私と同年輩の人びとの多くは、時の車輪の下敷きとなってしまった。私は生きながらえた。だが、これは私が人より強く、あるいは慧眼であったためではない。人間の運命はすべてルールにしたがって行われるチェスではなく、あの富クジを思いおこさせるようなときがしばしばあるからである。
イリヤ・エレンブルグ『わが回想 人間・歳月・生活』より
この言葉をめぐって、私はいろいろなことを考えてしまいます。
そして今日思ったことには、私は自身にはずっとクジ運がないと思ってきたけれど、実はとんでもなく運が付いているのではないかということです。この人の言葉がすっかり時に押し流されてしまう前に、私は出会うことができているのです。どれほどまでに自分が選ばれているのかを思うと、運の強さを感じないではいられません。
私に選択権が与えられていないことは、私たちがいつも選んでいるように見えて実は選ばれているのだということは、時にはひどい悲しみをもたらしますけれど、またある時には期待以上の喜びをもたらしてくれることもあります。私にも、人間の運命というものはそのように見えるのでした。だからといって、すべてを運まかせにして生きよと言うのではありません。私には、人間を左右するその運命というものも、実は我々の知り得ぬところで我々自身が作り出しているもののようにも思えるのです。
なにか「仕組み」があって、私たちはそれを知らないがために翻弄され続けているだけなのではないかと思いつつも、ぼんやりとしてきてそれより先はどうしても考えることができません。それは富クジではなく、チェスよりも複雑なルールを持っているなにか別のものかもしれない。いつかそのルールが分かったら、私たちは皆で幸運な道を選択できるようになるのだろうか。