今年もあと1週間余、気ばかりが急いて、ちっとも行動が伴わない。年々、腰が重くなって…、やっぱり年齢のせいだろうね。やれやれ!
ふと、幼いころのお正月を思い出して、しばし郷愁に浸った。子どものころは冬休みになると、姉弟3人母の実家で過ごすのが恒例になっていて、祖母が迎えに来てくれるのを心待ちにしていた。お正月の楽しい思い出はたくさんあるが、まず28日と決まっているお餅搗き。庭に用意された石臼に叔母が蒸したもち米を入れると、叔父が杵を振り上げて搗き始める。叔母の手水(濡れた手で餅を叩く)と搗き手の息があって、ぺったんこ、ぺったんこといい音がした。
搗きあがったお餅を丸めて、木製のもろぶた(つきたての餅をいれておく木製の箱)に並べるのは子どもたちの役目。みんな餅とり粉で顔を白くしながら一生懸命お餅を丸めて並べる。もろぶたは20枚近くあっただろうか、2階の居間に互い違いに重ねて置いた。最後に、お餅につぶ餡をまぶしてぼた餅にしてみんなで食べたが、搗きたてのお餅で作ったぼた餅のおいしかったこと、今も忘れられない懐かしい味の一つである。
元日のお雑煮の支度は叔母の仕事。昔は、ご飯は竈(かまど)に羽釜(はがま)をかけて薪で炊いていた。おかずは七輪に炭を熾して煮炊きや焼き物をしていたが、昔の炊事は大変だったろう。叔母が前夜にそれぞれ食べるお餅の数を聞いて羽釜で煮るのだが、食べ盛りの子ども5人、祖父母、叔父夫婦4人、計9人のお餅の数は30個以上は煮ていただろう。お雑煮はすまし仕立て、茹でたほうれん草と人参、生醤油で煮たブリの切り身とかまぼこを乗せたシンプルなお雑煮だったが、私は大好きで、3つ4つは食べていたと思う。
食事がすむと祖父がみんなにお年玉をくれた。そして、昼時になると私たち姉弟は父方の本家と分家に行っておせちを食べ、お年玉を集金して回るのである。当時、3人で1000円、近所の駄菓子屋に行っていろいろ買うのが楽しみだった。
お正月の遊びの定番は、双六、かるた取り、福笑い。それに飽きたら外に出て羽根つきや凧揚げ、遊びはいくらでもあった。昨今の子どもたちはスマホやゲームでひとり遊びに夢中である。が、双六やかるた取りに興じ、家族団らんで過ごすお正月の楽しさを今の子どもたちに教えてやりたいね。
2日か3日には、いつも叔母が映画を見につれて行ってくれた。私が、たしか小学校3、4年生ころだったか、当時、正月には各映画会社系列の映画館に人気スターが挨拶にやってくるのが恒例だった。昭和20年代前半は「東映」時代劇の黄金期で、片岡知恵蔵、北大路欣也の父市川右太衛門、長谷川一夫などが、女優や脇役陣とともに舞台上に並んで挨拶するのである。それをひと目見ようという観客でお正月の映画館はいつも満員だった。昭和の古き良き時代のお正月を懐かしく思うのは年のせいだろうなあ。
「もういくつ寝るとお正月」は、唱歌『お正月』の出だしの歌詞だが、今の時代、お正月を指折り数えて待つという子どもがいるかしら? 私はこの年になってもお正月が待ち遠しい。何の変哲もない“独り正月”だが、12月も20日を過ぎると、必要なものを思いつくままメモっていく。昔は黒豆や煮物など手作りしていたが、昨今はコープのおせち用品を単品で買って一段重に並べるだけだ。が、好きな玉子焼きや鶏肉を焼いたり、一応おせちの真似事はやっている。また、甘酒、お菓子、みかんも買って、とあれこれ考えているときがとても楽しいのである。29日は買い物に行って、30日は大掃除、そして31日はおせち作り。さあ、もうひと頑張りしようか。
sirousagiの子供時代(あったんですよ。これでも)のお正月風景にぴったり重なります。
手間暇惜しまなかった親年代から手抜きで済ませる我々、手をかける必要のない現在のママさんたち。
移り変わり激しくとも新しい年を迎える気持ちは嬉しくわくわくしますね。
同年代の方ならみんな覚えがおありでしょう。あのころのお正月は家族揃ってにぎやかでした。遊びも色々あって、今のようにテレビがなくても退屈などしませんでした。御餅つきも家族総出でやりました。
“独り正月”を迎える準備をしながらあのころを懐かしく思い出しています。老境に入ると昔が懐かしくて…。
31日お煮しめも終わり、ホッとする間もなく子ども達の着物の寸法なおし。みあげを
下ろして“背 高こうなったなぁ”と母の感慨深そうな言葉が身に沁みています。
今の子供たちには想像もつかないでしょうね。お雑煮やおせちもあまり食べないとか、おいしいのに…。
そうでした。昔は女の子はお正月やお祭りには着物を着ていましたね。うちは貧乏だったので、姉の着物だけは祖母が作ってくれました。が、私がうらやましがるので長じゅばんを着せてごまかされました。今思うと笑えますよね。