この世の事象が私の目前に、巨大な混沌の状態で聳えている。政治、経済、または歴史上の様々な事件など、あらゆることが天空の星雲のように捉え処がない。
フリードマン氏の著書の200ページ目、やっと半分まで読んだ。1929年以降の政治経済の流れについて、明快な叙述が続く。主としてアメリカのことが語られるが、欧州や日本についても言及されている。日頃の疑問に光があてられ、上手に語られるとついうなづいてしまう。
氏のような経済の専門家に、この世は如何ように見えているのだろう。曖昧なものを手際良く分析して解説し、迷うことなく意見を述べ何のためらいも見せない。
この世には賢い人が沢山いるのだと、感心させられる。
学生だった頃、マルクスの『資本論』やマルサスの『人口論』、あるいはカントの『純粋理性批判』などを読んだ時も、同じ感慨に打たれた。彼らは、どこからこのように広汎な知識を得るのだろうか。どのようにして、複雑な理論の組み立てを思いつくのか ?
カントのように難解になると、展開される論理の難渋さと理解困難な用語にうんざりとした。本の題名を沢山並べたからといって誇れる話でなく、むしろ恥ずべき学生生活の告白となる。
今もそんな無知な自分だが、氏の著書で心を動かされた点だけは抜き書きしておきたい。
・中央集権的計画経済や国有化の失敗は、政府がますます巨大化することへの圧力を弱めなかった。
・政府の拡大は、いまや社会福祉諸施策とか、諸規制の増大といった形をとるようになって来た。
自由放任にしておけば良いものを、政府が余計な介入をするから、国家財政が苦しくなっていくと氏が力説している。
・アレン・ワリスが、次のように言ったと紹介している。
・社会主義は、生産手段を国有化しろという主張の妥当性が、この百年を通じて次から次へと粉砕されてきたために、知的には完全に崩壊しており、今では生産成果の社会所有化を追求するようになっている、と。
35年前に出版された氏の著書を、マスコミが最近報道し出している。日本はすべての面で欧米を追い越し、学ぶべき事柄が無くなったと聞かされていたのに、35年遅れでアメリカの主張が語られ始めている。
・世界の富が、一部の富裕層に集中している。こんな酷い話は無い。今後の社会で重要なことは、富の再配分だ。
同じことを日本の左翼政党や左翼系の言論人、左傾のマスコミが主張しているが、フリードマン ( アレン・ワリス ) の真似だったということだった。
国境を越えた巨大ファンドマネーが、世界の富をかき集め、経済も社会も混乱させている昨今なので、「富の再配分論」に心を捉えられた。日本を荒し回った「禿鷹ファンド」への恨みも加わり、一も二にも無く賛同したが、米国左翼の35年前の主張でしかなかったと知る驚きがある。
いつの時代でも日本では、先を走る国が先生で先進国だ。良い面ばかりでなく悪い面においても、依然として欧米は先進国だったのだ。
・社会福祉の分野は最近の2、30年間に、とりわけジョンソン大統領が 「 貧困との戦争」を宣言して以来、爆発的に増大した。
・社会保障制度、失業保険制度といった政策が拡大され、支払われる金額も増額された。老人医療制度、食料援助制度、公共住宅計画や、都市再開発計画も拡大された。
・1953年に作られた健康・教育・厚生省は、当初の予算が20億ドル。すなわち軍事費支出の5%より、少なかった。
・25年後の1978年には1600億ドルの予算となり、陸・海・空三軍を合わせた全予算の1.5倍になった。
・これより大きな予算は、合衆国政府の全予算かソ連のそれしかない。
・健康・教育・厚生省はいわば巨大な帝国を管理しており、その権力はアメリカの隅々にまで浸透している。
・社会福祉政策が掲げた色々な目的は、すべて高貴なものであった。
・しか、政策がもたらした実際の結果は、人びとを失望させるものでしかなかった。社会保障支出は急速に上昇していくのに、制度はいっそう深刻な財政難に陥って行った。
ここまで読み進むと、現在の日本そのものでないかと思わされてくる。政府が介入せず、自然の摂理に任せておけば、賢明な「見えざる手」が、すべてを解決すると言うのが氏の一貫した主張だ。
理論の行き着く先は「弱肉強食の世界」だと思うので、簡単にうなづけないが、それでも耳を傾けさせる現実がある。
・大規模な社会福祉政策が導入された最初の近代国家は、あの鉄血宰相ビスマルクが指導したドイツ帝国だった。
・第一次大戦前のドイツ、今日のはやり言葉で言えば、右翼による独裁主義国が、社会主義や左翼に結びつけて考えられがちの社会福祉政策を導入したことは、逆説的と思えるかもしれない。
・しかし、そこに逆説は無い。
・右翼貴族主義者と社会主義者が異なるのは、誰が社会を支配するか、という点にあるだけだ。
・生まれた家柄により支配者が決まるのか、能力により選ばれたと称される専門家の中から決定されるのか、その違いでしかない。
・そのどちらもが 一般大衆の福祉 を増大させると主張し、そのどちらもが温情主義的な哲学を唱導するのだ。
・しかも実際に政権を握ると、これらのグループのどちらもが、 一般国民の利益 の名のもとに、自分自身の階級の利益の促進を行うことになってしまう。
つまりこれが、かってのソ連や東ドイツであり、現在の北朝鮮や中国である。秘密警察で国民を縛り付け、言論を弾圧し人権を無視する恐ろしい国だ。
「子どもたちを、再び戦場へ送ってはなりません。」
「軍事費を削れば、貧しい人・弱い人びとへの支援ができるのです。」
「お年寄りや子ども、女性に優しい社会を。」
日本で共産党が選挙の度に叫んでいるが、35年前のアメリカで使われた手あかのついた政治スローガンだった。共産党や左翼の人間たちの、そんな物真似も見抜けずにたぶらかされたお人好したち・・つまり、私たち国民だ。
書きたいことはまだあるが、少し疲れて来た。誰が待つ訳でも無し、ここいらで休憩とするか。
「自由放任主義」の氏に全面的賛同はできないとしても、傾聴すべき達見がある。現在の日本と重ねて読めば、教えられることが多々あり礼を言いたくなる。
「古くても新しい書物」とは、こんな本を言うのだろうか。
風呂上がりに一杯冷やしたお茶でも飲んで、それからまた本を読もう。平穏な一日が今日も暮れる。こんな暮らしができるのは、国が年金をキチンと支給してくれるからである。節約を第一の日々だとしても、感謝せずにおれない。
有り難いことでないか。