お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

子育てハッピーアドバイス

2007年10月28日 | 本・雑誌・漫画
子育てハッピーアドバイス
明橋 大二,太田 知子
1万年堂出版

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出版社 / 著者からの内容紹介
医師・スクールカウンセラーとして活躍中の著者の最新刊。総計70万部を突破したベストセラー『輝ける子』シリーズ4冊に収められた、子育てに関するさまざまなアドバイスの中から、特に大切な項目をピックアップしている。シリーズ未収録の内容も多数紹介。楽しいマンガやイラストを交えて解説されており、誰にでも読みやすく、分かりやすく、親しみやすい編集となっている。家事に育児に忙しく、読書の時間がとれない母親にもピッタリの1冊。

内容(「BOOK」データベースより)
“輝ける子”に育つとっても大切なこと。

内容(「MARC」データベースより)
過去の著作の中で特に大切なこと、反響が大きかったことを選び、診療や相談で感じたことを加えて、これから子育てしようとするお父さん、お母さんに向けたいろいろなヒントを、イラストやマンガの形でわかりやすく描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
明橋 大二
昭和34年、大阪府生まれ。精神科医。京都大学医学部卒業。国立京都病院内科、名古屋大学医学部附属病院精神科、愛知県立城山病院をへて、真生会富山病院心療内科部長。児童相談所嘱託医、小学校スクールカウンセラー、富山県児童虐待対応相談チーム委員、NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと副理事長

太田 知子
昭和50年、東京都生まれ。イラスト、マンガを仕事とする(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
子育てハッピーアドバイス 2
明橋 大二,太田 知子
1万年堂出版

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出版社/著者からの内容紹介
ベストセラーの第2弾。医師・スクールカウンセラーの著者が、子育てに関する質問の中から、特に大切なものを取り上げ、具体的に答える。
 今すぐ実践できるアドバイスが満載で、子育て中の母親だけでなく、父親、祖父母へのメッセージも込められた、家族みんなが笑顔になれるQ&A集。
 前作同様、オールカラーの楽しいマンガやイラストを交え、要点を短い文章でまとめているため、誰にでも読みやすく、分かりやすい編集になっている。

内容(「BOOK」データベースより)
家族みんなが笑顔になれる!子育てQ&A集。
出版社/著者からの内容紹介
100万部突破のシリーズ第3弾。
「キレない子」に育てるために、親として、どんな心がけが必要なのか。幼少期からの、子どもの心の育て方を、医師・スクールカウンセラーの著者が、具体的にアドバイスする。
前2作同様、オールカラーの楽しいマンガやイラストが満載で、誰にでも読みやすく、分かりやすい編集になっている。

内容(「BOOK」データベースより)
親が楽になると、子どもも楽になります。シリーズ第三弾は「心の育て方」を中心とした本編と、Q&A編の2部構成。
10代からの子育てハッピーアドバイス
明橋 大二,太田 知子
1万年堂出版

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「子育てハッピーアドバイス」シリーズは分かりやすく簡潔でおススメ。
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鶴治療院へのアクセスはこちら!

2007年10月28日 | 病院・薬・病気
是非行ってみて下さい。
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鶴治療院・・・僕と3人、特に次男のアトピーを治して下さっている大切なところ。

2007年10月28日 | 病院・薬・病気
長女は「卵」の成分が少しでも入ったものを食べたら、救急車だったのが、今では「卵焼き」半切れ、食べられる様になった。長男も今ではなんでも食べられる。次男のアトピーは未だひどく、夜中にもボリボリと体中を掻き毟り、朝血だらけになっている。もちろん、「卵」「牛乳(牛肉・乳化剤等、乳製品はすべてNG)」は食べられない。まだ小学4年生なので、子供である今、治しておけば、大人になって苦しい思いをしなくて済む。僕は漢方(東洋医学)に出会う30歳の直前まで、ストレスやハウスダスト、食べ物で、痒くなり、夜中に掻き毟り、血だらけになっていた。いろんな医者に行ったが、この「鶴治療院」が最終目的地になった。「アトピーの天竺」である。アトピー以外の難病の治療もされているので、関心のある方は一度行ってみられては如何?
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桶谷式 母乳で育てる本

2007年10月28日 | 子供・動物・生き物・ペット
桶谷式乳房管理法の実際 (〔1〕)
桶谷 そとみ
桶谷庄蔵

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桶谷式 母乳で育てる本
桶谷式乳房管理法研鑚会,小林 美智子
主婦の友社

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出版社/著者からの内容紹介
「おっぱいが出ない」「赤ちゃんが飲んでくれない」「ちゃんと出ているかどうか不安」といった、母乳の悩みや不安を抱えたお母さんたちが、桶谷式母乳育児相談室に毎日やってくる。母乳で育てたいと考えるお母さんたちは多いのに、実際に母乳で育てることのできる母親は約40%にすぎない。どこでつまづいてしまうのだろうか。本書は「おっぱいは出るもの・出せるもの」という信念のもとに、妊娠中の母乳管理から断乳までの長い母乳育児期間のすべてを、やさしくていねいに解説している。現場の助産婦ならではの豊富な体験例と現実に即した指導法が、びっくりするほどわかりやすく、「これなら私も母乳で育てられる」と納得できること間違いなし。そして、読んだあと「なんて母乳育児ってすばらしいんだろう」としみじみ実感してしまう。
内容としては
桶谷式乳房治療手技の紹介
妊娠中~産後すぐの母乳と赤ちゃんの状態
赤ちゃんの上手な抱き方飲ませ方
母乳が足りないと思っている人へ
乳房のトラブルの予防とケア
月齢別の母乳育児
お母さんの食事と母乳の関係
断乳
働くお母さんと母乳
小さく生まれた赤ちゃんと母乳
ほか、体験談やQ&Aも満載。

内容(「BOOK」データベースより)
おっぱいは出るもの。出せるもの、妊娠中から断乳までの母乳育児レッスン、母乳不足が心配なとき、おっぱいのトラブルとケア、感動の一瞬・桶谷式断乳法ほか、桶谷式母乳育児指導を解説。

内容(「MARC」データベースより)
母乳で育てたい、と願っている母親への指南書。「おっぱいはでるもの、出せるもの」という信念のもとに、母乳育児のノウハウがぎっしりつまっている。桶谷式乳房手技が受けられる相談室のリストを掲載。

出版社 販売情報室
母乳育児のついての悩みや不安を抱えるお母さんたちに。 「おっぱいが出ない」「赤ちゃんが飲んでくれない」「ちゃんと出ているかどうか不安」といった、母乳の悩みや不安を抱えたお母さんたちが、桶谷式母乳育児相談室に毎日やってくる。母乳で育てたいと考えるお母さんたちは多いのに、実際に母乳で育てることのできる母親は約40%にすぎない。どこでつまづいてしまうのだろうか。本書は「おっぱいは出るもの・出せるもの」という信念のもとに、妊娠中の母乳管理から断乳までの長い母乳育児期間のすべてを、やさしくていねいに解説している。現場の助産婦ならではの豊富な体験例と現実に即した指導法が、びっくりするほどわかりやすく、「これなら私も母乳で育てられる」と納得できること間違いなし。そして、読んだあと「なんて母乳育児ってすばらしいんだろうとしみじみ実感してしまう。内容としては★桶谷式乳房治療手技の紹介★妊娠中~産後すぐの母乳と赤ちゃんの状態★赤ちゃんの上手な抱き方飲ませ方★母乳が足りないと思っている人へ★乳房のトラブルの予防とケア★月齢別の母乳育児★お母さんの食事と母乳の関係★断乳★働くお母さんと母乳★小さく生まれた赤ちゃんと母乳、ほか体験談やQ&Aも満載。


うちの子供は3人とも「桶谷式」で育てた。大きくなってからの「性格」にも影響を与えるという。良い質の母乳を赤ちゃんに飲ませる事で、赤ちゃんの体内から変えていくという事だろう。うちの子供にはとても良かったと思っている。
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内臓を強くする整体法―内臓力を回復して体の中から若返る

2007年10月28日 | 健康・スポーツ
内臓を強くする整体法―内臓力を回復して体の中から若返る
井本 邦昭
高橋書店

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内容(「MARC」データベースより)
人間の体は骨も筋肉も内臓も、すべてが密接に関係し合い、互いに助け合うことで初めてスムーズに機能します。内臓のシステムや状態、症状に焦点を当てて解説。井本整体で開発されてきた体操も写真と解説で詳しく紹介する。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
井本 邦昭
1944年山口県生まれ。井本整体主宰。医学博士。井本整体東京本部、朝日カルチャーセンターなどで整体法の講座を開講。雑誌などにも整体法について数多く執筆している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


この井本さんの直弟子の方と友達で、こないだ久しぶりに会った。井本さんは、「白血病」の患者さんを診て、簡単な体操をする様にと指導したが、患者さんは本気にせず、西洋医学の様々な治療法を試した。しかし、病状は末期ガンになり、藁にもすがる思いで、井本さんに教えて貰った体操を始めたら、体の免疫力が上がり、「白血病」が完治したのだ。人間の体って不思議。強い。その免疫力を上げて病気を治すのが「整体」「鍼灸」「気功」「ヨーガ」なのである。
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実践「免疫革命」爪もみ療法―がん・アトピー・リウマチ・糖尿病も治る

2007年10月28日 | 病院・薬・病気
実践「免疫革命」爪もみ療法―がん・アトピー・リウマチ・糖尿病も治る (講談社プラスアルファ新書)
福田 稔
講談社

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内容(「BOOK」データベースより)
もむだけで治る驚異の免疫療法。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
福田 稔
1939年、福島県に生まれる。新潟大学医学部を卒業、1967年、新潟大学医学部第1外科に入局。1973年頃より1990年頃まで胃切除後の牛乳不耐症および骨粗鬆症、虫歯、腰痛等についての研究を続ける。1990年より始めた気圧と虫垂炎の研究を通じて、安保徹新潟大学教授との共同研究を進め、『福田‐安保の法則』を発見。自律神経と病気治療の関係から、新しい免疫療法を行い、成果を上げている。2001年4月より、「日本自律神経免疫治療研究会」の理事長を務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

昨日、診察を受けに行った西新宿の「鶴治療院」の人が教えてくれた。手や足にあるツボをボールペンなどの先で10秒押すだけで、体の免疫力が高まるそうだ。早速実践してみよう。

そうそう、以前紹介した「ヨガのDVD」が届いて、今日30分ほど、初級コースをやってみたが、体の中心が温まり、ストレス軽減等、心身ともに効果がありそう。こちらも楽しみ。
綿本彰のパワーヨーガ~美しいボディラインをつくる セレブ流ダイエット~

NHKソフトウェア

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内容紹介
欧米で爆発的な人気を博しているパワーヨーガ。すばらしいボディメイク効果とメンタル調整効果で、ハリウッドセレブやスーパーモデルを虜にしている。このDVDは、初心者が自宅で気軽にできるパワーヨーガのプログラムを紹介。ヨーガの基本のほか、身体の気になる部分を集中的にひきしめるプログラムなど、タイプに合わせてパワーヨーガを行えるよう構成されている。
《監修》 綿本彰

【収録内容】
《EFFECT パワーヨーガの効果》
1. ボディメイク効果
2. メンタル調整効果
《CONTENTS》
●呼吸法・ウォームアップ
●太陽礼拝のポーズ
●プログラム
A. 脚やせプログラム
ふくらはぎ~太ももをひきしめる効果のあるプログラム。
B. ヒップアッププログラム
お尻をキュッと上げ、美しいヒップラインを作る効果のあるプログラム。
C. お腹引き締めプログラム
ウエストをすっきりと細くひきしめる効果のあるプログラム。パワーとクールダウン、2つのパートで構成。


内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
欧米でセレブやスーパーモデルに人気の“パワーヨーガ”のハウツーDVD。“パワーヨーガ”は、伝統的なヨーガにストレッチや筋力トレーニングの要素を加えたエクササイズ。日本の先駆者・綿本彰が監修を手掛け、斬新なエクササイズを細かく紹介する。

ヨーガマットも買う事にした。


ヨガストレッチマットPER(エコタイプ) ライトブルー YK600

ヨガストレッチ

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メーカーについて
ヨガストレッチは、スポーツフィットネス、トレーニング、健康用品の専門メーカーである秦運動具工業株式会社が販売する、ヨガとストレッチ用品のブランド。ヨガやストレッチに使えるマット、ブロック、ストラップなどを取り扱っている。

商品説明
「ヨガストレッチマット YK600」は、ヨガやストレッチなど、あらゆる運動に活用できるトレーニングマットです。厚さ6mmの厚手タイプで、環境に優しい新素材を使用。木の床に置くと張り付いてすべりにくくなります。また、ポリエステル繊維が網状にくみこまれているので丈夫で伸びません。汚れた時は水洗いが可能。コンパクトに丸めることができるので収納にも便利です。

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カワイイは万国共通語になった!(ヘンタイも)

2007年10月28日 | 旅・外国
 このところ、アイデアが不調でなかなか、お知らせが書けません。何とかせねば、タネを探さねば、と、ときどき面白いことにぶつかる、佐藤渡辺のサイトにリンクしてくるサイトを逆にたどっていて、何がどうなったか、kawaii カワイイという言葉が、外国で大人気と知りました。
 多分、世界の国名の由来を探して gooの”教えて”から「世界の国名と国旗の由来など」のページへ来た人が38人いて、逆にたどると「フランスの国名の由来は民族の名前から」とか書いてあり、はて、そんなこと書いたかな?とフランスに関する記述をチェックしていたときのことです。
 まあ、それらしいことは書いていましたが、フランスからのアクセスは極めて少ないと書いていました。最近はどうかな?と記録を調べたら、05年12月の佐藤渡辺へのアクセス記録では4,589ファイルビューと、アメリカ、カナダ、イギリス、オランダ、中国、オーストラリア、フィリピン、台湾、韓国についで第10位に来ています。
 ここで、つい最近、朝日新聞にカワイイという言葉がフランスでも大流行という記事があったのを思い出して、"kawaii"と".fr"、つまりフランスのカワイイを検索したら、101,000 件がヒットしました。カワイイ壁紙、カワイイアニメ、カワイイアートゾーンなど盛りだくさんで、kawaii.frというドメインが16,000フランで売りに出ています。hentai.frというのが 21,000フランです。そんなモノまで日本文化にかぶれているようです。
 21,000フランは30くらいの中で二番目の値段です。ぱっとしない目的に使われるのでしょう。"hentai.fr"を検索すると505件がヒットします。すべてそういう目的です。一番安いのが webmaitre.fr、これは webmasterと同じですが1,200フランでした。
 それではと、"kawaii" -".jp" ".uk"などと検索キーワードを変えて、検索してみると、uk イギリスでは 148,000件がヒットします。-".jp"を付けたのは日本のサイトが出てくるのを防ぐためです。ca カナダだと、146,000件、au オーストラリアでは131,000 件、de ドイツだと実に 2,020,000件です。試しに、お隣の韓国 krだと18,400 件、中国 cnでは26,400件です。どうも国民感情が関係しているようです。
 どうやらヘンタイも万国共通語になっているようで、これも同じように検索すると、fr 2,150,000件、uk 1,880,000件、au 3,050,000件、deは実に 5,910,000件です。何とも日本人のヘンタイは世界的に有名になったものです。カワイイどころではありません。韓国が 315,000件、中国が 423,000件です。
 とにかく、日本発の文化が世界に広まっているのは確かでしょう。そのうちに"dangou"や"gisou"も国際語の仲間入りするかも知れません。ブッシュさんもフセインさんと、ちゃんと"dangou"すれば良かったのに。小泉さんは"dangou"はお嫌いのようで、その結果が韓国、中国へのカワイイの浸透にも響いているようです。

"gisou"と言えば、四カ所さんはどこの大手ゼネコン出身なのでしょう?
 ネットで検索してみたのですが、「どこのゼネコンだろう?」という記事はすぐ出てくるのですが、答えはどうしても出てきません。検索の腕はかなりのものだと自負しているのですが、無力でした。どうなっているのでしょう?。民主党もこの問題は深追いしない気配ですし。
(上記文章をHPより引用しました→http://watanabesato.co.jp/authorspage/inforecords/inforecordssw003.htm


新しい「アキバ系」の「日本語」も海外に輸出される様になったんやなぁ~フランス人は日本をどう見ているんやろ?
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いのちってなんだろう (子どもだって哲学 (1))

2007年10月28日 | 本・雑誌・漫画
いのちってなんだろう (子どもだって哲学 (1))
中村 桂子,金森 俊朗,沼野 尚美,高橋 卓志,鷲田 清一
佼成出版社

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内容(「MARC」データベースより)
子どもの身近な生活の中に「哲学する種」がある。哲学者をはじめ、さまざまな職業の著者が自分の経験を語りながら、わかりやすく「いのちってなんだろう」を考える。12歳から読める、生活のなかで探求する哲学シリーズ。


こんな世の中、親がちゃんと「生きる哲学」を子供に教えていくべきだろう・・・当たり前のことだが、それがなかなかできていない。僕も含め。
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3年後打ち上げ目標、上空180キロ「超低空衛星」開発へ

2007年10月28日 | エッセイ・日記・意見
 上空180キロというこれまでにない低い高度を回る新型の観測衛星の開発に、宇宙航空研究開発機構(立川敬二理事長)が乗り出すことが27日わかった。超低高度なら、高倍率のカメラを搭載しなくても、地表や気象の観測が可能になり、大幅なコスト削減につながる。宇宙機構は既に特別チームを設置、3年後の打ち上げをめざしている。

 新衛星は、太陽電池を側面にはりつけた形で、長さ約3メートル、重さ400~600キロの小型。衛星は通常、高度500~1000キロを回り、推力は持たないのが一般的。ロケットで打ち上げた勢いで、慣性飛行を続ける。

 高度180キロでは、わずかな大気の抵抗があり、普通の衛星だと推力を失い、2~3日で地球の大気圏(高度約100キロ内)に突入する。新衛星はこの課題に対し通常のロケットエンジンの10倍の性能を持つ「イオンエンジン」を搭載して高度を維持し、3年以上も周回できるという。

 イオンエンジンは、小惑星探査機「はやぶさ」でも高性能が実証された宇宙機構の独自技術。超低高度なら小型カメラでも十分機能する。また、レーダーを搭載すれば、少ない電力で高い解像度を持つ観測衛星になるという。

 費用は搭載機器にもよるが、コストは従来の衛星の3分の1~5分の1に抑えられると宇宙機構ではみている。3種類の大型センサーを搭載した観測衛星「だいち」は550億円の開発費がかかっている。

 日本の衛星は高度600キロ以上を周回。国際宇宙ステーションでも330~480キロ程度。来年、欧州宇宙機関が高度250キロを回る衛星を打ち上げる予定だが、宇宙機構の新衛星は、それをしのぐことになる。
(読売新聞紙面より引用)



宇宙衛星にかかる費用を節約して、消費税等の増税を止めて欲しい。多分、この開発も「国家予算」でしょ?
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川上慶子さん

2007年10月28日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
85年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故の生存者の1人、川上慶子さんが入院した国立高崎病院(当時)=群馬県高崎市=の副院長だった故浦野悦郎さん(事故当時58歳)が、慶子さんが転院するまでの2週間を記録した手記を残していた。入院時の様子などが克明に記され、事故から20年たつ今年、初めて明らかになった。
 浦野さんは、慶子さんの医師団の一人として治療に当たった。手記は今年7月、浦野さんの遺品を整理していた妻千代子さん(66)が書斎の本棚から見つけた。市販のリポート用紙に約80ページにわたってつづられていた。
 「患者(慶子さん)が搬入されたのは8月13日午後3時45分頃(ごろ)であった。(中略)14日。お水が飲みたい又(また)うわ言のように痛いと言う。(中略)事故により目の前で父、母、妹を失ったショックからかほとんど自語を発しない。(中略)事故のこと、家族の死については(慶子さんに)話さない方がよい」
 医師たちは慶子さんの心のケアに腐心する。ようやく口を開き、家族の生死を尋ねる慶子さんに、医師たちは事実を伝えることを決めた。
 「(8月15日)午前10時半頃から家人(親族)より両親と妹の死を告げさす。(中略)『お父ちゃん、お母ちゃん、咲子(妹)は駄目だったんよ』。彼女はポロポロと涙をこぼしていたが声を上げて嗚咽(おえつ)する様なことはなかった」
 転院が決まった日、慶子さんは「島根に帰りたくない。家には思い出すものがいっぱいありすぎるから」とこぼし、浦野さんは「返す言葉もなかった」と記している。
 同27日、慶子さんは島根県内の病院に転院。3カ月後、入院中の慶子さんから手紙が届いた。後遺症が残る右手で書かれた字は震え、「早く学校に行って友達にあいたいです」と記されていた。
 以後、慶子さんとの交流は途絶えた。浦野さんは94年6月に白血病で死去。亡くなる2カ月前、慶子さんが看護師になったことを週刊誌で知った。浦野さんは「良かった」と喜び、週刊誌をしばらく枕元に置いていたという。千代子さんは「退院後もずっと気にしていた。医者人生で最も忘れられない患者だったんでしょう」と振り返った。【杉本修作、伊澤拓也】
 ◇94年、看護師に…川上さん
 事故は85年8月12日夕、羽田から大阪へ向かっていた日航123便ボーイング747ジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗客・乗員524人のうち520人が死亡した。
 4人の生存者の一人となった川上慶子さんは事故当時12歳。島根県大社町(現出雲市)から北海道への家族旅行の帰途、事故に遭い、会社員の父と母、妹の3人を失った。慶子さんは看護師だった母和子さん(当時39歳)と同じ医療の道を選び、94年春に看護師として兵庫県内の病院に就職した。
(毎日新聞より引用)

幸せを掴んだ川上慶子さん
2005年07月17日 | その他
タイガースが21年ぶりの優勝を決めた1985年。その年の8月12日に、日本航空123便が群馬県の高天原山(たかまがはらやま)に墜落した。*1乗員&乗客併せて524人の内520人が死亡。助かったのは僅か4人という大惨事で在った。亡くなられた方の中には、歌手の坂本九氏やタイガースの中埜肇球団社長、女優の北原遥さん等著名人も居られた。(個人的には「新八犬伝」に見入って来た世代なので、坂本九氏の死は哀しみが‭一入だった。)

レスキュー隊が現場に到着出来たのは、墜落から一夜明けてからの事だった。現場の余りの惨状に、当初は全員死亡を誰もが疑わなかったと思う。それ程酷い状況で在った。*2しかし、4人の命が救い出される事となる。その中の一人が川上慶子ちゃん、当時12歳だった。救出された時の姿は今でもハッキリと脳裏に刻まれている。あれから、もうすぐ20年を迎える事になる・・・。

「週刊朝日(7月15日号)」に「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」という記事が載っていた。慶子さんの父親の姉、つまり伯母に当たる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。”あの日”、慶子さんは父親(当時41歳)と母親(同39歳)、そして妹(同7歳)と共に123便に乗り合わせていた。当時大阪に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。待てど暮らせど来ない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったという。翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心の凄まじさを感じ、又、近くに居た人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。

その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。

****************************
「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」

「(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。」
****************************

事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリが既に現場に到着していたものの、「日本側が現場に向っているので帰還せよ。」という上官の指示で現場には降りなかったのだとか。(在日米軍による誤爆で、123便は撃墜されたという説も在る。)確かに、慶子さんもその事を語っている。

****************************
「(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」
****************************

「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの”意図”が在ったのか不明だが、人命第一で動くべきであったろう。

事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(飛行機には乗り合わせていなかった)兄の3人で生活し、小田さんも大阪から足繁く通って彼女等の面倒をみた。美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。小田さんは、「今は色々な事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」と漏らした事も在ったのだそうだ。被害者が、マスメディアの”煽り”で更なる心の傷を負わされる典型だろう。この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。

慶子さんが保健士だった母親の遺志を継いで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。

やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、夫となる男性と知り合った慶子さん。中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言い続けていた彼女が、その男性と結婚式を挙げたのは2002年の秋だった。今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。

事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に乗る事は出来る様になったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。

事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。廻り近所に”あの川上慶子さん”と知られる事も無く、愛する家族と共に送る”普通の生活”に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。

最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。そして、その後に彼女が歩んで来た苦難の道程。やっと幸せな生活を掴んだ事を知り、思わず頬が緩んだ。これからも、亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。

*1 当時の報道が余りにも強烈に脳裏に焼き付いていた為、自分自身もつい最近迄誤解していたのだが、実際の墜落現場は御巣鷹山ではなく、その直ぐ南に位置している高天原山の尾根という事で在る。

*2 この事故をモデルにしたと思われる山崎豊子女史の「沈まぬ太陽」には、如何に現場が”地獄絵図”の有様で在ったかが記述されている。「白い巨塔」や「大地の子」、「華麗なる一族」、「不毛地帯」等々、多くの名作を世に送り出している彼女だが、この「沈まぬ太陽」も心に残る作品の一つで在る。
上記文章はこちらのHPようり引用しました→http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/3af1244c227aa673412f99309b8879fa

奇跡的に助かった4人のうちの1人、川上慶子さん(32)の兄、千春さん(34)は島根県出雲市に住む。5年前に結婚し、長男の創也君(3)も生まれた。

 事故当時は中学2年生。野球部の練習のため、留守番をしていた。父の英治さん(当時41歳)、母の和子さん(同39歳)、もう一人の妹の咲子さん(同7歳)を奪われ、祖母のキミエさん、慶子さんと3人の生活が始まった。

 「生きている実感が持てなかった」。心臓の病気でキミエさんが入退院を繰り返すようになると、一家の大黒柱として重圧がのしかかった。高校2年の秋、不登校になり、中退。慶子さんは地元の高校から大阪の看護系短大に進んだ。

 「失敗や挫折を事故のせいにしていた。慶子に比べ、自分に弱さがあったかもしれない」

 町議として医療費貸し付け制度の創設に奔走した父、朝から晩まで患者さんのもとを駆け回った看護師の母。その姿を忘れることはなかった。親類の励ましもあって、通信制高校から大学に進学。福祉関連の会社に勤め、お年寄りの車いすを修理し、住宅の段差をなくす工事をする。

 慶子さんは2002年に結婚し、昨年夏に男の子を出産した。四国に移り住み、看護師を辞めて子育てに専念する。今年の大型連休には帰省し、墓前に長男の誕生を報告した。

 2人を見守ってきた伯母の池田富士子さん(65)は「平凡だが、地に足の付いた幸せをつかんでくれた」と語る。

 夫婦で支え合う生活や子供が生まれる喜び。「父も母もきっと経験していた。決して不幸ではなかった。両親と妹の命は次の世代につながっていくんだ」。千春さんはおもちゃで遊ぶ創也君をいとおしそうに見つめた。(おわり)
(読売新聞より引用)


1990年、8月11日の夕方、明日は三人の命日だからと英治さんところ(つい、そう言ってしまう)へ寄って手桶を借りてお墓まいりをした。夏は蚊が発生するので伏せてあった花立ての筒を起こし、水を注いで、持って来た菊やりんどうなどの花を供えた。一年前、キミエおばあさんが病に倒れ家を離れてからからは、英治さんの姉妹が交替で留守宅の世話をしているのだが、「お墓にまで、なかなか行き届かなくて」と、洗濯物を取り込んでいたおばさんは苦笑しながら言った。
 それから3日後の「赤旗」投書欄、「川上さん夫婦の記録残したい」が目に入った時、「さあ、どうしよう」と、そのことが頭から離れなくなってしまった。そんなところへ、佐々木隆一さんが「出雲でやろう、二人が救援会の関係で旅行に出たのだから、救援会がやることにしよう」と言って下さった時には、これで何とか出来ると思え、これまでの長年のもやが晴れる気持ちになった。
 6年前の8月12日、夕闇が迫る頃、川上さん一家を知る者を大きな驚きと、続く悲しみの中におとし込んでしまった日航機墜落事故。
 あの日、私も夕食をとりながら〝日航機レーダーから機影消える〟とのテレビのテロップを横目に見、「また日航か」と思っているところへ電話のベルが鳴った。「まさか、そんなこと」と繰り返しながら英治さんところへ行くと、キミエおばあさんとおばさん二人がいて、すでに大阪のおばさんからも連絡が入っていて、おばあさんは私の顔を見るなり「祝部さん、今度の旅行を思い立ったは、英治かね、和ちゃんかね……」と問い詰めるように言われたが、返す言葉はなかった。やがて家の中は人の出入りで騒然となった。
 カタカナで発表される搭乗者名簿はカワカミエイジ以外はカワカミフサコ、カワカミエイイチ、カワカミテツジで「カワカミエイジはどこにでもある名前だ、汽車に乗ったかもしれない」などと、みんな無事を祈った。
 やがて夜が明け、現地に向かう千春君らを見送って、昼前になった。目の前の有線放送電話のベルが鳴って、受話器を取ると「慶子ちゃんがテレビに・・・・・・」の声が飛び込んだ。「慶子が無事なら三人も……」と待ったが、その日は何の情報も入らなかった。夕飯におばあさんは、「慶子が助かったから」と赤飯を炊いた。
 14日の午後2時25分、「和子さんの確認をした、免許証で……」、そして4時53分に英治さんの、5時58分に咲子ちゃん確認の悲しい知らせが次々に入った。「慶子が助かったけん……」と言う以外に、みんな慰めの言葉も出なかった。
 お寺さんへの連絡、お通夜や葬儀の準備、その間にマスコミ取材への対応、臨時電話の申し込み、それにしても毎日暑い日が続く。17日昼前に遺骨になってしまった三人が帰ってきた。18日午後4時からの葬儀には沢山の方の参列をいただいた。
 一段落して、私は群馬に向かった。上野村は想像以上に山また山の中にあった。消防団の人に会って、救助作業のお話をうかがった。現場へは行けなかったが武道峠から遺体捜索のヘリが飛ぶ尾根の向こうに墜落現場を想った。国立高崎病院に入院している慶子ちゃんの病室にも見舞った。
 上野村から帰って、私はたまっていた新聞各紙の切り抜きをした。それ以来、日航機事故関係の記事が目に飛び込み、それを切り抜いた。〝日航と航空行政〟〝遺族、慰霊〟〝刑事責任〟〝川上さん一家〟など十数項目に分類整理し、台紙に張ってファイルしてある。先日の事故機内写真の公表まで、数千記事になってしまって、これを見るにつけても、この事故がいかに重大で悲惨なものであったか、改めて思い知らされる。
 このような惨事が再び繰り返されるようなことは、絶対にあってはならない。この追悼文集は、故人を偲ぶとともに、その願いを強く込めてつくられた。
 川上英治さんは41年と9ヵ月、和子さんは39年と10ヵ月の、人生80年と言われるこの時代に、正に人生半ばにして、私たちの前から突然姿を消してしまいました。満7歳の誕生日をむかえた咲子ちゃんとともに。二人は共に北九州、八幡で職に就き、青春を過ごし、そして結ばれて出雲の地へ。民主的、革新的な運動の先頭に立って、社会のため、地域のために文字通り奮闘してきました。このことは、ご寄稿をいただいた皆様の、どの文面からも伺い知ることが出来ます。
 文集づくりの中で、私は皆様から寄せられた追悼文を、所定の原稿用紙に書き写し、そして編集をさせていただきました。鉛筆を運びながら、まぶたが熱くなり、時には涙をぬぐいながら書き綴りました。そして姿は見えなくなっても、二人はみんなの中にたくましく生きていると思えました。町内を歩いていると、町民の皆さんから、生前の和子さんの話、英治さんが元気だったら、と惜しむ声を聞かされます。また遠路おまいりに訪れて下さる方が今でもあります。
 この追悼文集の刊行にあたり、ご寄稿をいただいた皆様、ご協力をいただいた方々に、心から厚くお礼を申しあげます。
 残された千春君と慶子ちゃんの幸せを願う声が沢山寄せられました。当時中学生だった二人も、もうすぐ成人になろうとしています。二人とも悲しみにめげず、高校を卒業、元気に頑張っていることを付記させていただきます。
 この文集を1991年、8月12日の七回忌の墓前にささげ、英治さん、和子さん、咲子ちゃんの御霊の安らかならんことを、皆様とともにお祈りいたします。

祝部幸正

上記文章はこちらのHPより引用しました→http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-yama.htm


http://jp.youtube.com/watch?v=YvuSD0Z2vZA


人の持つ「運命」とは、こんなにも人によって違うのか・・・と深く考えさせられる。「生きていること」「生き抜くこと」が幸せなのだと・・・そして、人に「愛」を無償で与えられることが幸せなのだと・・・
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映画『ハダカの城~西宮冷蔵・水谷洋一~』

2007年10月28日 | 映画・DVD・ビデオ
偽装告発…これは始まりの終わりであって、終わりの始まりではない

2002年1月23日。朝日、毎日新聞が第1面トップで、ある記事を掲載した。“雪印食品・詰め替え”“輸入牛肉、国産と偽装”“狂牛病の制度使い 買い取り申請”。あの「雪印食品・牛肉偽装詐欺事件」である。その記事で、雪印の詐欺行為を告発したのが、西宮市にある倉庫会社「西宮冷蔵」社長・水谷洋一氏だった。その告発から3ヵ月後、雪印食品は解体。しかしその後、西宮冷蔵も偽装詰め替え作業時に在庫証明書が改ざんされていたと、国土交通省より営業停止処分を受ける。続けて、相次ぐ取引先の撤退。2003年5月25日には、電気代滞納により倉庫送電が停止された。

2003年10月、大阪・梅田曽根崎陸橋。寒風にゆれる“まけへんで!!西宮冷蔵”の幟。水谷社長は、西宮冷蔵再建を目指し、告発の経緯を記した書籍販売の露店を開いていた。わずかな生活費を稼ぐのと、再建支援のカンパを募ってたが、自らの信念の火が消えていないことを証明するためだった。
この作品は、その陸橋での活動から再建、営業再開から1年目までの記録である。(作品資料より)
公式ブログ→http://diary.jp.aol.com/nkhuhjyme7sn/

正義は我にあり―西宮冷蔵・水谷洋一の闘い
ロシナンテ社編集部
アットワークス

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内容(「MARC」データベースより)
雪印食品・牛肉偽装詐欺事件を告発した西宮冷蔵社長。雪印食品の解体後に不当な営業停止処分を受けて窮地に陥ったものの、陸橋の上から再建への訴えを発し続け営業再開を果たすまでの闘いと、内部告発の重要性を訴える。





「雪印の不正」内部告発した関連会社の社長は倒産に追い込まれた。そこからの苦闘を描いた映画である。「赤福」にせよ、「比内鶏」にせよ、内部告発をしたい社員はたくさんいたのだろうが、それをする事で「自分の生活が立ち行かない事になる」のを恐れ、誰もしないのだろう。水谷社長の勇気は凄い。

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