わが購読紙連載の『ふる里の風景』。少し前になるが「割烹着」の話である。(原文通り)
割烹着は、僕らにもなじみの深い衣服の一つである。子どものころは、まだ着物姿の主婦も多く、夕飯の準備をする時間帯の商店街では、着物に割烹着の女性が目に付いた。
祖母や母も同様だったが、着物ではなく、二部に分かれたモンペに、割烹着を羽織った姿の記憶がほとんどである。 ただ例外も少しあった。農家だった我が家は、雨が降ると畑仕事を休む。そんな日、母は珍しく着物に割烹着で、少し手の込んだ小豆の羊羹などを作ってくれたのだ。
祖母はそんな例外もなく、いつも通りの服装で、炊事、洗濯から掃除まですべてこなしていた。 割烹着は戦時中の映像などにもよく登場するが、そんな時代を通って今も現役である。それはまるで女性のユニフォームのように思えたりするほどだ。
ちなみに割烹着は、古代、日本の女性が着物を着用していたことから、家事仕事の保護をする目的として考案された。着物の袂が納まるよう、広い袖幅と袖丈までのデザインで、更に、身丈も膝まで隠れるものや着物と同じ長さの割烹着もあった。紐は、肩の後ろと腰の後ろで結べるようになっており、袖口にゴムを通しながら使用していたそうである。
一方、エプロンは体の前面を汚れや傷から守るために着用する服のことで、下半身だけを覆うウエストエプロン、上半身も覆うビブエプロンなどがあるという。
「昭和は遠くなりにけり」か、昨今は割烹着を着ている人はほとんど見かけなくなった。が、水仕事をするときエプロンは絶対に必要なアイテムで、私も一日中ずっと着用している。理由は、何を着ていてもエプロンで隠せるから・・・。
割烹着といえば、1枚の古い白黒写真を思い出す。私は昭和16年6月生まれ、その年の12月8日に太平洋戦争が勃発した。多分、その半年の間に撮ったものだろう。どこへやったか今はもう無いが、若かった母が着物に白い割烹着姿で日の当たる縁側に座り、赤ん坊の私を抱いて笑っている「幸せそうな母」の姿だった。
私の母は、戦後、洋服姿の女性が多くなっても、ずっと着物と白い割烹着姿で通していた。洋服の方が活動的で楽だろうに、なぜか洋服はぜったいに着なかった。
その理由を知ったのは、ずっと後になってからだが、母は自分の体型にコンプレックスを持っていたらしい。身長は150㎝ほど、瘦せっぽちの自分の体型が恥ずかしかったようで、180㎝以上あった恰幅のいい父と並ぶのを嫌がっていた。
母は着物姿に自信があったのだろう、背が低く短足だから洋服は似合わないが、着物だと体型を隠せる。たしかに着物姿の母はすてきだった。暑い夏でも絽か紗の夏用の着物に帯を締め、日傘をさして出かけていた。それが母のプライドでもあったらしい。私も参観日に着物姿でやってくる母が自慢だった。
父の実家(本家)が豊かだったころ、娘も嫁もみんな出入りの呉服屋で着物を誂えていたそうで、母もたくさん持っていた。私もよく覚えているが、その着物は生活費のため質屋行きに、そのまま流れていった。
余裕ができてから母は、また昔のように出入りの呉服屋で着物を作っていた。が、年をとって着物を着る元気もなくなり、仕方なく洋服を着るようになったが、たしかに母の洋服姿は貧弱だった。せめてカッコよく見えるようにと、母の着る服は私が選んでいたが、年々小さくなって何を着ても着映えがしなかったなあ。
思い出す母の姿は、いつも着物に白い割烹着姿だ。そして洋服を着るようになってからは割烹着がエプロンに代った。今思えば、割烹着もエプロンも体型隠しだったのかもしれないなあ。
昭和20年代の「母さんたち」の制服!だったのが
懐かしく思い出されて
30年代になるともうエプロン姿が主流、お洒落なデザインで「主婦の友」や「婦人倶楽部」のページを飾っていたように思います。
オールドレデイさんの想いでの中のお母さまは
何時も凛として賢明なお姿で描かれていて
本当にステキ!
きっと生き様を継承なさっているのでしょう。
「着物に割烹着姿」、いかにも優しい「昭和のお母さん」というイメージがありますが、私の母はとても厳しい人で、ホームドラマの「やさしいお母さん」にあこがれたものです。
家の恥をさらすようですが、父はボンボン育ち、道楽者で無責任男。父はいないも同然でしたから、母が強くなければ私たちはどうなっていたか分かりません。苦労続きのつまらない一生だったろうに。思い出すたびに、やさしい娘でなかったことが悔やまれます。