超短編小説 19
下り坂
御殿山公園の登り口。あれ、こんなところに脇道がある。桜の古木の影でふだんであればみえない。夕日が射し込んでいるので、そこに緑のトンネルのような狭い道の入り口があるのに気づいたのだ。
すでに陽がさしていない。一人がやっと通れるくらいの小道。藻太は好奇心にかられて足をふみいれた。初夏だというのに、ヒンヤリとした冷気。背筋がゾクッとした。
かなり急こう配の下り坂。
むこうから登ってくる人影。
歩むにつれてそれが女の人だとわかった。
月明りには早すぎる。
でも彼女の周囲がほのかにあかるい。
薄手のサマーコート。金色に光っている。
みるまにちかよってくる。
いやぼくが吸い寄せられていくのだ。
どうしよう。
すれ違うことはできない。
道がせますぎる。
こうするのよ。
澄んだ声が耳元にひびいた。
彼女が藻太に抱きついて――顔をよせて、キスをしてきた。
そのままからだを半回転させて入れ替わった。
「あなたのくるのをまっていたのよ。わたしから逃げられるかしら……」
この日をわたしは待ちつづけていたのよ。
藻太は彼女を愛撫していた。
なんというなめらかな、それでいてしっとりと潤いのある肌だろう。
「藻太のこと好きよ。愛している。いつまでも、いつまでも忘れない」
どうしてぼくの名前を知っているのだ。
「わたしを受胎させてくれる藻太。ながいこと、待っていたのよ」
藻太はとぼとぼと坂道を下っていた。
膝ががくがくする。老いたものだ。
イメージのなかのじぶんが若い女を抱いている。
同じこの道だ。ここにはあれ以来、足を踏み入れたことはない。
もっとも、そうしようとしても、入り口がみつからなかったのだ。
それがどうして、今になって――。
「お帰りなさい」
彼女が微笑んでいる。
「どうしてもっと早くもどってこなかったの。ここにきて名前を呼べば、いつでも会えたのに。そのために、名前を教えてあげたのに」
ところが、藻太はその名前を忘れていた。
最初からあまり異様な体験だったので、覚えられなかったのかもしれない。
作家になることを志して上京した。
失敗だらけの人生だった。
思うようにいかないときは原点に戻る。
なんどか里にはもどって来たのだが――。
ここの道も探したのだがみつからなかった。
源流を遡って、最初の一滴から、基礎から勉強をしなおす。
それでも芽がでなかった。
細い支流となりほかの支流とあわさってメインストリームとなる。
そんなことはおきなかった。さいごまで、三文文士でいる。
「いつでも会えたのに。こどもたちも大きくなったわよ」
彼女の指さすほうから男の子と女の子が走ってくる。幼稚園児くらいだ。
そんな馬鹿な。藻太が彼女にあったのは半世紀以上も昔だ。
「わたしたちの住む場所は時間がゆっくりとながれているの……。わたしが藻太にあったのはついこのあいだのことなのよ」
そうか、これが浦島効果ということなのだろう。
竜宮城で過ごしたのはほんとうに短い時間だったが、戻ってみると知っている人たちはみんないなくなっていた。
いまからでも、彼女についていけば、時間がゆっくりと流れ、まだまだ小説を書く時間はありあまるほどある。
そうかんがえると、うれしくて涙がほほをつたって落ちてきた。
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御殿山公園の登り口。あれ、こんなところに脇道がある。桜の古木の影でふだんであればみえない。夕日が射し込んでいるので、そこに緑のトンネルのような狭い道の入り口があるのに気づいたのだ。
すでに陽がさしていない。一人がやっと通れるくらいの小道。藻太は好奇心にかられて足をふみいれた。初夏だというのに、ヒンヤリとした冷気。背筋がゾクッとした。
かなり急こう配の下り坂。
むこうから登ってくる人影。
歩むにつれてそれが女の人だとわかった。
月明りには早すぎる。
でも彼女の周囲がほのかにあかるい。
薄手のサマーコート。金色に光っている。
みるまにちかよってくる。
いやぼくが吸い寄せられていくのだ。
どうしよう。
すれ違うことはできない。
道がせますぎる。
こうするのよ。
澄んだ声が耳元にひびいた。
彼女が藻太に抱きついて――顔をよせて、キスをしてきた。
そのままからだを半回転させて入れ替わった。
「あなたのくるのをまっていたのよ。わたしから逃げられるかしら……」
この日をわたしは待ちつづけていたのよ。
藻太は彼女を愛撫していた。
なんというなめらかな、それでいてしっとりと潤いのある肌だろう。
「藻太のこと好きよ。愛している。いつまでも、いつまでも忘れない」
どうしてぼくの名前を知っているのだ。
「わたしを受胎させてくれる藻太。ながいこと、待っていたのよ」
藻太はとぼとぼと坂道を下っていた。
膝ががくがくする。老いたものだ。
イメージのなかのじぶんが若い女を抱いている。
同じこの道だ。ここにはあれ以来、足を踏み入れたことはない。
もっとも、そうしようとしても、入り口がみつからなかったのだ。
それがどうして、今になって――。
「お帰りなさい」
彼女が微笑んでいる。
「どうしてもっと早くもどってこなかったの。ここにきて名前を呼べば、いつでも会えたのに。そのために、名前を教えてあげたのに」
ところが、藻太はその名前を忘れていた。
最初からあまり異様な体験だったので、覚えられなかったのかもしれない。
作家になることを志して上京した。
失敗だらけの人生だった。
思うようにいかないときは原点に戻る。
なんどか里にはもどって来たのだが――。
ここの道も探したのだがみつからなかった。
源流を遡って、最初の一滴から、基礎から勉強をしなおす。
それでも芽がでなかった。
細い支流となりほかの支流とあわさってメインストリームとなる。
そんなことはおきなかった。さいごまで、三文文士でいる。
「いつでも会えたのに。こどもたちも大きくなったわよ」
彼女の指さすほうから男の子と女の子が走ってくる。幼稚園児くらいだ。
そんな馬鹿な。藻太が彼女にあったのは半世紀以上も昔だ。
「わたしたちの住む場所は時間がゆっくりとながれているの……。わたしが藻太にあったのはついこのあいだのことなのよ」
そうか、これが浦島効果ということなのだろう。
竜宮城で過ごしたのはほんとうに短い時間だったが、戻ってみると知っている人たちはみんないなくなっていた。
いまからでも、彼女についていけば、時間がゆっくりと流れ、まだまだ小説を書く時間はありあまるほどある。
そうかんがえると、うれしくて涙がほほをつたって落ちてきた。
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