今日は、心が沈む日だ。
どんよりとした、曇り日のせいだけでなく、もの倦くてならない。最近時々こうなる。中学生だったか、高校生の時だったか、もう忘れてしまったが、年を重ね、老人になるに従い人は枯れ、人格円満になると本で読んだ。
ずいぶん若い頃から、変な奴だと笑われそうだが、いつか穏やかな老人になれるという事実が、心の片隅で、希望みたいな位置を占めていた。ところが、いざ自分が年をとってみると、どうもそうでないような思いがしてきた。
六十の半ばを過ぎたというのに、この私は、いっこうに枯れもせず、人格円満にも近づかず、年ごとに癇癪持ちになり、短気になっていくような気が・・でなく、実際にそうなっている。
会社に行っている頃は、仕事が忙しく、顔を合わせる時間が、短かったせいもあるのだろうが、家内に声を荒げることなど、( もしかすると、思い違いだったかも知れないが )無かったのではないかと、思っている。
愛妻家だと自分で思ってきたし、妻と子供を大切にしてきたと、自負しているだけに、現在の自分に、驚きと失望を感じる。身近にいる家族を思いやれない人間が、なんで愛とか正義とか、いっぱし語れるのか、なんで世間について、意見を言う資格があるのかと、最近そう思ってきただけに、ブログの「きまぐれ手帳」で、分かったようなことを述べている自分に、愛想が尽きてくる。
とは言いながら、「気まぐれ手帳」をやめる気はないのだが、気分がすぐれないのだけは、いかんともしがたい。
まったく自分は、些細なことで、家内を怒鳴ったり、へそを曲げたりしているのだ。
例えば、
1. 話しかけているのに、返事が即座にない場合。
2. 話しているそばから、何度も聞き返されるとき。
3. 軽い気持ちで尋ねたのに、それはこの前も説明したと言われるとき。
と、まあ、こんな具合で、一日に何度か癇癪を起こしている。この頃では、家内の方が気配を察し、怒鳴り声になる前に、妥協してくれるようになったので、それがまた心の傷みとなる。自分は、何と言う度量の狭い人間になり果てたのか・・と。
救いがあるとすれば、最近になり、突然心の狭い人間になった訳でなく、もともとずっとそういう人間だったと、自覚できたことだろうか。「雀百まで踊り忘れず」の言葉どおり、自我に目覚めて以来、学校時代はいうまでもなく、会社にいた頃だって、人格円満には生きられなかった自分だ。
右だったか左だったか、キリスト様の教えは、片方の頬を打たれたら、もう一方も差し出せと、愛と犠牲の精神を説かれている。
イスラム教徒でもないのに、むしろ私は、「目には目を、歯には歯を」の生き方で、日々を過ごしてきたような気がする。いじめられても、泣き寝入りや自殺なんかせず、同じ方法でお返しをする。
体力に勝る相手だとしても、しゃにむに挑んでいく。やられたらやり返す。やられなければ何もしない。日々はまさに、生きるための闘争のように、緊張感に満ちていた。だからこそ、私は若い時から、老年の穏やかさに憧れてきたのかもしれない。
会社を円満に定年退職したからといって、自分のような人間が、春の海のように穏やかな老人に、突然変貌できるなど、あり得るはずがないのだ。それこそが、常識というものでないか。
テレビやを新聞など見ていても、七十代の老人たちが、近隣の人間と争い、相手を刺したり殺したり、果ては老人ホームで、恋のもつれから他人を殺傷したりと、とんでもない事件が報道されている。
七十代になっても、人間がそんなことをするというのなら、人はいつになったら、穏やかな素晴らしい老人になれるのか。残り少なくなりつつある人生だというのに、生きる希望すら、消されてしまいそうになる。
村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん
年は取ってもお船をこぐときは 元気一杯櫓がしなる
小学生の頃だったと思うが、確かにこんな歌を、学校で習った。当時は誰もが、六十代を老人だと思い、お爺さんと認めていたのだが、今ではいったい誰がそんなことを信じるというのか。
歌はいつの間にか、教科書から消え去り、世間からも忘れられてしまった。毎日何気なく生きてきたが、この歌を思い出すと、確かに、時代が大きく変わったのだと、知らされる。
忌々しいのは、流れに便乗した厚生省の役人どもが、目敏く、年金の受給年齢まで変えてしまったことだ。お爺さんでもない、六十才からの支給など考えられない、と言わんばかりに、六十五からに引き下げというのか、引き揚げというのか、やってくれた。
お陰で定年退職後に、満額年金のない私は、よけいな苦労をさせられてしまった。( 腹立たしさのあまり、またしても、本論から外れつつあるので、年金について言うのは、もう止めよう )
要するに、ここで断言できることは、何歳からを老人と言うのか、分からなくなった時代に、自分が生きているということだ。八十か、九十にならないと、老人と言われない時になっているのだろうか。
いつになれば、憧れの老人になれるのかなど、ここまでくると、もう考えるのが面倒になってきた。書き続ける根気もなくなってきたから、結論無しで、今日は止めよう。