岡義武氏著「近衛文麿」(昭和47年刊 岩波新書)を、読みました。
岡氏は明治35年に東京で生まれ、平成2年に88才で亡くなっています。日本の政治学者で東京大学名誉教授、専門は政治史と日本政治史で、多数の著書があります。吉野作造氏に師事したと言いますから、左系の教授だと思いますが、偏見のない学者というのが読後の印象でした。
これまで、東大といえば反日の巣窟と決めつけてきたましたが、偏見ばかりでは良くない、と思わされました。近衛文麿公が主人公ですが、著者は徹底的に公を酷評します。かって司馬遼太郎氏が、乃木将軍を無能な軍人とこき下ろしましたが、それに似た書きぶりでした。司馬氏と違う点は、本の最後で、公を運命に翻弄された悲劇の人物として、好意的に叙述しているところです。
その代わり、東条元首相と松岡洋右元外相が、戦争責任者の筆頭として描かれています。松岡氏に関する本を読んだことがありませんので、著者の批判を受け止めるしかありませんが、東条元首相については、疑問を持ちます。「近衛の姿は悲劇だが、東条は喜劇だ。」氏が何をもってそう言うのか、書かれていないので分かりませんが、東京裁判における、東条首相の「宣誓供述書」を読んだ私は、そう思いません。
「軍事法廷に立ち、戦争に至ったわが国の立場を堂々と述べ、」「戦争の責任は、日本側のみにあるのではないことを、明らかにしてほしい。」「貴方こそは、天皇のために申し開きをする最適任者であり、」「是非とも、その役割を果たして欲しい。」
公が戦犯として逮捕命令を受けた時、側近の者から、このように訴えられました。しかし裁判の性格を見通していた公は、彼らに答えました。
「アメリカは軍事法廷で、被告の陳述を聞いた上で罪を断ずるのではない。」「政治的意図に基づいた裁判が行われるのであるから、」「貴下のいうことは、到底果たし得ない。」「陛下のお役に立つことなら何でもする。」「しかし、軍事法廷では不可能である。」
その晩、公は自ら命を絶ちました。誇り高い貴族の末裔である公は、戦争犯罪人として、裁判を受ける屈辱には、到底耐えられないと、側近に漏らしていたと言います。公の覚悟と、状況を把握する明晰さを、ここで批評する気持ちはありません。しかし、戦争遂行の責任者として、屈辱に耐え、東条元首相は裁判で堂々と日本の立場を述べました。制度上からして、陛下に責任がなく、つねに陛下は平和を願っておられたと供述しました。この事実からすれば、公と比較し、どうして東条氏が喜劇と称されるのか、自分は理解できません。
でもこの本は、知らなかった事実を沢山教えてくれました。近衛文麿という人物は、私の中で、名前と顔写真だけの存在でしたが、血の通う人間として理解ができました。これだけでも、感謝せずにおれません。
まず驚かされたのが、大正7年に公が、雑誌「日本及び日本人」に寄稿した一文です。ずいぶんと長いので、割愛して引用します。
「われわれもまた、戦争の主たる原因がドイツにあり、」「ドイツが平和の撹乱者であったと考える。」「しかし英米人が、平和の撹乱者をもって、ただちに正義人道の敵となすのは、狡獪なる論法である。」「平和を撹乱したドイツ人が、人道の敵であるということは、」「戦前のヨーロッパの状態が、正義人道に合致していたという前提においてのみ、いいうることであるが、」「果たしてそうであろうか。」
「ヨーロッパの戦争は、実は既成の強国と、未成の強国との争いであった。」「現状維持を便利とする国と、現状破壊を便利とする国の争いである。」「戦前のヨーロッパの状態は、英米にとって最善のものであったかもしれないが、正義人道の上からは、」「決してそうとは言えない。」
「英仏などはすでに早く、世界の劣等文明地方を植民地に編入し、」「その利益を独占していたため、」「ドイツのみならず全ての後進国は、獲得すべき土地、」「膨張発展すべき余地もない有様であった。」「このような状態は、人類機会均等の原則に反し、」「各国民の平等生存権を脅かすものであって、正義人道に反すること甚だしい。」
「ドイツがこのような状態を打破しようとしたことは、正当であり、かつ深く同情せざるを得ない。」
第一次世界大戦に敗れたドイツを評する意見ですが、私は似た論調を、ヒトラーの「わが闘争」の中で読みました。ヒトラーが政権を取るのは、日本で言えば昭和8年の話ですから、近衛公のような考え方が、当時すでにあったのでしょうか。後進国日本の指導者の一人として、こうした過激とも言える意見を雑誌に載せる公は、はたして賢明だったのか、軽率だったのでしょうか。後々悲劇の主人公となる萌芽を、私はこの論文の中に見ました。
本を読み進みますと、満州に進出した陸軍の参謀たちが、公と同じ考え方で満州国を設立していることを、知らされました。満鉄社員や軍人の中には、五族共和の大東亜建設を本気で考えた人物もいましたが、当時の政治家や陸軍の中枢には、公のような植民地主義者が力を持っていたということも分かりました。
著者は大東亜戦争の筆頭責任者を、東条元首相と松岡元外相に絞っていますが、近衛公こそが筆頭でないかと思えてきました。日中戦争不拡大と言いながら、結局戦争を拡大し泥沼化させた原因は、公が青年時代から持っていた思想にあると思えてなりません。反対したけれど、陸軍の横暴に抗しきれなかったと、本人も言い、著者もそれを認めていますが、事実は逆でないのかという気がしてきました。
松岡外相にも暴走されたという口吻ですが、既に大正7年にドイツに同情し、評価もしているのですから、日独同盟に乗り気だったのは公の方だったのかもしれません。周りに持ち上げられるとその気になりますが、本来臆病な公は、肝心の場面にぶつかると決断できなくなります。そして傷口を広げ、総理を辞めたいと我儘を言って周りを困らせる。誇りだけ高い殿様政治家の典型で、傷だけらけになっても政治をやるという気概がありません。
世の期待を一身に浴びながら、佐川急便の献金問題でマスコミに騒がれると、すぐ面倒になり、政権を投げ出した細川総理のことを思い出しました。
威丈高に「蒋介石を相手にせず」と失言したため、日中戦争を拡大させ、日本の破滅を防げなくしたのは、明らかに公の失政です。あるいは米国との和平交渉も、蒋介石との和平交渉も、その芽があったのに決断できなかった。胆力のない宰相でした。
本には具体的な公の足跡が、軍の強圧で思うようにいかない事情を絡め語られます。あるいは、米英ソの指導者たちが、いかに日本を追い詰め、破滅させていくかが詳しく書かれています。それにつきましては、他の書物の感想を述べた時に触れていますので、今回は省略いたします。著者の意見と異なりますが、いつものように浅学をものともせず、独断で、私が言いたいのは、この結論だけです。
大東亜戦争の、国民に対する責任者は、近衛公が筆頭でないのだろうか。(世界に対する戦争責任者は、いません。)