み、それにしても毎日暑い日が続く。17日昼前に遺骨になってしまった三人が帰ってきた。18日午後4時からの葬儀には沢山の方の参列をいただいた。
一段落して、私は群馬に向かった。上野村は想像以上に山また山の中にあった。消防団の人に会って、救助作業のお話をうかがった。現場へは行けなかったが武道峠から遺体捜索のヘリが飛ぶ尾根の向こうに墜落現場を想った。国立高崎病院に入院している慶子ちゃんの病室にも見舞った。
上野村から帰って、私はたまっていた新聞各紙の切り抜きをした。それ以来、日航機事故関係の記事が目に飛び込み、それを切り抜いた。〝日航と航空行政〟〝遺族、慰霊〟〝刑事責任〟〝川上さん一家〟など十数項目に分類整理し、台紙に張ってファイルしてある。先日の事故機内写真の公表まで、数千記事になってしまって、これを見るにつけても、この事故がいかに重大で悲惨なものであったか、改めて思い知らされる。
このような惨事が再び繰り返されるようなことは、絶対にあってはならない。この追悼文集は、故人を偲ぶとともに、その願いを強く込めてつくられた。
川上英治さんは41年と9ヵ月、和子さんは39年と10ヵ月の、人生80年と言われるこの時代に、正に人生半ばにして、私たちの前から突然姿を消してしまいました。満7歳の誕生日をむかえた咲子ちゃんとともに。二人は共に北九州、八幡で職に就き、青春を過ごし、そして結ばれて出雲の地へ。民主的、革新的な運動の先頭に立って、社会のため、地域のために文字通り奮闘してきました。このことは、ご寄稿をいただいた皆様の、どの文面からも伺い知ることが出来ます。
文集づくりの中で、私は皆様から寄せられた追悼文を、所定の原稿用紙に書き写し、そして編集をさせていただきました。鉛筆を運びながら、まぶたが熱くなり、時には涙をぬぐいながら書き綴りました。そして姿は見えなくなっても、二人はみんなの中にたくましく生きていると思えました。町内を歩いていると、町民の皆さんから、生前の和子さんの話、英治さんが元気だったら、と惜しむ声を聞かされます。また遠路おまいりに訪れて下さる方が今でもあります。
この追悼文集の刊行にあたり、ご寄稿をいただいた皆様、ご協力をいただいた方々に、心から厚くお礼を申しあげます。
残された千春君と慶子ちゃんの幸せを願う声が沢山寄せられました。当時中学生だった二人も、もうすぐ成人になろうとしています。二人とも悲しみにめげず、高校を卒業、元気に頑張っていることを付記させていただきます。
この文集を1991年、8月12日の七回忌の墓前にささげ、英治さん、和子さん、咲子ちゃんの御霊の安らかならんことを、皆様とともにお祈りいたします。
祝部幸正
上記文章はこちらのHPより引用しました→
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-yama.htm
http://jp.youtube.com/watch?v=YvuSD0Z2vZA
人の持つ「運命」とは、こんなにも人によって違うのか・・・と深く考えさせられる。「生きていること」「生き抜くこと」が幸せなのだと・・・そして、人に「愛」を無償で与えられることが幸せなのだと・・・










