12年前にテニアンに行くと行った時、母がテニアンを知っていたのに驚きました。
北マリアナ諸島 テニアンはサイパンからセスナで10分、フェリーで50分で行けます。
車窓から
島のほぼ真ん中をまっ直ぐ続くブロードウェイ
潮吹き海岸:ハゴイ空軍基地の東(右上)ブローホール
波が打ち寄せるたびに、サンゴ礁の岩の穴から吹き上がります。
タガ遺跡:ラッテ・ストーン↑
古代のマリアナ諸島の王「タガ」にちなみタガストーンとも呼ばれる、サンゴ石でできた石柱群
北マリアナ諸島の旗にも描かれています。(ネットより拝借)
母の生まれ育った場所は、今日のテレ朝、グッドモーニングで依田さんが中継していた、
千葉県の九十九里にある旭市、近くに当時の香取航空基地があり、
お休みのとれた兵隊さんが、田舎の各家庭に代わる代わる慰労に来ていた中で、
母の家には輸送機パイロットの若者がよく来て、
外泊許可がおりるのは一部の人だけだったようですが、何度か泊まっていったそうです。
ある日、母が子供達だけで外にいると、見知らぬ兵隊さんが近づいてきたので、
「うちには偉い兵隊さんがいるからダメ!」と言って逃げ帰ったのに、
ついて来ちゃったそうです。
顔を合わせた二人は、なんと同じ部隊で、偉いと思っていたパイロットの方が部下で、
くっついて来た当時27歳の方もよく訪れるようになり、泊まったこともあったそうです。
母の長兄は十代でしたが、同じ様な年頃の兵隊さんを父母が我が子同様に手厚く接していたというので、居心地が良かったのかも知れません!
まだまだ自然が残るテニアン
この写真からはわからないと思いますが、テニアンブルーといわれる海はとってもきれいでした。
このころ撮った写真は、人物がド~ンと写っていて、
風景などは二の次で良い写真がないのが残念です。
輸送機のパイロットは、真っ青なバナナを持ってきてくれ蒸らして(熟して!?)食べた記憶もあり、
いざ出陣の日が来て、また会える日を約束して手を振って見送ったら・・・
外で飛行機(戦闘機)の爆音が
出てみると、まるでお別れを言うかのように、近くの畑の上を低空飛行で旋回し、
そして戦地テニアンに向かったそうです。
大東亜戦争(太平洋戦争を母はこう言いました)でパイロットは撃墜されテニアンの地で亡くなったと、
降伏し帰還した静岡の人からの手紙で知り、今生の別れに家族全員が涙したと言っていました。
長野 善光寺建立慰霊碑とテニアン島戦没者慰霊碑
12年前にもこの話を聞いて、漠然と手を合わせたように記憶しています。
パイロットは山形の人で独身、もう一人は静岡の人で、奥さんも1度尋ねて来たそうです。
そしてその二人の名前まで覚えていて教えてくれました。
苗字の一文字に、口をかいて右側に乍・・・余りない名前なので読みを調べていたら、
飛行予科練習生の名簿がヒットし、出身県は違っていましたが同姓同名を見つけてしまいました。
幼少の頃の母の記憶なので、勘違いや思い込みがあるとは思いますが
時々声を詰まらせながらも、12年前に聞いた内容と全く変わらない話がじっくり聞けました。
静岡の方のお名前でも探してみたら・・・フェイスブックをやっていました!
よくある姓名なので、こちらは別人と思われますが、
母の記憶が正しく生存されていれば103歳を越されています。
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