長井 健司(ながい けんじ、1957年 – 2007年9月27日)は、愛媛県今治市出身の映像ジャーナリスト(カメラマン・記者・レポーターの三役をこなす)。アジアプレス・インターナショナル所属のAPF通信社契約記者。
2007年9月27日、ミャンマーのヤンゴンで、軍事政権に対する僧侶・市民の反政府デモを取材中、軍兵士に至近距離より銃撃され死亡したと報道されている。
経歴
愛媛県立今治西高等学校を卒業した後、東京経済大学経済学部に進学。卒業後にアメリカに1年間留学した。日本に帰国してフリージャーナリストとしてのキャリアを開始する前はアルバイトで生活していたという。
1997年よりAPF通信社(東京・赤坂)の契約記者として活動。常々「誰も行かないところに誰かが行かなければ」と語り、パレスチナ紛争、イラク戦争、アフガニスタン空爆などを現地取材し、戦争の本質を捉えた映像を撮り続けた。
生涯独身だった。
映像作品
「バーンロムサイ」(13分 2000年)
親からHIV感染した孤児たちが暮らすタイ・チェンマイ郊外の施設「バーンロムサイ」を訪ね、子供たちと施設スタッフの暮らしを取材したドキュメント作品。
「イラク戦争 バクダット陥落」(54分 2003年)
米軍によるバグダッド進攻前後の市街を撮影した現地報告。手術を受けたイラク人少年のために、アンマンからバグダッドまで、大量の紙オムツを運んでいくエピソードが含まれている。
「家に灯った原爆の火」(16分 2004年)
原爆投下後の広島から炎を懐炉に移して持ち帰った元兵士を訪ね、被爆時の状況と、被爆者自身の戦後の葛藤について取材したドキュメント作品。
最後の取材
彼は反政府デモを取材するために9月25日(火曜日)にミャンマーに入国した。9月27日(木曜日)、ヤンゴンのトレーダー・ホテルから数ブロック離れたスーレ・パゴダ近くでデモを撮影していたが、軍の治安部隊がデモ隊に発砲した際に彼を殺害し、伝えられるところでは別の外国人ジャーナリストも負傷した。
当初ミャンマー政府は、治安部隊が発砲した際に前からの流れ弾に当たったと説明した。しかし日本のテレビでも放送された、別の角度から映されたビデオは、背後から近づいた軍人が至近距離で彼を撃ったと思われる姿を捉えていた。(ただし、至近距離から撃たれた場合に残る火傷や火薬の粒子などは確認されていないという)
警視庁の発表では、銃弾は左腰背部から右上腹部に抜け、肝臓を損傷し大量の出血を引き起こしたと伝えられている。
反応
国境なき記者団は長井の殺害を非難した。ワシントン支局長のルーシー・モリロンは「彼が撃たれた時、カメラを手にしていてジャーナリストと識別出来た筈だ」と語った。
日本外国特派員協会もミャンマー政府と治安部隊による、長井の殺害をはじめとした暴力の使用を非難した。
福田康夫内閣総理大臣は「長井さんが亡くなられた事は、まことに残念で、お悔やみを申し上げる」と述べた。記者団から経済制裁などについて問われたが「もう少し状況を見たい」としている。
町村信孝官房長官は「日本政府は弾圧的な実力行使をしないように求めてきたが、邦人が巻き込まれて犠牲になった事は極めて遺憾だ。ミャンマー政府に強く抗議する」と述べると共に「事件の真相究明をミャンマー政府に求めていく」と発言。更に「在留邦人の安全確保のため、適切な対処を求める」と述べた。
高村正彦外務大臣はニューヨークの国連本部でミャンマーのニャン・ウィン(Nyan Win)外相と会談。「平和的デモに強圧的な実力行使が行われ、日本人が死亡した。大変遺憾であり強く抗議する」と述べ、ニャン・ウィン外相が謝罪した。また「報道の映像で見る限り、至近距離から射殺されており決して流れ弾のようなものではない。真相解明を強く求める」と発言した。
外務省は30日に薮中三十二外務審議官をミャンマーに派遣。ネピドーでチョー・サン情報相、マウン・ミン副外相と会談した際に長井の死亡について強く抗議したが、情報相は「デモを解散させる中で偶発的に起きた事件」と強調した。
アメリカのコンドリーザ・ライス国務長官は高村外相と会談した際「国際社会は、平和なデモ参加者が殺されて、傷つけられるのを許容する事は出来ない」と発言している。
AFP通信のHP
http://www.apfnews.com/
紛争のニュースの取材の為、長井さんは亡くなった。イラク戦争の時も、ジャナリストが亡くなっている。「紛争」「戦争」の怖さ、悲惨さ・・・その現実の映像を伝える仕事は大切な仕事だと思う。そういう「強い思い」を持って長井さんは取材されていたのだろう。「人間同士の闘い」が無くならない限り、それを報道する人間はきっといるだろうし、いつも命を失う危険と背中合わせの人生を送らなければならない。長井さんが独身だったのも、「家族」を持っていて、最前線の戦争取材をする事に強い抵抗感があったのかもしれない。ご冥福をお祈り致します。