『一、八拾弐石四斗一升六合 友田次兵衛
外米五拾俵充築前ニて隆景様より年々被遣候 』
この分限帳がいつの時代の石高かとの論争はあるが、友田冶兵衛の石高から凡その時期が分る。
『三拾八歳被成候時、為恩領西能美八二石四斗一升六合有之所被遣候』とあるので、場所は広島県
西能美島であり、『有之所』とあるので、もうあった土地を拝領したことになる。
では前の所有者は誰であったのでしょうか?
これこそ、本文に出てくる山野井源兵衛に他ならない。山野井源兵衛家は本文中では「庄屋」とされているが、れっきとした越智支族の山野井家である。「山野井本豫章記」の伝承家と言えば、中世伊予史研究家
は知らない人はいないと思います。
現在の厳島神社の海の大鳥居の片側1本は、山野井家が切り出し奉納したものである。
また、広島へ浅野の殿様が入部の折、出迎え、当時めづらしい蜜柑を献上した名家でもある。
現在、子孫の方は広島市内で工務店を開業中である。
さて次に時期であるが、これが難しい、三八歳の時と書いてあるが、大野系図に従うと天正18年に
なってしまう。しかし、本文には倅、是水がここの山野井家に逗留している時に生まれたとするので
この時拝領しておれば、天正16年のこととなります。
たぶん、能島村上の天正13年の務司城下城命令事から友田は西能美に逗留していたと思われます。
逗留と云う言葉は、秀吉の圧力により、能島等から下城せざるを得なかったが、また復帰できるかも
と思われた時期であることと思われます。
天正18年の38歳の時が正式な拝領年だったのでしょう。
隆景から筑前から50俵充もらっていたとするので、隆景か筑前へ天正15年移動して、慶長2年に卒去するまでの間と思われるので、この分限帳は1587年1597年の最大10年間以内となります。
「竹原崩れ」の慶長5年の時は領地は全くなくなり、村上武吉・景親親子に無給で働きますと申し上げたら
村上勝太郎(元武)を頼むとされている。
ただこの文章は寛永期に書かれたものらしく、友田冶兵衛の倅を「是水」との出家名を書いている。
「是水」は大野兵庫直政の嫡男で、名は大野勝右衛門直房と云い、後に出家し「是水」と号します。
大龍寺に「是水文書」として多くの文書を残します。
外米五拾俵充築前ニて隆景様より年々被遣候 』
この分限帳がいつの時代の石高かとの論争はあるが、友田冶兵衛の石高から凡その時期が分る。
『三拾八歳被成候時、為恩領西能美八二石四斗一升六合有之所被遣候』とあるので、場所は広島県
西能美島であり、『有之所』とあるので、もうあった土地を拝領したことになる。
では前の所有者は誰であったのでしょうか?
これこそ、本文に出てくる山野井源兵衛に他ならない。山野井源兵衛家は本文中では「庄屋」とされているが、れっきとした越智支族の山野井家である。「山野井本豫章記」の伝承家と言えば、中世伊予史研究家
は知らない人はいないと思います。
現在の厳島神社の海の大鳥居の片側1本は、山野井家が切り出し奉納したものである。
また、広島へ浅野の殿様が入部の折、出迎え、当時めづらしい蜜柑を献上した名家でもある。
現在、子孫の方は広島市内で工務店を開業中である。
さて次に時期であるが、これが難しい、三八歳の時と書いてあるが、大野系図に従うと天正18年に
なってしまう。しかし、本文には倅、是水がここの山野井家に逗留している時に生まれたとするので
この時拝領しておれば、天正16年のこととなります。
たぶん、能島村上の天正13年の務司城下城命令事から友田は西能美に逗留していたと思われます。
逗留と云う言葉は、秀吉の圧力により、能島等から下城せざるを得なかったが、また復帰できるかも
と思われた時期であることと思われます。
天正18年の38歳の時が正式な拝領年だったのでしょう。
隆景から筑前から50俵充もらっていたとするので、隆景か筑前へ天正15年移動して、慶長2年に卒去するまでの間と思われるので、この分限帳は1587年1597年の最大10年間以内となります。
「竹原崩れ」の慶長5年の時は領地は全くなくなり、村上武吉・景親親子に無給で働きますと申し上げたら
村上勝太郎(元武)を頼むとされている。
ただこの文章は寛永期に書かれたものらしく、友田冶兵衛の倅を「是水」との出家名を書いている。
「是水」は大野兵庫直政の嫡男で、名は大野勝右衛門直房と云い、後に出家し「是水」と号します。
大龍寺に「是水文書」として多くの文書を残します。