キャプテン・スターリングが
1827年に到達し、「見たこと
もない美しさ」と評して情熱
とロマンを掻き立てられたギ
ルフォードは新しい植民地の
内陸の河港として期待され、
さらに内陸のヨークまで道路
建設が進められることに・・
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しかし、それ以外はスワンリ
バーの水上交通に頼る陸の孤
島で、ギルフォードは植民地
総督となったスターリングの
思惑とは裏腹に、厳しい茨の
道を歩むことになりました。
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(※入植者の自給自足生活が
しのばれる当時の生活用具)
入植はしたものの、植民地建
設に必要な資金も労働力もな
かったギルフォードは、土地
を得た地主といえども生き残
りを賭けて必死でした。カン
ガルーを撃って食用にし、領
土とそこからの食糧を奪われ
たアボリジナルから家畜を守
るため紛争が頻発しました。
土地を追われ、水や食べ物を
得る場所がなくなったアボリ
ジナルも、生き残りを賭けて
必死でした。「私有地」に入
って、そこにいる「家畜」を
狩ればそれは「略奪」となり
処刑という厳罰が待っている
という悲劇はオーストラリア
全土で繰り広げられました。
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1829年の植民地化から5年後
の1834年にはアボリジナルと
の内戦状態に陥り、多大な犠
牲を出しました。1837年には
小麦の自給に成功したものの
余剰分を現金化する市場がな
く、食料不足が続きました。
1839年にスターリングの後任
にハット総督が着任し、入植
者とアボリジナルの子どもの
学校建設、蒸気製粉機導入、
白檀輸出などに力を入れたも
のの景気低迷が続きました。
川沿いの細長い耕作地は牧場
に適さず、ギルフォードを後
にする入植者が続き、労働力
としての流刑囚受け入れへの
要望が高まっていきました。
スワンリバー植民地の労働力
不足は、フリーマントルでも
見たように、局地的な問題で
はなく、植民地化開始から20
年の紆余曲折を経て西オース
トラリアはとうとう1849年に
流刑植民地化を決定、翌年よ
り受け入れを開始しました。
囚人受け入れとなると必要と
なるのが、受け入れ施設で、
またまた刑務所
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/88/192adb38d13de8e5799b6973b718f193.jpg)
旅行中にこんなに刑務所見学
をするのは初めてでした
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