江藤淳氏著『妻と私』( 平成11年刊 (株)文藝春秋 ) を読んだ。
有名なので名前だけは知っていたが、初めて読む氏の作品だ。感想を述べる前に、どういう人物なのかインターネットで調べてみた。
昭和7年の東京生まれで、慶応大学卒業後は文学博士、文芸評論家として活躍。本名は、江頭淳夫(えがしら あつお)。氏は、明治国家を理想とする、正統保守派の論客として、異彩を放ったとのこと。日本は真の独立国家ではなくなっていると考え、アメリカ政府による、「日本弱体化計画」の存在を、最後まで主張し続けた人物だ。
平成10年に、妻慶子さんを癌で亡くし、翌11年の7月、自宅の浴室にてカミソリで手首を切り、自殺した。直前の心境を、氏は次のように書き残している。
「心身の不自由が進み、病苦堪えがたし。」「自ら処決して、形骸を、断する所以なり。」享年66才、弔辞は石原慎太郎氏が読んだ。
祖父は江頭海軍中将で、父は銀行員だが、母は宮治海軍少将の娘だった。叔父はかの有名なチッソの元会長江頭豊氏で、従姉妹はこれもまた、時の人とも言える小和田優美子氏。優美子氏の娘が皇太子妃だ。
ネットの情報とは、恐ろしいものである。一瞬にして沢山の事実が明らかになる。
石原氏の弔辞の辺りで、ネットの検索をやめておけば良かったと後悔する。正統派の保守論客である氏の遠縁に、皇室破壊の元凶と言われる、皇太子妃が繋がっているとは、知りたくない事実だった。
また江頭豊氏は、チッソの社長として水俣病の処理にあたり、終始工場の廃液と病は無関係と語り、補償や詫びを中々せず、患者たちから、鬼のような人間と酷評されていた。
本の感想を述べるため、普通は簡単に、略歴を見るだけなのに、今回はなぜか心にひっかかるものがあった。この本は、妻慶子さんへの献身的な介護の思い出で、愛に満ちた記録でもあるのに、感動を覚えなかった。愛しい妻の後を追い、自殺した高名な評論家の作品だと知っても読後の心が冷めていた。
情にもろい自分と思ってきたのに、本当は薄情な人間だったのだろうかと、情けない思いに駆られたりもした。
だいたい私は、大切な妻が亡くなったからと言って、後を追って死ぬような、保守思想家の存在からして信じられない。私のような口舌の徒は、いざその時になればどうなるのか分からないが、それでも「病苦堪えがたし」など、気弱な言葉を吐こうと思わない。
「この世をば、どりゃお暇に線香の 煙と共にハイさようなら。」と、辞世の句を読んだ、一九の方がよっぽど立派だ。
芥川氏だって、川端氏だって、文筆で沢山講釈を述べているのだから、厭世からの自殺など、読者への裏切りでないかと考えてしまう自分だ。まして日本の未来を語る、保守思想家なら、妻の死を乗り越えてこそ男ではないのだろうか。
むしろ私は、氏の自殺について別の原因を推測している。
昭和48年に氏は、『一族再会』という本を世に出しているらしい。これも先ほど目にしたネットの情報でしかないが、功成り名遂げた氏が、自分のルーツを追って九州を旅し、あまりにも暗く悲惨な事実を知り落胆したと書いてあった。
それは現在、ネットの情報で拡散され続けている、小和田氏一族の過去の暴露記事と重なるものだ。詳しく述べる気にならないが、これを知った氏の驚きと、悲嘆の大きさが私には感じ取れる。誇り高い彼には、到底認めがたい事実だったに違いない。憂国の士として生きて来た氏には、その時から先祖の闇が、耐えがたい苦痛と変じたのではなかろうか。
妻慶子さんが生きていれば、彼女に支えられ、生き続けたのだろうが、背に負う荷の重さに一人では耐えられなかった。そんなことはとても書けないから、「病苦堪えがたし」、と言い死を選んだのか。
愛妻家だから、愛する人を追っての自殺だと世間が誤解してくれるはずと、賢い氏はそこまで考え、身を処したのではなかろうか。祖先を死の原因と明かせば、残る親類縁者への影響は計り知れず、まして皇室へも及ぶと思えば、行き詰った氏は、「形骸を断する」しかなかった。
それを知る石原慎太郎氏が弔辞を読み、潔い死と誉めたのでないか。
すべて理解し受け止めた上での、石原氏の言葉だと、なんの根拠もない、私だけの推測だが、そうでなければ、保守思想家としての名が廃る。江藤氏はもちろんのこと、弔辞を読んだ石原氏もだ。
読後の感想のつもりだったのに、本に関する何の感想も無く終わってしまった。強いて思いを述べるとすれば、お金も地位も名誉もある人間にも、「形骸を断する」しかない不幸せな人がいると・・・・。
こんな悲しい感慨しかない。