那覇市与儀公園交差点付近を陸橋から撮影。
右、並木に沿って那覇警察署。
左は与儀公園。11月になるとトックリキワタが咲いて美しい。
1978年7月30日、車は右側通行だった沖縄は本土と同じように左側通行となる。
1972年5月15日本土復帰後、6年を経て通行も、漸く本土並みとなった。
この日まで米軍統治下にあった交通法規も、日本の法規に統一された。
その準備のため莫大な費用と時間を要した。
沖縄県警にはそのための対策室が設けられ、2年間に及ぶ準備が行なわれた。
「右側通行から左側通行へ」とキャンペーンが繰り広げられた。
「ナナサンマル」とはキャンペーンの名称であり、今でも沖縄の人々の間では日常的にこの言葉が使われる。
先日の「NHK特集」からメモってみた。
当時の沖縄県内の道路の総延長距離は4,856km、車両は30万台だった。
前日29日午後22時。バス、タクシー、緊急車両を除く全車両は交通止めとなった。
翌日朝、5時50分から左への誘導を開始、6時から一斉に左側通行に移行した。
左側通行用の信号機、道路標識などはカバーを被せ隠していた。
右折・左折の矢印などの道路標示もカバーして隠していた。
前夜22時から翌朝6時の8時間の間に、これら全県下のカバーを外し、右側通行の標識にカバーし直した。
全国から応援の警察官を派遣し対応したが、それでも、ミスや事故が多発したというのも頷ける。
左ハンドルから右ハンドルへの変更も大変なものであった。
タクシー4,500台、バス1,000台余り。
右側から乗降していたこれらの車は全て左側乗降となる。
右側ハンドルの車は新たに本土から運び込まれたし、一部は改造した。
改造されなかった車は右側通行の中国に売却されたと巷でも時に話題にのぼる。
1975年に海洋博があり、そのときに購入したタクシーやバスの新車も多かったという。
余談であるが店舗への影響も大きかった。
時の大臣がNHKのインタビューに答えて、
「状況をみて考えなければならないだろう」
とコメントしていたが、どのような手を打ったのかはしらない。
米軍基地内もこの条例に準じて変更したという。
通貨も変わった。
本土復帰とひと口に言うけれど沖縄の人々にとっては想像を絶するものだったと推測される。
「祖国復帰したら、本土並みになる」
そう期待し復帰運動に夢と未来を託した人々の、
「期待を裏切られた」
というたくさんの声を聞いた。
特に、高齢者の域に入った人々に多い。
1986年、沖縄に赴任したときは「ナナサンマル」から8年しか経っていなかったのだ。
右側に駐車している、ウインカーの上げ方もいい加減。
運転マナーは最悪だと思い込んできた。
それらを思い起こすとき、ヤマトンチューのひとりとして胸が痛む。
「ナナサンマル」の詳細はここをクリック。
「ナナサンマル」の当時の動画はここをクリック。(3分)
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