閻学通氏のインタビュー記事を、朝日新聞で読んだ。精華大学、当代国際関係研究院院長という肩書きだ。
この地位がどの程度ものか知らないが、全面記事に近い扱いなので、中国では大した人物なのだろうと推察する。
こういう人物が中国の主流というのなら、近隣諸国に好感を持たれる大国になれるはずがないと、読む程に不愉快になった。これから中国は、軍事、経済、文化にわたる全ての面で米国を抜き、世界一になる。中国より弱い日本は、早くこの状況を理解し、中国を競争相手と見ることを止めなくてならないなどと、鼻持ちならない論調で終始する。
インタビューをした朝日の加藤編集員は、この高慢ちきな人物を、ひたすら賞賛するのだから呆れてしまう。中国の古代思想を、現代中国のパワーに結びつけようとする懐の深さがあるとか、大国意識の底の深さを感じさせるとか、どこからそんな主張が生まれるのか、愚かしい記事だ。
先日読んだ朝日のコラムでは、別の記者が愛国心について書いていた。
「自分の国を愛するのは自然なことであるが、隣の中国は嫌いだと言うのでは、排他的愛国心であり、そんなものは愛国心ではない。」そういう意味だったと記憶するが、今回のインタビュー記事同様、不快な印象を私に与えた。
朝日新聞の記者は、中国と日本の記事を書く場合、いつも中国に寄り添った論調で語り、自分の国は、そこいらの石ころみたいな扱いをする。何が彼らをそうさせるのか、理解に苦しむが、最近は、いつも朝日新聞の購読中止を考える。
愛国心についていえば、自分が自分の国を愛するように、他国の人間も自国を愛するのだ、という認識から出発する。自分を大切にする個人主義が、他人も同様に自分を大切している、と言う認識から出発するのと同じことで、自分だけを愛するというのなら、それは個人主義でなく、利己主義という。自分の国だけ偏愛することを、愛国心と言わないことくらい、中・高校生にだって分かっている、イロハでないか。
それなのに、わざわざ朝日の記者は、中国を嫌悪する日本人に警告を発する。嫌悪するには、するだけの理由があるというのに、記者たちはどれだけ自分の国の人間を低くみているというのか。それとも朝日新聞には、日本人の記者がおらず、どこか別の国の人間が、記事を書いているのだろうかと。したくなくても邪推してしまう。
私は朝日新聞のように、石原慎太郎氏のすべて否定しないが、彼が「支那、支那」という非礼さには、不快を感じている。同じように、石原莞爾氏が、欧米人を「毛唐,毛唐」と言ったことにも、不快感を感じている。
こういうものはみんな、偏向した「愛国心」のなせる技で、世のためにはならないものだ。ここでわざわざ言わなくとも、たいていの日本人は、なるべく周辺に波風を立てず、穏やかに生きようと、中庸を好み和を好む。聖徳太子の時代以来、私たち日本人のDNAみたいになっている、心情なのだ。
暮れの押し詰まった今になり、こんな記事を読むことの不愉快さ。朝日新聞を手にし、私のように幻滅している人がいるのなら、その人物に会いたい気がする。そして問うてみたい。「なんで貴方は、そんなにしてまで朝日を読むのですか。」と。
自分の気持ちについては、今日はもう、とてもそんな時間がないから書かない。来年の課題にすることにし、むしゃくしゃしながら終わろう。