4
白い列柱の影に隠れた。
父はいつになっても現れなかった。
口汚くぼくをののしった。どんなことがあっても手術はいやだ。こみあげてくる嗚咽と手術への恐怖を覚られまいとして、父は病院のベランダを歩きだした。そして、不意に柱の影に姿を消したのだった。
父がこのまま現れなければ。不遜な感情がこみあげてきた。
愛情どころか、嫌悪感すべき父のために、ぼくらの生活が壊される。
憎しみを抑制することはできなかった。
つゆ時の、よどんだ空気がぼくの気持ちを陰鬱で重苦しいものにしていた。
打擲された記憶はあっても、やさしい言葉をかけられた記憶はなかつた。
酒がはいると乱れははげしくなった。
つゆの小糠雨がけぶるように降っていた。
近所の宝蔵寺の墓地に逃げ込んだ。
ぼくと母はしっとりと湿った墓石の影に隠れていた。
父があきらめて家にひきかえすのを待っていた。
母の手が冷たかった。屈辱と悲しみの涙が頬をつたっていた。
幼いぼくは母が泣いているのだとは気づかなかった。
髪をつたって雨水が頬におちているのだと思っていた。
泣いているの……?
どうして泣いているの。
息をころして小声で訊いた。
母の手がぼくの口をふさいだ。
湿った空気のなかから、酒臭いにおいが漂ってきた。
父がげっぷをする音がかすかにした。父が間近に迫ってきた。
疑いもなく母が父を恐れている。
ぼくのからだは小刻みに震え、それはしばらくつづいていた。
ぼくは眼を閉じて、なにもみていなかった。
酒臭い父の呼気が遠のいていく。
眼をひらいても、もう、なにも見ないことにした。
なにも見ていないぼくの視野を狂乱した父が、安定感を欠いた歩調で遠ざかっていく。
顔だけがゆらめき膨張した。
酒焼けした顔は忿怒にたけりぼくは危害を予感して、泡立つ怖れに身動きできなくなっていた。
昏く重いつゆ空からは大粒となった雨が降りそそぎ、蘚苔植物の密生した墓地の大地はぐしょり濡れて……展翅された昆虫のようにぼくらは動くこともできず、墓石にはりついていた。
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口汚くぼくをののしった。どんなことがあっても手術はいやだ。こみあげてくる嗚咽と手術への恐怖を覚られまいとして、父は病院のベランダを歩きだした。そして、不意に柱の影に姿を消したのだった。
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愛情どころか、嫌悪感すべき父のために、ぼくらの生活が壊される。
憎しみを抑制することはできなかった。
つゆ時の、よどんだ空気がぼくの気持ちを陰鬱で重苦しいものにしていた。
打擲された記憶はあっても、やさしい言葉をかけられた記憶はなかつた。
酒がはいると乱れははげしくなった。
つゆの小糠雨がけぶるように降っていた。
近所の宝蔵寺の墓地に逃げ込んだ。
ぼくと母はしっとりと湿った墓石の影に隠れていた。
父があきらめて家にひきかえすのを待っていた。
母の手が冷たかった。屈辱と悲しみの涙が頬をつたっていた。
幼いぼくは母が泣いているのだとは気づかなかった。
髪をつたって雨水が頬におちているのだと思っていた。
泣いているの……?
どうして泣いているの。
息をころして小声で訊いた。
母の手がぼくの口をふさいだ。
湿った空気のなかから、酒臭いにおいが漂ってきた。
父がげっぷをする音がかすかにした。父が間近に迫ってきた。
疑いもなく母が父を恐れている。
ぼくのからだは小刻みに震え、それはしばらくつづいていた。
ぼくは眼を閉じて、なにもみていなかった。
酒臭い父の呼気が遠のいていく。
眼をひらいても、もう、なにも見ないことにした。
なにも見ていないぼくの視野を狂乱した父が、安定感を欠いた歩調で遠ざかっていく。
顔だけがゆらめき膨張した。
酒焼けした顔は忿怒にたけりぼくは危害を予感して、泡立つ怖れに身動きできなくなっていた。
昏く重いつゆ空からは大粒となった雨が降りそそぎ、蘚苔植物の密生した墓地の大地はぐしょり濡れて……展翅された昆虫のようにぼくらは動くこともできず、墓石にはりついていた。
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