山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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野島家来分限帳

2022年07月17日 22時10分18秒 | 野島村上家 家来分限帳
『一、八拾弐石四斗一升六合   友田次兵衛
   外米五拾俵充築前ニて隆景様より年々被遣候 』

この分限帳がいつの時代の石高かとの論争はあるが、友田冶兵衛の石高から凡その時期が分る。

『三拾八歳被成候時、為恩領西能美八二石四斗一升六合有之所被遣候』とあるので、場所は広島県
 西能美島であり、『有之所』とあるので、もうあった土地を拝領したことになる。

では前の所有者は誰であったのでしょうか?
これこそ、本文に出てくる山野井源兵衛に他ならない。山野井源兵衛家は本文中では「庄屋」とされているが、れっきとした越智支族の山野井家である。「山野井本豫章記」の伝承家と言えば、中世伊予史研究家
は知らない人はいないと思います。
現在の厳島神社の海の大鳥居の片側1本は、山野井家が切り出し奉納したものである。
また、広島へ浅野の殿様が入部の折、出迎え、当時めづらしい蜜柑を献上した名家でもある。
現在、子孫の方は広島市内で工務店を開業中である。

さて次に時期であるが、これが難しい、三八歳の時と書いてあるが、大野系図に従うと天正18年に
なってしまう。しかし、本文には倅、是水がここの山野井家に逗留している時に生まれたとするので
この時拝領しておれば、天正16年のこととなります。

たぶん、能島村上の天正13年の務司城下城命令事から友田は西能美に逗留していたと思われます。
逗留と云う言葉は、秀吉の圧力により、能島等から下城せざるを得なかったが、また復帰できるかも
と思われた時期であることと思われます。

天正18年の38歳の時が正式な拝領年だったのでしょう。
隆景から筑前から50俵充もらっていたとするので、隆景か筑前へ天正15年移動して、慶長2年に卒去するまでの間と思われるので、この分限帳は1587年1597年の最大10年間以内となります。

「竹原崩れ」の慶長5年の時は領地は全くなくなり、村上武吉・景親親子に無給で働きますと申し上げたら
村上勝太郎(元武)を頼むとされている。

ただこの文章は寛永期に書かれたものらしく、友田冶兵衛の倅を「是水」との出家名を書いている。
「是水」は大野兵庫直政の嫡男で、名は大野勝右衛門直房と云い、後に出家し「是水」と号します。
大龍寺に「是水文書」として多くの文書を残します。

野島家来分限帳 友田次兵衛

2022年07月17日 22時08分26秒 | 野島村上家 家来分限帳
友田次兵衛は本名は大野兵庫介直政であるが、来島村上と違って、秀吉の味方
にならなかったことで変名とせざるを得なかった。これは当時の能島村上の当主元吉の意向であり、伊予河野家、毛利家の意向でもあった。

大野直政の父は、大野直秀と云い、一時期、伊予久万大除城主であった。
直秀は大内義隆卿のヘンイを受け、隆直と改名するが、息子同様、秀吉側に
睨まれ、冨永伝兵衛と変名します。大野直秀の弟は大野直昌(ナオシゲ)で兄の
跡、大除城主となり、伊予河野牛福通直の筆頭家老となります。

同じく河野家重臣の平岡家も、秀吉からの難を逃れるため、「岡」と変名します。この平岡家の子孫も周防屋代島に移住してきました。

ただ平岡家は海賊衆村上よりは格上の河野家重臣ですので、村上家の家来では
ありません。

野島家来分限帳

2022年07月17日 22時07分12秒 | 野島村上家 家来分限帳
友田次兵衛こと大野直政の子孫たちは本家は村上図書家の家老として仕え、
分家は徳山藩に仕えることとなります。

本家で郷土史に名を残すのは、直政の4代後の直深で、百姓たちの窮状を
救わんと久賀官場(代官所)へ強訴し、百姓の代表たちとともに処刑された
人物である。旧「周防大島町誌」は小松の「首切り地蔵」の説明として
記します。

直深から更に三代後の大野勝右衛門直虎は、元大龍寺(現龍心寺)横に
ある「大友大権現」(通常、大友さま)である。
別名、大野友之丞を略して「大友さま」としているので本姓は大野です。
彼が死に至った由来は「周防大島町誌」が語るものとは、いささか違うが
ここでは触れないでおく。同誌は村上家家来大野氏は断絶したと書くが
どっこい、明治期も兼帯庄屋を務めたほどの家であり、同誌にもこの
庄屋大野氏の記録も残されているのに編集委員の杜撰としか思えない。

また、大野直政の長男、直房(是水)が本家を継ぐが、二男、直廣は
徳山藩に仕官し、徳山大野家を創設する。彼の子孫が幕末に倒幕に加わり
徳山藩山崎隊を組織し、鳥羽伏見の戦いに於いては、間一髪、官軍有利に
働き、長州勢を有利にした功労者の一人である。徳川将軍が逃げ出したあと
の大坂城の引き取りにも向かっている。後に英国留学を果たし、ケインズに
師事して近代経済学を学び、帰国するや、大阪造幣局長として近代通貨
制度の確立に尽力し、後に会計検査院長を歴任する、大野直輔である。

この時、大島北迫の平岡氏も明治政府にあって、宮城(皇居)造営の
責任者として重要な地位を占めていました。

野島家来分限帳

2022年07月17日 22時06分11秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、八拾石  村上 四兵衛

彼は、安下庄(屋代島)より、あたけ船と言う大船に、武具・馬具等色々
積みこんで、従える百石の枝船2艘、子船3艘に親族縁者30人が乗り込んで
(村上本家・分家を裏切り)積めるだけの財産を貴重な村上家の船とともに
逃亡する。しかも、あろうことか、村上宗家嫡男、元吉を殺した敵方の伊予
加藤左馬介へ走り、千石にありつき、その他、組の者は百石宛て貰い、風早に
能島町をこしらえそこに召し置かれました。

正月に加藤の本城に年賀に行き、皆、大酒を呑み、ぐでんぐでんで船で帰る
途中、船が転覆し一人残らず死にました。天罰と申すものです。

弱り目に祟り目で、瀬戸内海を牛耳り、朝鮮、中国をして倭寇として恐れれた
村上海賊も青野が原(関ヶ原)の敗戦を境に一家離散します。