陸軍に皇道派と統制派があり、激しく対立していたという話は知っていました。関係の本を読んでも、今一つ理解できませんでしたが、岡田元首相の説明ですべてがハッキリしました。
これまで読んだ本は、あっちを立て、こっちも立てと、曖昧にしていたから理解できなかったのだと分かりました。長くなりますが、後の 2・25事件につながる重要なことなので、割愛せずに紹介します。
「陸軍にはいつのころからともなく、皇道派と統制派という派閥があり、ことごとに争っていた。」「皇道派と見られていたのは、真崎甚三郎と荒木貞夫なんだが、真崎は陸軍三長官のひとつである教育総監の地位にあり、若い将校などを家に出入りさせて、おだてたりし、林陸相のやることに干渉していたらしい。」
「林の下には、軍務局長永田鉄山がいて、これがまあ、林を操縦しているんだとも言われていたが、林は部内統制のために、真崎を退けようと画策し、ついに非常手段として、閑院参謀総長宮のご同意を得て真崎をやめさせた。」
「真崎を辞めさせるという日に、私にも内々知らせがあって、今頃は真崎が怒っているだろうなと、成り行きを心配していたものだが、皇道派の連中は永田の陰謀だと騒ぎ、かねて真崎を崇拝していた相沢が、昭和10年の8月、台湾への転勤の途中、陸軍省へ挨拶に来て、永田軍務局長を切ってしまった。」
「凶行の後で、省内で雑談していたところを、小坂慶助という憲兵がやってきて、なだめすかして、憲兵隊へ連行したという話だった。」
相沢中佐は、皇道派の者たちから英雄のように見られ、公判は大変な騒ぎになったと言います。皇道派の動きが剣呑になり、今にも不詳事件が突発しそうな様子だったそうです。
「具体的なことは、私にはわからない。クーデターのようなことが、起こるかもしらん。私も狙われているだろうと、そのことは覚悟していた。」
皇道派と統制派について、別途調べましたので整理したいと思います。
・ 皇道派とは、陸軍内にかつて存在した派閥。
・ 北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソ連との対決を志向した。
・ 名前の由来は、理論的な指導者だった荒木貞夫が、「日本軍を皇軍と呼び、政財界(君側の奸)を排除して、天皇親政による国家改造」を説いたことによる。
・ 皇道派が全盛期の時代の犬養内閣時に、荒木が陸軍大臣に就任し主導権を握り、皇道派に反対する者に露骨な人事を行い、中央から退けた。
・ この処置が、多くの中堅幕僚層の反発を招き、反皇道派として団結するようになった。
・ 皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から、統制派なる派閥の頭領にさせられていた。
したがって永田軍務局長にすれば、「陸軍には、荒木貞夫と真崎を頭首とする、皇道派があるのみで、統制派という派閥は存在しない」ということになります。最も分かりやすかったのが、岡田元首相の次の区分でした。
1. 皇道派は、陸大出身者がほとんどいない下士官クラスで占められている。
2. 非皇道派 ( 統制派 )は、陸大出身の将官クラスで占められている。
下士官クラスの軍人が、なぜ北一輝の思想に惹かされて行ったかについては、当時の社会情勢を考慮する必要があります。
世界恐慌の影響で、日本経済が大打撃を受け、農漁村の疲弊と貧困には目を覆うものがありました。貧しい村では、娘たちが悪徳商人に売られていきました。彼女たちは低賃金で働かされる女工となるだけでなく、売春婦にもなりました。政治家と結託した経済界だけが、巨利を得て贅沢をしていました。
下士官クラスの軍人の多くは、そうした農漁村の出身者でしたから、北一輝の「天皇親政論」に強い共鳴を受けました。「無私の天皇陛下による、万民平等政治」に、彼らは夢と願いを託しました。一方、非皇道派 (統制派) の陸大出身の将官クラスの軍人たちは、裕福な家庭の出身者が多数ですから、北一輝の思想に惑わされません。
いわば北の思想は、天皇陛下の独裁による共産主義政治ですから、現在の左翼思想がそうであるように、現実と遊離したユートピア思想でした。これについて述べると、著作を離れてしまいますので、元へ戻ります。
「非皇道派の中堅幕僚層は、永田鉄山や東條英機を中心に纏まり、後には、陸軍中枢部から皇道派が排除されていくこととなる。」「路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対し、皇道派は、若手将校による過激な暴発事件(相沢事件や二・二六事件など)を引き起こし、衰退していくことになる。」