今日の「徹子の部屋」は、ゲストが THE BOOM の宮沢さんだというので見てみた。ギターを弾きながら歌ってくれた「島唄」に、予想はしていたことですが、私はまたしても号泣させられました。何度私を泣かせれば気が済むんですかね、この名曲は。おかげで午後からずっと泣いて暮らす羽目になったわけです。あー、頭いたい。
もはやこの名曲「島唄」を知らない人はほとんどいないのではないかと思いますが、私がこの曲に込められたメッセージについて知ったのは、恥ずかしながらわりと最近のことです。どこか悲しい曲だとは思っていましたが、ほんとうに悲しい曲でした。そして悲しみを知って、ますます美しさを増す曲でした。
今日の番組でも宮沢さんがおっしゃってましたが、この曲は沖縄戦の悲しみを歌ったもの。聴けばすぐに分かる琉球音階の曲調ですが、宮沢さんがおっしゃるには一か所だけ琉球音階を使っていない箇所があるそうです。それがこの部分。
ウージの森で あなたと出会い
ウージの下で 千代にさよなら
「どうしてもここに沖縄の音階を使うことができなかった」そうです。なにかいろいろと考えさせられますね。
それから興味深かったのは、アルゼンチンのスターであるアルフレド・カセーロさんがこの「島唄」を日本語でカバーしたのが現地で大ヒットしたという話。カセーロさんはこの曲を聴いてすぐにカバーを決意したそうです。しかし宮沢さんには無断で。そして宮沢さんの知らないところで大ヒット。これにはちょっとウケました。だけどそれだけこの曲には人を惹き付けるものがあるということでしょう。
で、このカセーロさんの日本語でのカバーバージョンですが、実際すごくうまい。日本語もはっきりと日本語に聞こえます。感心してしまいました。そしてやはり泣いてしまいました。どれだけ私を泣かせれば気が済むのでしょうか、この名曲は。
調べてみると(YOU TUBEにて)、この曲は他のいろいろな国の人によってカバーされているようで、日本語のままでカバーしている人もあれば、英訳版もありました。いずれも実に感動的ですが、英訳版のほうは私には少し言葉の数が多すぎるように聞こえました。美しいには違いないのではありますが。
そう思うと、この曲の魅力には歌詞ののびやかさというものがあるように思えてきます。ひとつの音にひとつの音。シンプルな美しさ。
それともちろんメロディの美しさがあります。明るいようで悲しい美しい曲です。
「音楽にできることがある」というようなことを宮沢さんはおっしゃていましたが、その通りだと思います。
音楽や絵というのは、私を待ってくれません。心の準備ができていてもいなくても、そんなことはお構いなしに一気に押し寄せてくるものです。あっと思った時にはとっくに飲み込まれているものです。あれこれと考えるひまを与えてくれない。暴力的なまでに人を圧倒する力があるようです。そういう意味では、私は私にワンクッション置くことを許してくれる文章というものを信仰したいと思ってしまうわけです。できれば少し待ってほしい。
しかし、私を待ってくれない、それこそが音楽や絵画の魅力であり、私にそれを斥けるだけの力や理由がまったくないのも事実です。私は一気に飲み込まれ、ただ泣くしかできなくて、美しいもののすべてが悲しいわけではないけれど、悲しいものの多くがたしかに美しいということに思い至っては、そこになにか手がかりを掴めそうでいて掴めないことに呆然としてしまうのでした。
このまま永遠(とわ)に夕凪を
悲しい。悲しい。悲しい。
私はずっと悲しかったのだということに気が付いてしまう。それというのも私が願うからだ。堪え難いほどに美しいことを願うからだ。そこまではあまりに遠くて、けっして手に入れることはできないだろうことを、悲しみが教えてくれる。だけれども、その悲しみはまた、私が願うことをやめていない、それを諦めることをしていないということをも分からせてくれる。
悲しみは、私たちが美しさにつながっていることの証明にはならないものでしょうかね。美しさ。私にはそれがとても重要なのです。