goo

『崖の上のポニョ』

2008年09月06日 | 映像(アニメーション)


《あらすじ》
5歳の男の子ソウスケは、ある日海岸で瓶に詰まった赤い金魚を見つけ、ポニョと名付けた。ハムとソウスケを好きになったポニョは人間になりたいと思うようになる。




これは、民話的かもしれない。

とりあえず、観た直後には、どういう風にこの作品を捉えたらいいのやら、さっぱり分かりませんでしたが、帰宅して風呂に入っている間に、ふとこの感触に最も近いのがロシア民話の「熊の子イワシコ」を読んだときの感触だったと気が付きました。あの感触に似ています。はっきりしているのは筋書きだけという、問答無用の世界観。父親がクマで母親が蕪(カブ)の女の子であっても構わない、あの感じ。人間になりたいサカナの子が人間になった。
そう考えると、あの大きすぎる夜空の星々、静かすぎる嵐の後の朝の海、船に満載された山の上に避難する人々のカラフルさなどなどという、やや過剰な描写の数々も少し理解できます。いや、理解はできないですが、少し納得できる。

このあいだNHKで監督に密着取材した特集をやっていて、それで宮崎監督はもの凄く懊悩して脚本を練っていましたが、あれほど苦しみながら彼が意味を込めたその場面で、そのメッセージが驚くほど「伝わらなかった」ということに衝撃を受けました。何か番組では「ここに大変苦労した」場面として紹介されていたのが、「トキさん」が海辺でソウスケを抱きとめる場面ですが、全然さらっと過ぎてしまいます。意外でした。でも、そこに逆に凄さを感じます。いつもなら早々に現れてくるはずの押し付けがましさを、よくぞここまで抑制したな、と。
ポニョが父から授かった名は「ブリュンヒルデ」であるとか、ソウスケとポニョが船でリサ(ソウスケの母)を探しに行く途中で陸へ上がりトンネルを抜けねばならないが、ポニョは今にも眠ってしまいそうとか、随所でいくらでも深読みできる余地を残しながら、あくまで淡々と物語を進めていきます。そのあたりの素っ気なさが、とても民話的に思えました。

ところで、私が個人的に衝撃だったのは、ソウスケの母リサの人物像。リサは我が子のソウスケをとても大事に思っていることは確かですが、それよりも夫のコーイチ(だっけ?)の方を愛しているらしいことが分かります。コーイチが急に帰宅できなくなったことに腹を立て、夕飯の支度をボイコット。そしてソウスケを放ってふて寝。しかしソウスケの優しさに反省し、気を取り直して夕飯を食べることにする。こういうのは珍しい。つまり、こういうふうに母親が描かれるのは珍しい。
「子供の存在が自分の人生のすべて」とは考えていないらしいリサさんは自立した、軸のしっかりした人物で、そのあたりは私もとても肯定的に受け取れるのですが、どこか変。変なんだけど、もちろん決して悪い人ではない。でも、なんか変。私にはこのリサさんが引っかかって仕方がありませんでした。全く悪い意味ではないのですが、なにか、どこか引っかかる。なんですかね? 行動パターンが妙なんですよね、この人。でも、多分この至らなさがいいんだろうな。たぶん。完璧じゃなくても(完璧なんてことがあるとして)充分、ということが監督は言いたかったのかもしれない。



この映画をめぐっては、きっと大勢の人がたくさんの適切な意見を述べるでしょうから、私があえて言うことなど何もないと思います。しかし、私は私のために、いちおう観たという記録をつけねばなりません。

率直に言って、すごく面白かったかと言われれば、「そうではない」と私は思います。あくまで私の意見です。もちろん映像作品にはさまざまな在り方が認められるべきで、必ずしも「その映画を観たことによって、その後の人生観が一変した」という強烈な印象を残す必要はないでしょう。それに、私には咄嗟にピンとこなかったとは言え、多分、『ポニョ』はある種の人々には深い印象を与えうる作品だとは思います。悪くはないです。思っていた以上に幻想的で、私は驚きました。良い意味で予想を裏切られたと感じています。特に、ポニョの母親である海の女神(?)のイメージが素晴らしく美しかった!


たまには「それで? つまり?」にこだわらなくたって、いっか。


goo | コメント ( 3 ) | トラックバック ( 0 )