アデレードの移住博物館で
誰もが目にする「移民」と
題された入口のブロンズ像

右も左もわからないまま
子どもの手を引き、荷物を
持って降り立つ新天地
勇気と誇りと夢と達成

移民第一世代ならば、国籍も
民族も問わず、台座の文字が
胸に響くでしょう。
私たちも15年前に10歳と7歳
だった子どもたちの手を引き、
真冬のオークランドに降り立ち
NZに移住した移民一家です。
慢性的な人手不足で喉から手が
出るほど労働力がほしかった
オーストラリアですが、1901~
1973年は有名な白豪主義を採り
イギリスかアイルランドからの
移民だけを強く求めていました。
しかし、外交上の問題で、民族や
肌の色で移住希望者を排除する
ことが明文化できなかったため、
非白人排除のために荒唐無稽な
書き取りテストを導入しました。
その試験とは、入国拒否のために
移民官が任意で行えるものでした。

入国しようとする移住希望者に対し
本人がわからないヨーロッパ言語の
50文字の試験を受けさせ、
答えられなければ入国を拒否する
というものでした。
スウェーデン語の試験を受けさせ、
アイルランドに帰れという指示。

アイルランド人でも外見次第では
こうして拒否されたようです。
例えば英語が堪能な黒人の場合、

ハンガリー語の試験を受けさせ

入国拒否
イギリス国籍でも、インド系や
フィジー系など白人でなければ
同じように拒否されました。
そして白人のイギリス人移民なら

青信号でオーストラリアへようこそ

となったわけです。
差別の対象となった外国人とは、
アジア系、アフリカ系、南太平洋
島嶼系(ただしNZを除くそう
)で、
1920年代にはイタリア、ギリシャ、
旧ユーゴスラビア、アルバニアなど
の人々も入国を制限されました。
それでも第二次大戦後は戦禍で
本国を追われ、元に戻れない
ユダヤ人など多くの人を人道的
に受け入れました。

15歳以下の戦争孤児の
受け入れも行われました。

(※戦中戦後のNZでも、どちらの
受け入れも実施されています)
問題はあっても受け入れは続き

1861年に南オーストラリアでは
40%だったオーストラリア生まれは
わずか30年で70%を突破しています。

ドアを開けている以上、どんなに
狭い隙間でも移住を希望する人は
あの手この手で挑戦するものです。
世界は広く、オーストラリアが
ほしい人材もたくさんいます。
移民やその子孫は、建国の担い手
となり、盤石な多民族社会を築く
無数の柱となっていきました。
こんな絵にはほっこり(笑)

辮髪でクリケットをする中国人
中国人だけを対象にした人頭税など
最も差別を受けてもこの通り(笑)
1954年に入国したイノウエ・ヨシコさん

初期の戦争花嫁だったそうです。
暮らしてみて、その一部となって
つくづくわかる多民族社会の強さ。
言語や習慣や文化が違う不便さを
遥かに超えた社会のすそ野の広さ
という豊かさには圧倒されます。
さらに、違うはずの人たちが、
いざという時にはさっと駆け寄り
手を差し伸べて助けたり、
肩を抱いて一緒に泣いたり、
必要時には驚くほど寄付も集まり、
その営みの美しさには感動します。
最近ではNZのクライストチャーチの
銃撃テロ後の市民の反応に、そんな
社会の底力を見ましたが、緊急時の
オーストラリアもきっと同じでは?
今までもこれからも、移民たちは
このブロックように肩を寄せ合い

社会の一部となっていくことでしょう。

(※名前、出身国、移住年などを
記した寄付と思われる博物館の
庭に敷かれたブロックより)
誰もが目にする「移民」と
題された入口のブロンズ像

右も左もわからないまま
子どもの手を引き、荷物を
持って降り立つ新天地
勇気と誇りと夢と達成

移民第一世代ならば、国籍も
民族も問わず、台座の文字が
胸に響くでしょう。
私たちも15年前に10歳と7歳
だった子どもたちの手を引き、
真冬のオークランドに降り立ち
NZに移住した移民一家です。
慢性的な人手不足で喉から手が
出るほど労働力がほしかった
オーストラリアですが、1901~
1973年は有名な白豪主義を採り
イギリスかアイルランドからの
移民だけを強く求めていました。
しかし、外交上の問題で、民族や
肌の色で移住希望者を排除する
ことが明文化できなかったため、
非白人排除のために荒唐無稽な
書き取りテストを導入しました。
その試験とは、入国拒否のために
移民官が任意で行えるものでした。

入国しようとする移住希望者に対し
本人がわからないヨーロッパ言語の
50文字の試験を受けさせ、
答えられなければ入国を拒否する
というものでした。
スウェーデン語の試験を受けさせ、
アイルランドに帰れという指示。

アイルランド人でも外見次第では
こうして拒否されたようです。
例えば英語が堪能な黒人の場合、

ハンガリー語の試験を受けさせ

入国拒否

イギリス国籍でも、インド系や
フィジー系など白人でなければ
同じように拒否されました。
そして白人のイギリス人移民なら

青信号でオーストラリアへようこそ


となったわけです。
差別の対象となった外国人とは、
アジア系、アフリカ系、南太平洋
島嶼系(ただしNZを除くそう

1920年代にはイタリア、ギリシャ、
旧ユーゴスラビア、アルバニアなど
の人々も入国を制限されました。
それでも第二次大戦後は戦禍で
本国を追われ、元に戻れない
ユダヤ人など多くの人を人道的
に受け入れました。

15歳以下の戦争孤児の
受け入れも行われました。

(※戦中戦後のNZでも、どちらの
受け入れも実施されています)
問題はあっても受け入れは続き

1861年に南オーストラリアでは
40%だったオーストラリア生まれは
わずか30年で70%を突破しています。

ドアを開けている以上、どんなに
狭い隙間でも移住を希望する人は
あの手この手で挑戦するものです。
世界は広く、オーストラリアが
ほしい人材もたくさんいます。
移民やその子孫は、建国の担い手
となり、盤石な多民族社会を築く
無数の柱となっていきました。
こんな絵にはほっこり(笑)

辮髪でクリケットをする中国人

中国人だけを対象にした人頭税など
最も差別を受けてもこの通り(笑)

1954年に入国したイノウエ・ヨシコさん

初期の戦争花嫁だったそうです。
暮らしてみて、その一部となって
つくづくわかる多民族社会の強さ。
言語や習慣や文化が違う不便さを
遥かに超えた社会のすそ野の広さ
という豊かさには圧倒されます。
さらに、違うはずの人たちが、
いざという時にはさっと駆け寄り
手を差し伸べて助けたり、
肩を抱いて一緒に泣いたり、
必要時には驚くほど寄付も集まり、
その営みの美しさには感動します。
最近ではNZのクライストチャーチの
銃撃テロ後の市民の反応に、そんな
社会の底力を見ましたが、緊急時の
オーストラリアもきっと同じでは?
今までもこれからも、移民たちは
このブロックように肩を寄せ合い

社会の一部となっていくことでしょう。

(※名前、出身国、移住年などを
記した寄付と思われる博物館の
庭に敷かれたブロックより)