将来の夢や希望について、意識して考えだしたのは、中学生になってからだ。
手元にある古い日記に書かれた、鉛筆書きの拙い文字が、中学二年生の秋からの、始まりを記している。昭和何年と書いてあるが、数字を入れると ( 隠すほどのものでないのだが ) 、年齢が明確になるので、故意にぼかしておくこととする。
希望については、やっかいでも、一度は書かずにおれないテーマだった。
家族にはもちろんのこと、友人にも知人にも、気軽に話したくない気持ちがあった。照れるとか、恥ずかしいとか、口にするのさえ、うんざりするとでも言えば良いのか、説明のつかない重苦しさがある。
気になるのでグーグルで、私のブログと同じ名前の「きまぐれ手帳」を、検索してみたら、なんと35万件もある。無数の気まぐれが世間にいて、てんでにブログを更新していると知り、呆れてしまった。
35万件もある「気まぐれ手帳」なら、とりたてて、自分のものが読まれるという、心配もない。これなら、勝手な独り言が、のんびり続けられると一方では安堵した。
安心したところで、本題へ戻ろう。
「神童も、二十歳過ぎればただの人」と、こんな言葉があるくらいだから、ただの人になった神童は、ゴマンと居たに違いない。星の数ほどいる神童のひとかけらに、幼い日の私がいたと、恥を忍んでそこから始めないと先へ進めない。
つまり、何をしても周りの大人たちから、許される子供。何をやっても、甘やかされる少年。神童は、たいていそういう状況に置かれている。
良い子だから、大人に可愛がられるのか。可愛がられるために、良い子にしていたのか。今にして思えば、どちらが先行していたのか判然としないが、おぼろになった記憶の彼方に、確かにそんな少年だった自分がいる。
君は大きくなったら、何になりたいかと聞かれ、学校の先生になりたいとか、バスの運転手になりたいとか、具体的な職業をハッキリ言える子供がいる。口には出さなかったけれど、私はそんな子を、すべて軽蔑していた。
赤十字を創立したアンリ・デュナンや、植林の父と呼ばれた金原明善や、アフリカで医療に従事したシュバイツアーなどの、偉人について、学校の教科書で教えられていたからだった。
少年よ大志を抱けと、クラーク博士が言われたなどと、先生に強調されたりすれば、神童なら誰だって、そんなリッパな人になるのだと意気込んでしまう。「人類や社会に役立つ人間」になりたいという希望が、自然なものとして生まれる。その結果、自分のことだけしか考えられない、クラスの者たちの小さな希望は、取るに足りないと、軽視せずにおれなくなった。それもごく自然のこととして・・。
六十を過ぎた今だから、分かることだが、神童には三種類あるようだ。
1. ホンモノの神童
2.「二十歳過ぎればただの人と、早く気づけた」神童
3.「二十歳過ぎても、ただの人と気づけなかった」神童
2と3は、別の言葉で表現すると、「運のよい神童」と「運の悪かった神童」と言っても良い。自分がただの人と、早く気づいた運のよい神童は、過去のおのれを、率直に反省し、平凡そのものの家族を含め、同じく平凡な周囲の人間も、ちゃんと尊敬できるようになる。ついでに、感謝の念まで抱けるようになったりする。
言うまでもないが、私は運のよい神童でなかったから、今頃こんな繰り言を述べている。
それとなく疑いつつ、三十を過ぎ四十を過ぎても、ただの人と気づけなかった自己を、回顧するのは、なんと気の滅入る作業であることか。匿名なのでやれているが、実名なら一行だって書き進めない。
「学術優秀・品行方正」。こんなものが、今の学校にあるのかどうか知らないが、当時は、クラスの何人かが教師に推薦され、学年末の終業式で、校長先生から賞状を受け取るという、晴れがましい行事が、当たり前のように行われていた。
社会に役立つ人間になりたい、という希望を持ちつつ、小学校、中学校と進み、高校生になり、その間、自分なりに、希望の中身を吟味してみた。
民主主義の教育が、人間平等と人格の尊厳を教え、未来に挑む、フロンティア精神まで植えつけてくれたので、人生はバラ色だった。人は誰も努力し、困難に打ち勝っていく。福沢諭吉もリンカーンも、貧しい家に生まれ、努力して立派な人間になった。
社会に役立つ人間なら、政治家でも芸術家でも、思想家でもいい。ルソー、モンテスキュー、アダム・スミスと、すべては、自分の意志と努力にかかっているのだから、希望はまさにより取りみどりだった。
望む東京の大学に合格し、青雲の志を抱いて上京し、おそらくここいらまでが、私の絶頂期だった。
大学生になり、マンモス教室で、マイクの授業を聞きながら、どうすれば、あるいはどこへ行けば、希望への道に立てるのかと、苦悶の日々が始まった。どこを向いても壁だらけで、まずもって予想外だったのは、自分の話を、誰一人として、まともに聞いてくれないという恐ろしい現実を知った。
活気に満ちた東京の喧騒さと、己の内心の貧しさとのギャップを埋めるものが、見つけられず、何度も自信を失いそうになった。田舎町の神童など、大都会では、路傍の石ころほどの存在感もないと知ったのに、素直に認めるにはまだ若過るた私だった。
「地を這う虫も、踏まれれば立ち上がる。」と、スカルノの言葉などを思い浮かべ、よけいな闘志を燃やしてしまった。
世界よ、教えてくれ。自分にとって大切なもの。この命を燃やすべき価値あるもの。僕はやはりそれを求める・・。舞台の演技でなく、本気で思い詰めた自分を振り返ると、そのしぶとさを誉めたい気持ちと、眉をひそめたくなる苦々しさがある。
金もないのに、4年で卒業すべき大学を6年に延ばし、それでも、希望につながる端緒すらつかめず、無惨極まる結末となったが、これ以上は、道化の繰り返しになるばかりだから、書くのをやめよう。
結局、私は大いなる失意と、幾ばくかの居直りとの入り混じった気持ちを、抱いたまま、小さな会社に就職を決めた。このあたりで、シッカリ現実と、向き合えば良かったのだろうが、どこかに、自分が本当に生きる場所がある、という思いが捨てられぬまま、生きてきた。
そしてつい先日、これが多くの若者、とりわけ元神童たちの辿る道で、珍しくもないありふれた姿だったと、やっと理解し得た。希望という表題で述べてきたが、若者の一人として、ひたすら挑み、やみくもに悩み、それでも何とか、足を踏み外さずに生きてきたと、ただそれだけの回想でしかない。
これで良かったのだし、私には、これしかできかったのろう。そうすると、やっぱりポール・ベルレーヌの詩が、思い出される。
君、過ぎし日に、何をか為せし
君、今ここに 唯嘆く
語れや、君、そも若きおり
何をか為せし
もしも、この詩との違いがあるとすれば、私は、今を嘆いていないというところだ。既に青雲の志を遂げる年でなくなり、その気も持っていない。身近になる老いと、その内に来る、死への準備があると、そっちの方が忙しくなった。
青年時代の、喜怒哀楽の激情から解放された、この毎日の穏やかさよ。それだけでも嬉しい。年を取ることの有り難さなのか、感謝せずにおれない。