2・26事件には、侯も複雑な思いがあるのでしょうか。折に触れ、感想を述べています。
「2・26事件には、確かに同情すべき点が多い。」「だがその影響も、軽視するわけにいかない。」「三月事件、十月事件、5・15事件までは、」「首謀者は革命運動として、国民大衆との結合を念頭に置いていた。」「労働者や農民が加わり、無産政党の加担も求めていた。」
「だが、2・26事件にはそれがない。」「純粋性と忠誠心に凝り固まった結果、軍人だけの行動となった。」「これが、派閥闘争に利用されたといわれるところで、」「国民から遊離しただけでなく、反軍思想さえ生まれた。」「2・26事件の結果、世界の各国が、アジア大乱を予想した通りになった。」「翌、昭和12年7月7日に、盧溝橋事変が突発し、」「ついに、不幸な日中戦争となったのである。」
私はこの時、侯の自伝の5年後に出版された、白石正義氏の著『私の昭和史』の記述を思い出しました。
氏は、陸軍士官学校在学中に5・15事件に連座し、退学処分となり、満州に追放されました。そこで関東軍情報部、関東軍特務機関要員となり、身分を隠したまま終戦を迎え、引き揚げ船で帰国した人物です。戦後は一般人として暮らしていましたが、自分の人生の記録として、昭和63年にこの本を書いています。
侯の知らない事実が書かれており、知っていたら、2・26事件への見方が変わっていたのではないかと、そんな気がしてきました。話が横道へそれますが、白石氏の著作から、その部分を転記します。
「わが国と蒋介石を戦わせ、」「両方の戦力を消耗させることが、」「スターリンの唯一の願望であり、世界戦略の一端であった。」「アジアでの無産革命を達成するための障碍の一番が、日本帝国で、二番目が蒋介石の国民党であった。」
「このためにスターリンは、中国に「国共合作」を行わせ、」「手段として、共産軍を国民党軍に編入し、日本に対する統一連合戦線を結成させた。」
いわゆる、世間でささやかれる「スターリン謀略説」です。白石氏が、渾身の思いで出版した本だったのでしょうが、昭和63年の日本では、一顧だにされなかったようです。
「近衛内閣以後の歴代の内閣は、日中戦争を一日も早く終わらせるべく、」「それなりの努力を払った。」「しかし都度不調に終わった原因は、スターリンの " 反ファッショ人民戦線 " にあったのでないか。」「王明の提案の内容をみれば、いくらわが国が和平交渉を提案しても、無駄であった理由が、判明する。」
ここで氏が説明しているのは、昭和10年にモスクワで行われた、「コミンテルン第7回大会」における「スターリンの戦略」です。大会後、戦略に沿って、三つのことが実行に移されたと言います。
1. 毛沢東の抗日宣言 (昭和10年)
2. 西安事件 (昭和10年)
3. 2・26事件 (昭和11年)
1. 2. については、納得できますが、3つの戦略の中に 2・26事件が含まれていると言うのは、不思議な話でした。今まで忘れていましたが、侯の自伝を読み、ふと白石氏の著作を思い出しました。
氏の著作を、少しばかり転記します。
〈 1. 毛沢東の抗日宣言 (昭和10年) 〉
スターリンの指示を受けた毛沢東は、四川省で、抗日宣言を発表した。
「中国および中国民衆の仇敵は日本だ。」「日本の侵略で中国は多くのものを失ったが、今や日本はさらに武装し、中国に迫っている。」「中国および中国民衆は、国内抗争を停止し、抗日の旗印のもとに、すべての階級の民衆を組織し、全面的抗日戦線を行うべきだ。」
〈 2. 西安事件 (昭和10年) 〉
共産党討伐戦のため、南京を訪れていた蒋介石を、副司令官である張学良が、宿舎を急襲し監禁した。延安にいた共産党の周恩来が、モスクワの指令で仲介に入り、蒋介石を救出した。釈放の条件として、蒋介石は共産党討伐を止め、国共軍が一致して日本と戦うことを、約束させられた。
〈 3. 2・26事件 (昭和11年) 〉
軍部内の将校を扇動し、天皇親政の名のもとに政権を取らせ、米英相手の戦争に突入させる。かくて日本は国力を消耗し、敗れ、日本を敗戦革命に導くことができる。
要するにスターリンは、クーデターを成功させ、米英戦争へ向かわせることを戦略にしていたと、氏は説明しています。意見の正当性を裏付けるため、ボン大学教授の松本氏の意見を、引用していました。
「 2・26事件によるクーデターは成功しなかったが、米英戦争へ向かうという流れは残った。」「5・15事件は、純粋に日本だけで考えられ、実行されたものだが、」「 2・26事件は、その考えの底流に、外国の発案が働いている可能性がある。」
読者の疑問を解く鍵として、白石氏が次のように述べています。
「コミンテルン第7回大会には、野坂参三と山本縣蔵の2名が、それぞれ岡野、田中という偽名で日本を出国し、参加しています。」
私はこの2名、野坂、山本の両氏が、スターリンの戦略を実現するため、大川周明氏や北一輝氏に近づいていたのではないかと、推測します。共産党員にも親近感を抱き、警戒心を持たなかったのですから、十分に考えられます。結局日本軍は昭和16年の12月に「真珠湾攻撃」をするのですから、長い目で見れば、スターリンの戦略は実行されています。
スターリンを過大評価するのでなく、私がこの話を紹介するのは、「日本共産党の恐ろしさ」と「無警戒な日本人」への警鐘のためです。現在の国際社会は、米中の二大強国が覇権を争い、日本がその狭間で翻弄されています。政界にも経済界にも、国益を忘れた反日左翼たちが、中国に膝を屈し、米国内の反日勢力に媚びを売っています。
私たちは、侯や大川氏、北氏と、周辺にいる「お人好し」の人々を、笑っているわけにいきません、他人事ではありませんと、それが言いたくて回り道をいたしました。
「政界は一寸先は闇」といわれますが、国際社会も同じことです。過去を知り、現在を考えることの大切さを、息子たちに伝えたいと願っています。
1. 反日左翼学者の追放 2. 反日左翼スコミの駆逐 3. 反日左翼政治家の落選
現在の私たちがやらなくてならない具体策は、以上三つです。しかも忘れてならない重要なことは、自民党の中にいる「害虫たち」です。落選させる勇気を持たなくてはなりません。