私は、それがないととても生きていくことなど出来やしないのです。
ということを言い出すと、以前書いたこともある「コーヒー中毒」のことかと思われるかもしれません。ええ、まあ。たしかに私はコーヒーがなければヤバイ。実にヤバイ。言ってるそばから、ああ、飲みたい。
しかし、コーヒーはやめようと思えばいつでもやめられると思うのです(中毒者はみんなそう言い張るものですが…)。美味しく香しいコーヒーの思い出を胸に、静かに麦茶でも飲みながら余生を過ごすことは、まあ、どうにか想像できます。
ではコーヒーよりも諦めがたいものとは何か。
それは、他人の情熱。
私は情熱を見せてくれる人が好きだ。何かを伝えようとして必死になった人が好きだ。かれらの情熱が生み出したもの、それがなくては、この先も生き延びることへの理由を自身のうちに見いだせない。
ああ、どうかもっと私を溺れさせてください。もっと深くへまで引きずり込んでください。その高みから私を呼んでください。あなたの声を、あなたのその瞳を、私にもすこし分け与えてください。どうか。どうか。
私はたぶん、いつまでも私の仕えるべき主人を探して歩くのでしょう。それはいろいろな人の顔をして、いろいろな言葉で、音で、色だったりしていますが、私が追っているのはいつも同じひとつのものである気がします。
他人の情熱が、私を生かしていることは、不思議な気もしますけれども、何も不思議でないとも思えます。
私は空っぽの器でありたいのです。なにも生み出すことのない器でありたい。そこへかれらの情熱を満たしてほしい。美しいその情熱の美しさが、そのまま透けて見えるような器でありたい。そして飲みたがる別の誰かに、私はそれをそのまま飲ませてやりたいのです。
今日は、新しい予感に震えて止まりませんでした。
はやく私を満たしてほしい。