年取りとは、大晦日(おおみそか)、または節分の夜に行う儀式だそうです。185ページに、詳しく書かれています。
「 275 」
「十二月は一日から三十日までに、ほとんど毎日のように、」「種々なものの年取りがあると言われている。」「しかしこれを全部祀るのは、イタコだけで、」「普通は次のような日だけを祝うに止める。」
「すなわち五日の御田の神、八日の薬師様、九日の稲荷様、」「十日の大黒様、十二日の山神、十四日の阿弥陀様、」「十五日の若恵比寿、十七日の観音様、二十日の陸の神 ( いたち ) の年取り、」「二十三日の聖徳太子 ( 大工の神 ) 、二十四日の気仙の地蔵様の年取り、」・・・( 省略 )
沢山あるので省略しますが、普通の家でも、これだけの儀式を行っていたのですから、遠野地方の師走は、師が走るだけでなく、人々が慌ただしく過ごしていたのでしょうか。
「 284 」
「果樹責の行事も、小正月である。」「この地方では、これをモチキリといっている。」「一人が屋敷の中の木の幹を、斧でトンと叩いて、」「良い実がならなからば切るぞと言うと、他の一人が、」「良い実を鳴らせるから許してたもれ、と唱える。」
母の里の出雲でも、似た風習がありました。叔父が斧を持ち、実のなる木の幹を傷つけ、「なるかならぬか、どうじゃ」と問いかけ、「なるなる」と自分で言い、傷つけた部分に小豆粥の薄めたものを掛けていました。4才頃の記憶です。
岩手県と島根県は遠く離れていますが、田舎の風習は似ているのだと知りました。
「 295 」
「お雛様にあげる餅は、菱張りの蓬餅の他に、」「ハタキモノ ( 粉 ) を青や赤や黄に染めて、餡入りの団子も作った。」「その形は兎の形、または色々な果実の形などで、」「たとえば松バクリ ( 松毬 ) のようなものや、茄子など思い思いである。」
「これを作るのは年頃の娘たちや、母、叔母たちで、」「皆がうち揃って仕事をした。」
『遠野物語拾遺』は「299」番、194ページで終わります。最後はこのように季節ごとの儀式や、土地の風習が語られています。幼い頃の、自分の記憶と比較しながら読みますと、民俗学の深さが感じられました。
それでも大藤時彦氏の理解には、とても及びません。解説の210ページ部分を紹介します。
「広い世界の中でも、我々日本人の来世観だけは、」「少しばかりよその民族とは、異なっていた。」「もとは盆彼岸の良い季節に、必ず帰ってきて、」「古い由緒の人たちと、飲食談話を共にしうることを、」「信じて去る者が多かっただけでなく、常の日も故郷の山々から、」「次の代の住民たちの幸福を、じっと見守っていることができたように、」「大祓の祝詞などに、書き伝えている。」
「すなわち霊はいつまでも、この愛する郷土を離れてしまうことが、」「できなかったのである。」
民俗学の知識のある人は、こう言うところまで理解し、氏の文章を読んでいます。疑問ばかり並べている自分と比べますと、穴があったら入りたくなります。
「柳田先生が、晩年力を注がれた祖霊信仰も、」「こういう遠野の生活などでみられた、実感に支えられ、」「動きなき信念となって、一つの体系にまで成長したものに違いない。」
「遠野が先生にとって、忘れられぬ土地であり、」「今日は、民俗学のメッカと言われているのも偶然ではない。」
愛する故郷の土地と結びついた「祖霊信仰」は、そのまま神話と繋がり、時代を経て皇室への敬愛となっていきます。そうなりますと民俗学は、日本の文化や歴史を否定する左系の思想とは、異なる学問だと分かります。
国家を否定する過激派学生の、理論的指導者だった吉本隆明氏との繋がりが、ますます謎となってきました。次回からは、いよいよ氏の『共同幻想論』を手にします。