お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

高橋 みゆき

2007年10月24日 | 健康・スポーツ
高橋 みゆき(たかはし みゆき、1978年12月25日 - )は、日本のバレーボール選手。山形県山形市出身。ニックネームはシン。[1]プレミアリーグ・NECレッドロケッツに所属。 血液型O型。

来歴
小学校1年生からバレーボールを始め、2003年、全日本代表のライトを任されるまでは、レフト一筋であった。

1997年、NECレッドロケッツに入団。1999年、第6回Vリーグで新人賞を獲得と共に、チームのリーグ優勝に貢献した。2002年度から2004年度までキャプテンを務めた。

全日本代表では、柳本晶一監督が就任してからライトにコンバートされた。2003年、バレーボール・ワールドカップでは、123得点を挙げ、スパイク決定率4位の大活躍をして、2004年アテネオリンピック出場も果たした。

2005年バレーボール・ワールドグランプリでは、ポジションを本来のレフトに戻ると共に、副キャプテンを任され、ムードメーカーとしてチームを牽引し、得点王を獲得した。

2005年8月から2シーズン、チームからの海外派遣という形で、セリエA1のビチェンツァでプレーした。2005年10月9日、キエリー戦でデビューを果たし、ビチェンツァは3-2で勝利したが、高橋は出場時間が短く、得点をあげるには至らなかった。当初、1年限りの派遣予定だったが、高橋本人の希望で期間延長された。

2007年9月、NECレッドロケッツへ復帰。


人物・エピソード
キャッチコピー
世界が恐れるニッポンの元気印。
2003年バレーボール・ワールドカップの対ポーランド戦で、高橋は日本の勝利に涙ぐむフジテレビの森昭一郎アナを、機転を利かせたマイクパフォーマンスでフォローし、周囲を驚かせた。
2005年バレーボール・ワールドグランプリでは、TV中継ゲストの浜田雅功を、大友愛と共にコートへ引っ張り出して胴上げをし、浜田を赤面させる行動を起こした。
2006年バレーボール世界選手権では、観戦に訪れていた北島三郎に向かって、「さぶちゃ~ん」と叫ぶというマイクパフォーマンスも見せた。
元チームメイトで、同じ歳の仁木希と1番仲が良い。
柳本監督から怒鳴られたのは、(レポートの提出遅れでの)一度だけ。

プレースタイル
マークをかいくぐっての速い攻撃、相手のブロックアウトを狙うスパイク、センターと絡んだ時間差攻撃を得意としている。アタッカーとしては小柄であるが、抜群のテクニックでプレミアリーグ、セリエA1、全日本代表で、中心選手として活躍している。


球歴・受賞歴
所属チーム履歴
山形東小→山形第四中→山形商業高等学校→NECレッドロケッツ(1997-2005年)→ヴィチェンツァ(イタリア)(2005-2007年 海外派遣)→NECレッドロケッツ(2007年-)
全日本代表としての主な国際大会出場歴
オリンピック - 2004年
世界選手権 - 2002年、2006年
ワールドカップ - 2003年
受賞歴
2000年 第6回Vリーグ 新人賞
2002年 第8回Vリーグ 敢闘賞、ベスト6
2003年 第9回Vリーグ 最高殊勲選手賞、レシーブ賞、サーブ賞、ベスト6
2004年 第10回Vリーグ サーブ賞 
2007年 第14回アジア選手権 最高殊勲選手



元気さ、明るさ、豪快さ、それとプロ根性が好きだ。
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なつかしの昭和爆笑漫才~天国の笑星(スター)~

2007年10月24日 | 映画・DVD・ビデオ
なつかしの昭和爆笑漫才~天国の笑星(スター)~

よしもとアール・アンド・シー

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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
往年の昭和漫才師たちのアーカイブ映像を収録した「花月」シリーズ第1弾。中田ダイマル・ラケットをはじめとした名人級の芸人たちのステージ映像を満載する。月亭八方による時代背景の解説もうれしい、お笑いファン垂涎の1枚。

内容(「Oricon」データベースより)
寄席を沸かせ、寄席に生きた漫才師たちの貴重な映像を収録した、アーカイブ企画「花月シリーズ」第1弾!寄席演芸からテレビのメインコンテンツに至る漫才の過渡期に、漫才ブームへと躍る若手につないだ立役者たち。決して忘れ去られることのない漫才の原型がこの1枚に。

澤田隆治が選んだ中田ダイマル・ラケット ベスト漫才集
中田ダイマル・ラケット
コロムビアミュージックエンタテインメント

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曲目リスト
ディスク:1
1. 僕は幽霊
2. 家庭混線記
3. 地球は回る目は回る
4. 僕の健康法
5. 恋の手ほどき
ディスク:2
1. 僕の発明
2. 僕は迷優
3. 僕の漂流記
4. 僕の夢君の夢
5. 僕の設計図


商品の説明

内容(「CDジャーナル」データベースより)
上方漫才を代表する昭和の爆笑王“中田ダイマル・中田ラケット”の名演を収めた2枚組ベスト。昭和30~50年代の貴重な音源を、メディア・プロデューサーの澤田隆治がセレクト。



「笑い」はええもんですなぁ~最高!
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ダァーッ!ト ファイトキャンプ

2007年10月24日 | 映画・DVD・ビデオ
ダァーッ!ト ファイトキャンプ

リバプール

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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
人気ものまね芸人・アントキの猪木がインストラクター役となり、有名タレント総出演で贈るエクササイズDVD。ナックル・アローやアリキック、ひとりコブラツイストなど、本家・アントニオ猪木の往年の必殺技をモチーフにしたお笑いエクササイズを紹介。


ほんまに痩せるんかなぁ~
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猫田 勝敏

2007年10月24日 | 健康・スポーツ
猫田 勝敏(ねこだ かつとし、1944年2月1日 - 1983年9月4日)は、広島県広島市安佐南区安古市町(当時は安佐郡安古市町)出身の元日本男子バレーボール選手、 バレーボール全日本選手。 東京オリンピックから4大会連続でオリンピック出場を果たしメダルを金・銀・銅の3個を獲得、世界一のセッター(the number one setter of the world)と称された。

来歴
小学校時にバレーボールを始める。中学校時代では9人制でセンターを務めていた。崇徳高校に進み、当時の監督の稲葉正文(故人)にセッターとしての素質を見出され、全国大会で優勝を果たす。

高校卒業後に地元、日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業株式会社広島支店)に入社、専売広島(現JTサンダーズ)に入部した。直後に当時の全日本監督松平康隆の目にとまり、1964年、20歳で東京オリンピックに出場し銅メダルを獲得する。これ以降、猫田は全日本男子の正セッターとして不動の地位を築いていく。1968年、再び松平康隆監督の下でメキシコオリンピックで銀メダルを獲得し、翌1969年のワールドカップでベストセッター賞を受賞した。

1971年には試合中に全治2ヶ月の骨折をし、オリンピック出場が危ぶまれていたが、約8ヶ月のリハビリ生活の末、オリンピック2ヶ月前に試合に復帰する。そして1972年のミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得、日本バレーを世界の頂点に導いた。1976年のモントリオールオリンピックにも出場し4位入賞を果たした。奇策・天井サーブを編み出したことでも知られる。

1980年のモスクワオリンピック最終予選を最後に現役を引退、その年の日本リーグから監督として采配をふるっていたが、胃がんにかかり、1983年9月4日に胃の悪性腫瘍のために死去した。給料の大半を外国のバレー専門書購入に費やし、遠征の連続で家族を顧みることも出来ず、幻覚症状の出た死の直前の病床でも、ブロックサインを出し続けたといわれる。まさにバレーだけに一生を費やした人生だった。享年39。


猫田記念体育館猫田の偉業を記念して、1989年に猫田記念体育館が広島市に完成した。館内には、猫田の活躍を紹介するギャラリーがある。


球歴
球歴:古市小学校→安佐中学校→崇徳高校→専売広島(現JTサンダーズ)
全日本代表としての主な国際大会出場歴
オリンピック
1964年(東京)、1968年(メキシコ)、1972年(ミュンヘン)、1976年(モントリオール)
世界選手権
1966年(チェコスロバキア)、1970年(ブルガリア)、1974年(メキシコ)、1978年(イタリア)
ワールドカップ
1965年(ポーランド)、1969年(東ドイツ)、1977年(日本)


僕が猫田選手の事を知ったのは「ミュンヘンへの道」というテレビ番組だった。猫田選手の控えのセッターが柳本監督とは・・・

アニメドキュメント ミュンヘンへの道は、1972年4月23日から8月20日、および特別編として同年9月24日に不二家の時間(TBS)で放送されたドキュメンタリーとアニメーションを一体化させた番組である。 1971年にタツノコプロ制作、日本テレビで放映した「アニメンタリー 決断」に次ぐ格好だが、「決断」は太平洋戦争を題材にした歴史ものだったのに対し、「ミュンヘンへの道」はオリンピックに関連した同時進行ドキュメントである。「松平ニッポン」(松平康隆監督率いるバレーボール日本代表チーム)が、本当に金メダルを取れるのか、視聴者はドキドキ、ワクワクしながら、五輪や前哨戦の大会を連動して見ることで、メディアミックスの走りともいえる演出効果を果たした。 日テレの「決断」が、最終回はプロ野球読売ジャイアンツ監督、川上哲治を取り上げた「川上監督の決断」であったように、同時進行ドキュメントの強さを発揮して、実写版の「金メダルへの道」を期待したが、なにもなくて拍子抜けしたバレーボールファンも少なくなかった。


概要
番組はバレーボール日本代表が、ミュンヘンオリンピック(同1972年)へ向けて取り組む様をチーム全体、あるいは選手個々のエピソードを交えて取り上げたもので、エピソード部分はアニメーション、また練習の模様などは実写映像を使って放送された。当時、日本オリンピック委員会はアマチュア選手のテレビ出演を厳しく規制していたこともあって、選手エピソード部分についてはアニメーションを利用したものと考えられている。

松平康隆監督の声優は小林昭二が担当した。毎回、猫田勝敏、南将之、森田淳悟、横田忠義、大古誠司ら、チーム全員12人を主役としてストーリーを編み、当時の日本バレーボール界をリードした選手がもちろん実名で登場している。

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西川 史子

2007年10月24日 | テレビ
西川 史子(にしかわ あやこ、1971年4月5日 - )は、神奈川県相模原市出身の美容形成外科医、タレント。所属芸能事務所はセント・フォース→ホリプロ。身長160cm。血液型B型。聖マリアンナ医科大学出身。

来歴
父親が整形外科医で幼少の頃からスパルタ教育を受けていたというが、逆に母親からは溺愛されていた。
湘南白百合学園幼・小・中学校、桐蔭学園高等学校を経て聖マリアンナ医科大学医学部卒業。なお、親は東大に行かせたかったし、本人もそのつもりだったと言っている。
大学在学中の1996年に「ミス日本」を受賞(グランプリではない)。日本テレビ系「恋のから騒ぎ」第3期生として出演したという経歴は、当時より芸能界志向の強さを物語っている。

勤務歴
東京医科大学病院眼科入局、その後退局。聖マリアンナ医科大学病院整形外科に入局するが、約三ヶ月程度で退局。青山メディカルクリニック、西川整形外科医院を経て、松倉クリニックに現在勤務している。
愛煙家でもある。


発言・人物
テレビ等のメディアでは、高慢な毒舌キャラとして知られており、美貌や男性の年収等に関するシビアな発言を多く行っている。但し、論破されたりツッコミを入れられることでボロが出ることもあり、逆にそれが面白さやキャラを引き出し、魅力の1つになっている。

「ブサイクは生きる価値なし」と発言し、これを放送したテレビ朝日やホリプロに「医師が『生きる価値なし』と発言することは如何なものか」として抗議が殺到した。西川は後にこの発言を「ルックスのことだけを指したのではなく、きれいになろうと努力をしないことを指して発言した」と釈明した。
1000万円の車を購入し、1年に1つは400~500万円の腕時計を購入していると番組で告白し、「自身でも購入するが、男性からもプレゼントされる」と語った。
2006年5月18日放送分のテレビ番組「ダウンタウンDX」では「年収4000万以下の男性とはお付き合いしない、それに満たない者はそれまで稼げるようになれ」と発言。
勤務医の側ら、TBSテレビ「エクスプレス」の健康情報担当キャスターを始め、テレビ・ラジオ、新聞・雑誌など多数のメディアに出演している。将来の目標は「医療ジャーナリスト」とのことだが、イメージビデオや写真集も出版している。
2006年4月16日放送のダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!内の企画で斉藤敏豪ことヘイポーとデートを行い、ヘイポーのセクハラに怒り鞭で叩くというキャラクターを演じた。そのなかでヘイポーによる謝罪文で「とんでもないオサセがやってきた」と言われ、それが定着してしまっている。
2006年12月31日、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」のスペシャル「笑ってはいけない警察24時」に監察医役で出演。死体役の温水洋一らに蝋燭を垂らしたり顔面にパイをぶつけたりするなどした。
2007年1月27日に島根県松江市で開かれた自民党県議の集会で柳澤伯夫厚生労働相が発言した「女性は産む機械」発言に対し、辞任要求を求めた福島みずほ社民党党首に対して、自身が出演したレギュラー番組の『ラジかるッ』(日テレ)において、「発言はひどいと思うけど福島さんが我々女性の気持ちを代弁してるかというと、そうじゃない。ヒステリックに騒ぐ、社民党ってそういう所が好きじゃない。」と発言した。
2007年5月29日放送のダウンタウンDXかわら版にて、趣味を告白した。それによると、「テレビに出ること(お金が欲しいとか、好感度を上げたいとは思っていない)」「整形を見破ること(見破った瞬間、嬉しくなる)」の2つ。
2007年6月15日深夜、中山秀征と酒を飲んでタクシーで帰宅したところ玄関先で転倒し、8針縫う怪我を負ったが、自分で縫ったという。



「西川史子」はバラエティーで「いちばん上手くヒールを演じている」のではないだろうか?とても賢い。自分の立ち位置が分かっていて、暴言を吐く。なんか、とっても可愛く感じる僕がいる。
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青木さやか電撃婚 出会って半年、3歳年下ダンサーと

2007年10月24日 | エッセイ・日記・意見
 お笑いタレントの青木さやか(34)が、3歳年下のダンサーと電撃結婚することが22日、分かった。この日、所属事務所を通じてファクスで発表した。出会いから半年のスピード婚で、近日中に婚姻届を提出する予定だ。“負け犬キャラクター”としても人気の青木だが、「一言でいうならば、『ラッキー』です。できるかぎり、持続させるように頑張ります」と幸せいっぱい。会見の予定はない。

 青木は、ファクスで「青木さやかです。私事ですが、この度結婚することになりました」と結婚を報告し、「私と生涯を共にしようと思ってくれた奇特な方を大切にしなくてはと思っています」とコメント。「まだまだ若輩者の私たちですが、今後ともご指導のほど、よろしくお願いします。皆さま、温かく見守って頂ければと思っております」と結んでいる。

 一般人という理由から相手の詳細は不明。挙式・披露宴は未定という。

 23日発売の女性週刊誌「女性自身」によると、2人は友人の紹介で知り合ったという。相手は、歌手さだまさし(55)の代表曲「関白宣言」のような古風な日本男児タイプで、青木は「この人だ」と運命を感じつつ、けんかも度々するなど、自然体の交際で愛をはぐくんできたようだ。

 青木は、フリーアナウンサーからお笑いタレントに転身し、「どこ見てんのよ!!」の“キレギャグ”で大ブレークし、現在8本のレギュラー番組を持つ売れっ子だ。

 私生活では、05年末に結婚秒読みとされた3歳年下の恋人“コージさん”と、途中から遠距離恋愛になったのを発端に破局。その後は、公の場で「(恋人は)いません」としていたが、今年の春ごろに運命の人に出会ったようだ。

 青木は、自身の年齢をタイトルにした私小説風エッセー「34 だから、私は、結局すごくしあわせに思ったんだ」(光文社、25日発売)でも結婚について言及している。

 ▼青木さやか 1973年3月27日、愛知県生まれ。名古屋でフリーアナウンサーとして活動後、オーディションでお笑いタレントに。アナの経験を生かした滑舌の良い口調や毒舌で人気者になる。バラエティー番組で活躍し、司会や女優業もこなす。05年にテレビ番組の企画で初の写真集「Ou Voyez-vous?(仏語で“どこ見てんのよ”の意)」を発売。趣味は、マージャンやパチンコ。特技はピアノ。身長165センチ、体重51キロ。B85・W60・H83センチ。血液型はO。
(中日スポーツ紙面より引用)
34 だから、私は、結局すごくしあわせに思ったんだ
青木 さやか
光文社

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内容紹介
34歳、恋愛障害。「欠点だらけでも、好きになってくれる人っているんだ。助かった、とりあえず死ぬまで生きてみるか――」(本書より)現在TVのレギュラー番組を8本持つ人気女性タレント・青木さやかが「思い惑う34歳」の今だから初めて書けた「私小説」。26歳で名古屋から決意の上京、2K同棲生活、多額な借金、意外なアルバイト、久しぶりに再会した父親との病床での会話、あの“元彼”のこと、恩人の死、そして……TVでは見られなかった「34歳の女性」として自分の歩んできた道のりを、笑いあり&涙ありのエピソードふんだんに率直に綴っています。
巷に多い“お笑いタレント本”とは完全に一線を画す、仕事プライベートの狭間で悩む同世代女性達に必ず共感を呼び起こす34歳の本音が満載です!!完全初出の“本音”を、いくつか紹介すると……
1女性が必ず直面する「仕事」と「恋愛」の両立がいかに大変か。クスッと笑えてどこか切なくて、なんだかホロリとくる青木さやかの実体験が連発。
230代になって思うこと。周りに多くなった“後輩”の接し方、客観的に自分をどう見ているのか、意外な青木の素顔がわかります。
3恋愛がなぜかうまくいかない「恋愛障害」の彼女が、ある日……!! ごめんささい!発売前なのでこれ以上は書けません。是非、一度読んでみてください!!



つい先日、ある番組で「青木さやか」は「西川史子」に「アンタ、芸を捨てて、女になったでしょ!」と突っ込まれ、言い返せず、泣き顔の青木だったが、西川史子の完敗だ。
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NEWS23新司会者に共同通信の後藤氏 TBS

2007年10月24日 | テレビ
 TBS系の報道番組「筑紫哲也NEWS23」のメーンキャスターに、共同通信社・前編集局長の後藤謙次さん(58)が起用されることが明らかになった。遅くとも08年初めから出演予定。

 後藤さんは政治部長、編集委員などを歴任。05~06年にTBS「イブニング5」でコメンテーターを務めた。NEWS23に出演したこともある。10月31日付で退社する。

 筑紫さんは今年5月から初期の肺がん治療を理由に休養。10月8日に番組に復帰したが、毎日の出演はできず、番組はメーンキャスター不在の状態だった。筑紫さんの名を冠した番組名は変えず、今後もスペシャルアンカーとして、大ニュースの時などに出演するという。
(朝日新聞より引用)


何で、番組名を変えないのか分からない。しかも、大ニュースの時に筑紫哲也か出て来るなんて・・・アンタ、オウムVTR事件の時、「TBSは死んだ」と言った人でしょ。ゾンビ?????
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柳本 晶一

2007年10月24日 | 健康・スポーツ
柳本 晶一(やなぎもと しょういち、1951年6月5日 - )は、大阪市大正区出身の元日本男子バレーボール選手、バレーボール全日本選手で、現バレーボール全日本女子チーム監督。大阪商業大学附属高校卒。テレビ中継のニックネームは全日本女子バレー 復活請負人。現役時代のポジションはセッター。

来歴
大阪商業大学付属高校卒業後、1970年に帝人三原に入社。翌1971年に新日本製鐵(現堺ブレイザーズ)に移籍。柳本は日本バレーボール界における移籍第1号となった。以降、主力選手として活躍。日本代表としては1973年に初招集されるが、名セッター猫田の控えに甘んじることとなる。それでも、1974年のアジア大会で優勝、同年の世界選手権で銀メダル獲得、1976年のモントリオールオリンピックに出場し4位入賞するなど活躍を見せた。

1980年から監督兼任となり、1982年に日本リーグ(現Vリーグ)優勝。1985年にタイ男子代表監督を1年間務める。1986年に地域リーグ・日新製鋼の選手兼監督となり創部5年で日本リーグに昇格させた。1991年に現役引退し監督専任となった。

1997年Vリーグ女子・東洋紡オーキスの監督に就任、2年目でVリーグ初優勝、初めて日本リーグ時代を通じて男女ともに自分の指揮するチームを優勝に導く。現在男女共に日本一に輝いたのは柳本と柳本の高校及び実業団の後輩である真鍋政義(新日鐵・久光製薬)の2人である。

2003年2月より女子日本代表監督に就任。吉原知子をキャプテンとして全日本に復帰させ、大山加奈、栗原恵ら若手選手を積極的に起用するなど大胆な策を見せた。同年11月のワールドカップでは強豪の韓国やキューバから大金星を挙げ5位に食い込む快進撃を演じ、翌2004年5月のオリンピック世界最終予選では開幕からの怒涛の7連勝を果たし2大会振りの出場権を獲得した。同年8月のアテネオリンピックでは5位の成績を残した。オリンピック終了後、監督辞任を示唆したが、協会に慰留される形で続投する事となった。2006年10月から11月にかけて日本で開催された世界選手権でも日本代表を指揮し世界6位入賞を果たした。当然、翌年のワールドカップでも監督の指揮を取る。


人物・エピソード
『勝負じゃない。負け勝ちや』が柳本の勝負哲学。味わった悔しさを糧に、前向きに努力することで自分を成長させることができるという意味を持つ。
『オレについてこい』の根性論で男子チームでは何度も日本一を経験したが、初めて女子チームを率いた東洋紡でも同様の指導をしたら、翌シーズンの開幕直前、24人のメンバーのうち20人が辞めてしまった。女子チームの指導の難しさを痛感し、指導方法を改めた。意思疎通のやり方を少しずつ身につけ、選手との信頼関係を取り戻していった。
テレビ報道の影響もあって、選手に対して非常に厳しい言葉・態度で指導を行うイメージがあるが、誕生日のたび選手たちにケーキやプレゼントで祝福され、代表歴の長い選手たちからは親しみを込めて「晶ちゃん」と呼ばれている
1980年代後半は大阪府高石市内にある長谷工系大型マンションに住居をかまえており、バレーボール界での活躍ぶりから近所ではちょっぴり有名人であった。ただ、現在の知名度と比べると当時は噂される程度のものであった。

球歴と成績
現役選手
帝人三原→新日本製鐵(現堺ブレイザーズ)→日新製鋼
ベスト6
1978年(第12回日本リーグ)、1979年(第13回日本リーグ)、1982年(第16回日本リーグ)
監督
新日本製鐵(選手兼任)→タイ男子ナショナルチーム→日新製鋼(選手兼任、1991年から専任)→東洋紡オーキス→全日本女子
最優秀監督賞
1982年(第16回日本リーグ男子)、1998年(第5回Vリーグ女子)、2000年(第7回Vリーグ女子)

著書
力を引き出す : どん底から個人と組織を甦らせる (PHP研究所)
人生、負け勝ち(幻冬舎)
力を引き出す―どん底から個人と組織を甦らせる
柳本 晶一
PHP研究所

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出版社 / 著者からの内容紹介
二度の廃部、うつ病を乗り越え、大胆な若手と個性派選手起用で五輪出場を勝ち取った敗者復活のマネジメント、そして五輪の真実を綴る。
人として絶望の淵に立たされた時、どう行動すればよいのか?  どん底の組織を任された時、リーダーとして取るべき方策とは?
不況の煽りを受け、監督として二度の実業団チームの廃部、そしてうつ病を乗り越えた信念。バレーボール協会から使うなと言われた「負け組」選手を集め、栗原、大山の新人を大胆に抜擢し、監督就任前の世界選手権で13位のチームをアテネ五輪5位まで押し上げた奇跡と感動のマネジメント力を開陳!
内容例を挙げると、◎挫折を経験した選手は、負けを勝ちにつなげられる ◎個性をぶつかり合わせ、化学反応を起こさせる ◎組織を束ねるには、トップの三人を抑える ◎マネジメントとは「コミュニケーション力」である ◎どん底から自分と組織を甦らせる等々
今だから語れるアテネ五輪の秘話も明かされる
絶望の中からアテネ五輪に挑んだ著者のマネジメント手法は、ビジネスの実践で活躍するリーダー、指導者にも格好のバイブルとなる。

内容(「BOOK」データベースより)
監督として二度の廃部、うつ病を乗り越え、新人のメグ・カナ、「負け組」選手を抜擢して、世界選手権13位からアテネ五輪5位入賞を果たしたリーダー・指導者のバイブル。

人生、負け勝ち
柳本 晶一,松瀬 学
幻冬舎

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内容(「BOOK」データベースより)
女の競争心に火をつける方法。才能をいかに引き出すか、苦境でどう我慢させるか。この人についていこうと思わせる人間関係のバイブル。

内容(「MARC」データベースより)
才能をいかに引き出すか、苦境でどう我慢させるか。バレーボール全日本女子監督が語る、女の競争心に火をつける方法とは。この人についていこうと思わせる、人間関係のバイブル。




「柳本JAPAN」から目が離せない。柳本の個性豊かな女子選手をプレーさせる戦略は素晴らしい。
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週刊現代のお詫びの記事

2007年10月24日 | 本・雑誌・漫画
最近、「FRIDAY」の編集長が「週刊現代」の編集長になり、戦闘的な雑誌にに変身。「2ページにわたる、間違っていない!とお詫びします!」の記事が珍しかったので、撮影。午前1時にこんな事やってる奴なんていないよなぁ~
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「おとなの野菜」ジュース

2007年10月24日 | 料理・飲み物・食べ物
これも、おにぎりと共に、夕食用にファミマで買ったもの。「for men」と書いてあったので、成分を見ると、「にんにく」「生姜」が入っており、「精力」を付けろ!という事らしい。「for women」というのを売っていなかったのは何故なのだろう。「精力」は女性も付けた方がいいのでは・・・現代の女性は既に強いから要らないか!
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「サッポロ一番みそ味」のおにぎりを発見。しお味もしゅうゆ味もあった。

2007年10月24日 | 料理・飲み物・食べ物
日本社会の「縮図」の様なおにぎりだと思う。インスタントラーメンのブランドを借りて、おにぎりにしてしまう。「便利」になったのか・・・「消費者に得」になったのか・・・おにぎりにしているより、「サッポロ一番ごま味ラーメン」を復活して欲しい。「ごま味ラーメン」の残り汁に、「冷ご飯」を入れて食べるのが大好きだった僕の為に・・・
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昔の「東京12チャンネル」・・・今の「テレビ東京」の旧社屋。

2007年10月24日 | テレビ
今日の番組収録はこのスタジオ。写真をよく見ると、「東京タワー芝公園スタジオ」の下に「東京12チャンネル」を消した跡を発見。今日は2本録りでね22:00までこのスタジオにいました。都心にあって便利なのと、スタジオの料金が安いせいか、2つのスタジオ、どちらも埋まっており、タレントさんとマネージャー、スタッフだらけ。芸能人も「目上の人」の部屋には、収録前と収録後、行って、ちゃんと挨拶。普通の会社より礼儀正しいかも。取材2本こなして23時過ぎ、帰宅。
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秋の東京タワー

2007年10月24日 | エッセイ・日記・意見
仕事てせ、東京タワーの側のスタジオに行って来ました。昼過ぎに着いた時、下から東京タワーを見上げると、ふぁ~と気分が晴れ晴れしたので、パシャリと撮影。修学旅行らしいバスがようけ、止まっていました。
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