あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の人情:家族が一緒で、墓をつくればもう「ウチナンチュウ」

2008年09月09日 16時29分09秒 | Weblog
シーサーは民家の屋根の上に飾られる。
赤い瓦に白い漆喰で固められた民家の屋根の上に置かれている風景は沖縄の原風景である。何十年も経つ沖縄の民家は木造で、海岸に面した家々は背を低くし、どんな強風にも耐えうるように作られている。名護から15分くらい車で行ったところに塩谷のがある。その途中、58号線沿いに見ることができる。
写真にみるようなシーサーは初めて。玄関脇に立っていたのを撮影した。
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 前のブログで紹介したタイプの人間はどこにでもいるようだが、私の育ったふるさとにはこんな理屈っぽい男はいない。
 沖縄では親しくなってくると慣れやら、馴れやら、狎れやら判らなくなる。それだけ純真といえば言えるのかもしれないが、こちらだって感情の動物。むかっ腹も立てば、怒鳴りたくなる事もある。そんなとき、
「待て待て、お前が好き好んできたのだから、郷に入れば郷に従えだ」とぐっと堪える。口論すれば周りは見ず知らずの人たちばかりだから、孤立無援だ。
「でもねえ~、おまえさんの土地がすきで来てるんだから、もう少し考えてくれてもいいんじゃないか。情に厚いってみなさん自慢してるじゃないか」
と胸のうちで愚痴る。

 どこの土地でも、
「えっ?そんな唄知ってるの?そんな言葉も知ってるの」という土地の唄、方言や風習を覚えていけば喜ばれる。ここまでは全国共通。
ところが、当地沖縄ではそれからがある。
「家族は一緒じゃないの?」家族が一緒ならまあまあだ。だが、及第点ではない。
「お墓を沖縄に造ればもうウチナンチューさー。ウチトンチューって言うんだ」そうな。お墓を造って一人前のウチトンチュー。
 何度も聞かせれている内、これは郷土愛じゃなくて愛国心だ、と思えるようになる。沖縄の歴史を考えるとき、さもありなんと頷けることもある。
なにしろ、基地が沖縄に集中し、本土のように社会基盤ができていない。
「戦争に負けたから仕方ない」という非体験者の本土の感覚は通用しない。理解するまでナイチヤーは先ず聞く事。それさえ遣らずに云々するのはいただけない。
敗戦の年に生まれた子が、27歳になるまで米軍の施政下にあった。この子は既に結婚し、小学校就学前の子供もいるかもしれない。27年とは、それほど長い月日である。
復帰運動の話を聞き、新聞やテレビで観ると、次第に運動がどうであったか次第に見えてくる。復帰できると本土並みになると期待した県民は、本土復帰を夢見て大変な闘争を繰り広げたようだ。
沖縄本島北端の辺戸岬に立つと、遠く与論島を見ることができる。その中間が国境だった。与論島から小舟を漕ぎ出し、国境ぎりぎりのところで、本土復帰を叫び、エールの交換をしたと聞く。学校では日の丸掲揚を謳い上げた。
ところが、復帰してみると右側通行が左側通行になり、ドルが円に変わっただけ。県民が変わったと肌で感じるものは何もなかった。そうした失望感がどれほど強く、大きいものであったかは在沖10年を過ぎて初めて感じるようになる。乱暴に言えば、
「ナイチヤーは沖縄の苦労や沖縄のことをまるで知らない。知ったかぶりするな」
と言っているのである。
「ほんとうに沖縄が好きならーーー」といっているのである。
リップサービスはこりごりと言っているのだ。
「強制されたか否か」の集団自殺や集団自害が、教科書から除外されたことが連日沖縄のマスコミのトップ記事なった。
今でも、テレビや新聞は取り上げない日はない。
本土の理論では沖縄県民を納得させる事はできないだろう。

 沖縄で中・長期に滞在する人は「沖縄県史」というポケットに入るくらいの本と、大城立裕著「琉球処分」をおすすめする。
わたしが沖縄に着任したとき、Pホテルの社長から
「これを読みなさい。沖縄の心がわかる」といって一冊の本をいただいた。
「石の花」であったと記憶する。まわし読みしている内、行方がわからなくなった。とても、いい本だった。

また、きょうも長くなった。
「家族は?お墓は?」と聞かれたら、
「いやあ、そこまではできない事情もあるもんで」と答える方がよい。
「そこまでやらないと駄目なの!」とカッカしては駄目。そのうち、そういうことを押し付けてくる人がどんな人か、どんなな理由があるか肌で感じて朧気ながらわかるようになる。