古き良き時代のカレーライスの思い出です。
幻のカレーライス
1
二階の照明の輝度をおとす
巨大なピクチャー・ウインドウの彼方
雪の日光連峰は夜の果てに霞む
眼下の晃望台の街は人影がとだえた
満目蕭条
ときおり野獣の眼光を光らして車が通る
ただそれだけで
今日も無事
なんとなく終わる
階下の客の声もまばらになる
レジスターの音もとだえがちだ
ひとり窓に孤影を映す
もう「ソラリス」もネオンをおとす時刻
厨房に降りて
川澄さんにカレーライスを御馳走になるかな
冬の夜
閉店まぎわのじぶんの店で
太っちよ中年がカレーライスをすする
さまにならないんだなぁ
いまは昔
四分の一世紀もたっちまったけど
日比谷の有楽座の前に
ニュートウキョウってレストランがあった
カレーライスがうまいので
友だちとよくでかていった
コーヒーが五十円くらい
カレーライスは百円だったかな
一か月働いて四千円の時代
ぼくら芸術家のエッグにはたいへんな金額だった
絵描きの玉子
詩人の玉子
役者の玉子
小説家の玉子
上手く孵化したところで金ぴかに輝く
世界に生きられるわけではなかった
夢二の世界からぬけだしたようなウエトレスが
ひっそりと近寄ってきて
しなやかな
ひかえめな
しぐさで
給仕をしてくれた
あのカレーの舌触り
その後味はすばらしかった
余韻のようにいまもひびいている
2
あるときゲルピンで街にでた
いつもの店のまえに立っていた
カレーライスをたべたい
ふつかもろくなものをたべていない
店のショーウインドウを
眺めていたら
真っ赤なコートを着た
いつものウエトレスがでてきた
「わたしがごちそうするわ」
話を交わしたのはそれがはじめて
「めぐんでもらうようでわるいから」
「失礼ですがいくらあるの」
「五十円」
卓についていると
大盛のライスのわきに福神漬けをたっぷりとのせ
カレーライスがはこばれてきた
「わたし急ぐのでどうぞごゆっくり」
ひとりぼっちの食卓でカレーをたべていたら
仲間がどやどややってきた
「泣いているのかおまえ」
「ああカレーが目にしみた」
かれらは笑った
彼女にとってあれが最後の給仕だった
翌日五十円返してまたカレーをたべようと
店にいった
彼女は故郷にかえったという
雪深い新潟の故郷で
彼女を待つのは誰だろう
3
あの日あの時のことを日記につけた
「この日の彼女のことを小説を書こう」
彼女は、なぜ故郷にかえったのか
彼女を待っている男がいたのだろうか
いまだに彼女はぼくの小説にはあらわれない
ぼくはいたずらに肥厚しレストランのマスター
川澄さんの激辛のカレーライスをたべても
涙はうかんでこない
今日もぶじ
なにごともなく閉店することができた
なにもおこらなかった
それを幸せとする歳になっている
二階の照明を消して
階下への
階段を下りよう
完
麻屋与志夫の小説は下記のカクヨムのサイトで読むことができます。どうぞご訪問ください。
ブログで未完の作品は、カクヨムサイトで完成しています。
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幻のカレーライス
1
二階の照明の輝度をおとす
巨大なピクチャー・ウインドウの彼方
雪の日光連峰は夜の果てに霞む
眼下の晃望台の街は人影がとだえた
満目蕭条
ときおり野獣の眼光を光らして車が通る
ただそれだけで
今日も無事
なんとなく終わる
階下の客の声もまばらになる
レジスターの音もとだえがちだ
ひとり窓に孤影を映す
もう「ソラリス」もネオンをおとす時刻
厨房に降りて
川澄さんにカレーライスを御馳走になるかな
冬の夜
閉店まぎわのじぶんの店で
太っちよ中年がカレーライスをすする
さまにならないんだなぁ
いまは昔
四分の一世紀もたっちまったけど
日比谷の有楽座の前に
ニュートウキョウってレストランがあった
カレーライスがうまいので
友だちとよくでかていった
コーヒーが五十円くらい
カレーライスは百円だったかな
一か月働いて四千円の時代
ぼくら芸術家のエッグにはたいへんな金額だった
絵描きの玉子
詩人の玉子
役者の玉子
小説家の玉子
上手く孵化したところで金ぴかに輝く
世界に生きられるわけではなかった
夢二の世界からぬけだしたようなウエトレスが
ひっそりと近寄ってきて
しなやかな
ひかえめな
しぐさで
給仕をしてくれた
あのカレーの舌触り
その後味はすばらしかった
余韻のようにいまもひびいている
2
あるときゲルピンで街にでた
いつもの店のまえに立っていた
カレーライスをたべたい
ふつかもろくなものをたべていない
店のショーウインドウを
眺めていたら
真っ赤なコートを着た
いつものウエトレスがでてきた
「わたしがごちそうするわ」
話を交わしたのはそれがはじめて
「めぐんでもらうようでわるいから」
「失礼ですがいくらあるの」
「五十円」
卓についていると
大盛のライスのわきに福神漬けをたっぷりとのせ
カレーライスがはこばれてきた
「わたし急ぐのでどうぞごゆっくり」
ひとりぼっちの食卓でカレーをたべていたら
仲間がどやどややってきた
「泣いているのかおまえ」
「ああカレーが目にしみた」
かれらは笑った
彼女にとってあれが最後の給仕だった
翌日五十円返してまたカレーをたべようと
店にいった
彼女は故郷にかえったという
雪深い新潟の故郷で
彼女を待つのは誰だろう
3
あの日あの時のことを日記につけた
「この日の彼女のことを小説を書こう」
彼女は、なぜ故郷にかえったのか
彼女を待っている男がいたのだろうか
いまだに彼女はぼくの小説にはあらわれない
ぼくはいたずらに肥厚しレストランのマスター
川澄さんの激辛のカレーライスをたべても
涙はうかんでこない
今日もぶじ
なにごともなく閉店することができた
なにもおこらなかった
それを幸せとする歳になっている
二階の照明を消して
階下への
階段を下りよう
完
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