1月31日付けの朝日の朝刊に、旧社会党本部のビル解体に関する、読者の声が載せられていた。
「社会党は弱い人の立場に立った政策を掲げ、時の権力に立ち向かっている党だった。」と、北海道の住人である70才の柏谷氏が言う。
朝日は氏に賛同し、この声を掲載したのだろうか。同年代の私は、氏の感傷的な思いを、理解することができる。中学生だった頃、私は社会党について、そういう印象を持っていたし、朝日新聞に対しても、弱者の側から権力にものを言う博愛の新聞、と信じていた。
日本が高度成長期に入る前、国民の多くが貧しかった頃、三井三池の激しい労働争議があった。資本家と労働者の激しい対立が、いわば、金持ちと貧乏人の闘いそのものと見えた。ヤクザや警官を味方につけた会社側を、強く糾弾する朝日新聞に共感を覚えた。私が朝日に失望したのは、高校生になった時だ。
何の本だったか、詳しいことは忘れているが、暮れ方の図書館の片隅だった。聖戦を叫び、国民を戦争へ駆り立てていた張本人が、朝日に代表される新聞社だったと知った時の衝撃が、今も心に残る。
信じていた先生に裏切られた思い、とでも言えばよいのか、信頼していた恋人に、騙されたと知った時の失望とでも言うべきか、今日に続く朝日への不信感は、その時から始まっている。だから私と柏谷氏との違いが、ここにある。
図書館で、当時の朝日新聞を読み返してみると、再発見するものがまだある。
現在の私は、国を否定する反日の記事に、嫌悪を覚えるが、朝日は戦後一貫して、社会主義思想に賛同し、社会党の機関紙みたいなものだった。昨日今日に偏向した新聞ではないということだ。
今の在日韓国・朝鮮人、あるいは中国の国民は弱者でないし、日本も又、今では暴虐な侵略国家ではない。国際情勢も国民の意識も、大きく変化しているというのに、十年一日のごとく、同じ台詞を喋り、矛盾やほころびの生じない朝日新聞がおかしいのだ。
戦争の被害者のすることがすべて正しく、戦争行為者の日本は全て間違っていると、そんな単純な正義論ばかりでは、国の未来が消滅してしまうと、私は危機感を抱くようになった。
朝日だけでなく日本のマスコミは、国民の意識が変化していることに、気づくべきだ。右翼でない私は大声でマスコミを糾弾したり、街頭で怒鳴ったりしないが、時代遅れの偏向については、強い怒りと失望を覚える。
私にできることは、来年と言わず今年からでも朝日の購読を止めることだ。あるいは親類縁者、友人・知人に対し、朝日の購読を止めようと静かに呼びかけること。そのくらいしかできない。
私のブログを読んでくれる人は少数だけれど、その中には、賛同してくれる人が、いるのかも知れないし、いないのかも知れない。
「みみずの戯言」も、賛同者が増えれば、バカにできない力になるのかも知れない。本音を伝えるネット情報が飛び交う今日、それでなくとも、購読者や視聴者が減りつつある新聞やテレビは、このままでは影響力を失うと、危機感を持って欲しいでないか。
国を大切にし国民を守る心は、右翼の専有物でなく、普通の国民が持っている、普通の気持ちであるということだ。朝日の声の欄に掲載された、北海道の住人70才の柏谷氏の意見は、もはや多数の国民の声ではなくなっている。
世論の移り変わりに、機敏な反応のできない朝日新聞は、いつまでマスコミのリーダーでおれるのだろうか。