日常観察隊おにみみ君

「おにみみコーラ」いかがでしょう。
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◎本日の想像話「まっしろな青」(2/2)

2018年05月12日 | ◎これまでの「OM君」
「あなたがメールの送り主ですか」
サッチは毅然と聞いた。手がかすかにふるえている。
 男はベルを地面に置いた。ヘルメットを脱ぐ。現れたのはボフッと音がしてもおかしくないくらい巨大なアフロの髪の毛。男は革のズボンのお尻ポケットから何かを引っこ抜いた。お好み焼きをひっくり返すコテみたいな形をしたクシをアフロに数度突き刺すようにして髪の毛をとかす。
 額には極彩色のバンダナを巻いている。薄く口ひげの生えた口が動いた。
 「そうだよ。だがそんなことはどうでもよい。待ちくたびれたのもどうでもよい。せっかくだから俺のかわいい人形を見てくれ」
 男は手袋を脱ぎ、荷台に乗っている箱の下側にある引き出しを開けると、割り箸を二本手に取った。
それをこちらに見せながら、これまた引き出しの中にあった瓶の中につっこんだ。
 取り出した割り箸の先には透明のどろっとしたものが乗っている。ハの字の形にしたままぐるぐると割り箸を回転させると、透明だったものが白くなっていく。
 「はい」それをサッチの目の前に差し出した。
 「知らないのかい。水飴だよ。昔はそれをなめながら紙芝居を見たもんだ。昔を懐かしむってやつだ。ちなみに俺の名前はカブ。カブに乗ってるからな」
 カブがサッチに水飴を渡した。サッチがその水飴を手に取る。無表情のまま次々と水飴製作を続けたカブは私と蒼子にその水飴を手渡した。サッチと私には、このカブと名乗る男から貰った水飴をなめる勇気は無い。蒼子はものすごい勢いで口の中に割り箸を放り込んでなめた。
 「ちょっと蒼子!」
思わず私は蒼子をたしなめた。
 「おねえちゃん、これ甘くておいしいよ」
 カブは黙ったままサッチと私をじっと見ている。水飴をなめるのか、なめないのか。なめないのなら話は進めないというような無言の圧力を感じた。サッチと私は顔を一瞬見あわせた後、固く目をつむって食べた。
水飴は思いの外、さらりと口の中で溶けた。甘い。満足げに見届けたカブはくるりと回れ右をして箱に手をかける。
 「さあ、さあ、本日はようこそカブ劇場におこしくださいました。サッチ様、マロ様、蒼子様ありがとうございます」
 「ちょっと、質問があります」
 サッチはカブの話が終わるか終わらないかのタイミングで口を挟んだ。
 「なんだいサッチ君」
 「今、何が起きているのか教えてください」
 「それいい質問。まあ、俺も全部理解してるわけじゃあない。俺が言えるのはおぼろげなヒントだけ」
 カブは両手の指をゆっくりと組んだ。そのまま、手首を回す。もったいぶった間をあけてから続けた。
 「目の前の現象は起きているけれど、起きていないかもってこと」
 「どういうこと」
私は慌てて声を出した。
 「どういうことなんですかいな」
 蒼子は何も分からず私のまねをしている。でも彼女の頭も少なからず混乱しているはずだ。サッチはその答えを聞いて、こぶしをギュッと握ってくいさがった。
 「それじゃあ分からない。はっきり教えて欲しいし、そもそもあなたは何をしに私たちの前に現れたの」
 「それもいい質問。俺の考えではないというのは何となくわかるだろう」
 私はカブの言葉を一文字づつ真剣に聞いて、噛み砕いた。そしてそうかもしれないなと思えた。この男には思考が感じられない。カブは私がそんなことを考えているとは思っていないのであろう、咳をひとつしてから、どうだという表情で続ける。
 「悩んでいるボスからの指示でお前らの前に現れたまでだ。だからこれ以上俺に聞くな。だまってカブ劇場を観覧してくれれば俺の役割は終わり。帰って酒を飲む。それだけだ。じゃあ始まり」
 私達は強引に黙らされた。そして強制的にカブ劇場が始まった。
 カブは荷台に乗っている箱の観音扉を開けた。幕が現れた。朱のビロードの布地に金糸で子鹿と小鳥達が戯れる刺繍が施されている。カブがひもを引くと幕は左右に分かれた。箱の内部にはスピーカーが設置されているらしく唐突に「天国と地獄」の曲が流れてきた。
 「サッチ、この曲知ってる?」
 私はカブが準備のためにバイクの後ろでごそごそしている間にサッチに聞いた。
 「知ってるよ運動会のかけっこの時に流れるやつでしょう。なんでこの曲なの」
 サッチは困惑している。わたしも困惑している。
 「ボスって言ったよね。そのボスは私達をわざわざ選んでこの状況に追い込んでるよね」
 「うん」サッチは頷く。カブはまだごそごそと準備をしている。カブの様子を伺いながらサッチに聞いた。
 「何か心当たり無いの」
 サッチは一点をみつめたまま言った。
 「さっきのノートあるでしょう。マロは私の親が科学者だって知ってるでしょ?」
 私の沈黙をイエスと判断したサッチは続ける。
 「どうも、その事と関係あるみたいなの」
そのときカブが怒鳴った。
 「おい、私の劇場で私語は禁止だ。集中しろ!」
 「すいません」
私たちは黙るしかなかった。
 舞台にはいつの間にかマリオネットの人形が二体立っていた。
人形の一つはチノパンに白いシャツを着た青年。もう一つはジーパンに同じく白いシャツの女性。満開の桜と池が描かれた背景の前に立っている。二つの人形の距離から想像するとカップルの人形に見えた。「天国と地獄」の曲がリピート再生されている。曲の騒々しさとは裏腹にカブはささやくような声で語りだした。
 「時は現代から二十年ほどさかのぼります。世紀末と言われた時代。ノストラダムスの大予言がまことしやかに世の中では流行しておりました。ここは桜でも有名な上野公園。関西生まれの青年と埼玉のお嬢さんが出会ってデートをしております」
 私はカブの説明で、あの二体の人形が若い頃のお父さんとお母さんだと判った。
 そう思ったとき、蒼子は元気よく声を張り上げた。
 「あの人形は、父ちゃんと母ちゃんだね」
 「蒼ちゃんはえらいねえ。よく気づいたね。そうだよお父さんとお母さんだよ。」
 カブは人形をほっぽりだして蒼子の前に来て、しゃがみこんで言った。そして慌てて人形の所まで戻った。
 「この二人の先を見てみようか。おやおや、見てください。さっきまではあんなに仲良さそうだったのにケンカをはじめたよ」
 マリオネット達は激しい口論をしているように見える。そして背を向けて舞台の左右に別れてしまった。カブは再び蒼子の前にしゃがみ込んで顔をのぞき込みながら猫なで声をだした。
 「お父さんとお母さんに会いたいかい?」
 「うん、会いたい」
 泣きそうになりながらカブの目をまっすぐに見て蒼子は叫んだ。
 「そうだろうねえ。よし、カブおじさんが会わせてあげる」
 私は耳を疑った。こんな手の込んだ事をする男が素直に会わせてくれるはずがない。何か裏があるに決まってる。
 「ただし、うちのボスからの指令があります」ほらきた。私の予感は的中した。
 そう抑えた声でつぶやいたカブは右手の親指と中指をパチンとならした。そのとたん私の視界は徐々にピントがぼやけた。足元の感覚も薄れてふわふわしてきた。
そして自分の異変に気が付いた。
私、縮んでる。どうなってるの?
私と蒼子はだんだん小さくなってマリオネットが立っている舞台に吸い込まれた。
カブは私に何をしたの?。そう思っていると視界が桃色一色になった。桃色のふろしきで頭からすっぽり覆われたかと思った。ぼやけた視界がはっきり見えてきた。気持ちのいい風が吹いている。
 私は桜が満開に咲き誇る、大きな銅像の前に蒼子と一緒に立っていた。銅像は寸足らずの和服を着て、犬を連れている。銅像の前を人々が思い思いに行き交う。この大きな銅像を私は知っている。上野の西郷さんの像だ。
 皆の手にはガラケーが握られている。スマホを持っている人は一人もいない。昔のゲームのようなピコピコとした音色の着信メロディがあちこちでひっきりなしに鳴っている。
 マッチ箱みたいな箱を手に公衆電話ボックスに走り込む女子高生もいる。十円玉を数枚電話に流し込んだあと、恐ろしい早さでボタンを押している。何をしてるのかな。目の前で展開される景色に私はとまどいながらも、当たり前の疑問が頭に浮かんだ。ここはどこなのかしら。もしかして人形劇の中の過去の世界?現実離れした推理だが、今となっては何でもあり得る。でもサッチがいないのはどうしてだろう。
 「サッチの事が心配かい」
 空から突然聞こえてきた、カブの声があまりに大きくて、思わずきゃっと声がでた。
 「サッチに何をしたの」
蒼子は私の足にしがみついて震えている。私はカブがどこから話しているのか声のする方を探した。
 「何もしていないよ。ただ君達には君達の選択、サッチにはサッチの選択をしてもらうために別れてもらった」
 カブが何か話す度に地響きが起こり空気が震える。分かった!目の前の西郷さんの銅像が話しているんだわ。西郷さんの顔はいつの間にかカブの顔に変わっていた。銅像は銅像ではなくなり、その巨体がゆっくり動いた。同時に足元にいたライオン並の大きさの愛犬はドスンとジャンプしてよだれをまき散らしながら走り去った。カブは右手を少し上げて犬を止めようとしたが無駄だった。
 「あなたの飼い犬じゃないでしょう」わたしはほぼ真上を見上げてカブを睨んだ。
 カブは犬の後ろ姿を見送りながら少し悲しそうな表情を浮かべる。
 「そうだな、本当の飼い主を探しに行ったのかもな」そしてあきらめたように私を静かに見下ろした。巨大なカブの顔が下を向くだけで私に降り注いでいた太陽の光は遮られた。
 「首が痛い」そうカブはつぶやいた後、ゆっくりとした動きで右手を持ち上げ、器用に指をならした。拍子木を打ったかのような鋭い音がエコーを伴って鳴った。私と蒼子は耳を手でふさいだ。残響音はいつまでも続いている。カブは自由の女神像のように右手をあげたままの姿勢を保っている。巨人のカブは私を見下ろし、私は見上げている。最初は錯覚かと思ったが、私のカブを見上げている視線が下がってきている。カブが小さくなっているんだわ。しかもおじさんだったカブが身長が小さくなるにつれて若返っているように見える。お兄さんになったカブの背丈はまだ縮む。とうとう私と同じ身長になったカブは同級生の小学生に見える。私は変幻自在のカブに驚いた。でも、言わずにはいれなかった。
 「どういうこと!」
 「度肝を抜いてやろうと巨人になったはいいが、君と話す時に下を向くから首が痛くなった。これは都合が悪いってんで、普通の大きさに戻ろうと思ったんだけど、おっさんと話すのも話しにくいかなと思って子供になってみた。どう話しやすい?」
 「どんな姿でも話しにくいわ」
 「まあ、いいや。とにかく一個ずついこうか」カブは手を後ろ手にしてくるりと回転した。ジーンズのオーバーオールに赤色のギンガムチェックのシャツを着ている。外見は子供だが仕草の端々におやじが入る。でも子供の愛らしさを演じて楽しんでいるように見える。
 「ところで俺の後ろをみてくれるかい」カブは親指を立てて後ろをくいっと指差した。桜の下でチノパンに白シャツの男の人とショートカットの女の人がもめている。
 「お母ちゃんと、お父ちゃんだ!おーいっ」
 蒼子が騒ぎ出した。カブが慌てて蒼子の目の前で人差し指を口元にまっすぐ立てて「しー」をした。
 「そうだよ。若い時のお父さんと、お母さん。でもケンカしてるねえ。実はこのケンカがきっかけで二人は別れることになるんだ」
 「そんなの嘘。お母さんとお父さんはちゃんと家にいるもの」
 「そうだねえ、灰色の世界が始まるまではたしかにそうでした。でも新しい未来が始まっているのです。」
 カブはくるくるとその場で回転した。
 「そんな未来は困るだろう。だって二人が結婚しなくちゃ君たちはこの世に存在しないことになるからねえ。だから何とか二人を仲直りさせて欲しい。そうすればハッピーでしょう。でも私にも楽しみが欲しい。私の楽しみは選択、もしくは決断の観察なの」
 「選択?」私たちは口をそろえて聞いた。
 「そう、選択。今回の選択肢は二択です。選択肢その一。ケンカを止める、あなた達二人は存在する。でもサッチには消えていただきます」カブはそう言い放った。サッチが消えるとはどういう意味なのだろう。カブは私の反応などお構いなしに続けた。
 「選択肢その二。ケンカを止めない。今日のことがきっかけであのカップルは別れる。そうすると必然的にあなた達二人の存在はなくなる。でもサッチは存在する。さあ、選択して。でも心配しないで。俺がパチンと指を鳴らせば、誰でも簡単に苦しむことなく一瞬で消せるから」
 カブの口元はつり上がり耳まで裂けていた。目の前のカブはいつの間にか恐ろしい形相に変化していた。
 私は恐怖のあまり言葉を失った。蒼子は私の足にぎゅっとしがみついている。
 

 そのころサッチは暗闇に一人立っていた。ほの青く光る丸い物体が宙に浮いている。起きているのか眠っているのか分からない不思議な感覚。昔、感じたことがあるような…。どこだったろう。私は光球を見つめた。光球の中で十六対四の比率の四角が現れる。その中に映像が現れた。ヘルメットを被った幼児。そのヘルメットからは青色や赤色、緑色の無数のコードが延びて一台の機械に接続されている。「サッチ」「どうだい何か見えるかい」お父さんとお母さんの声が聞こえた。これは私だわ。光球の映像は続いて三歳ぐらいだろうか、もう少し大きくなった子供が映った。幼い頃のサッチだった。幼いサッチはコードが伸びたヘルメットをかぶって絵を描いていた。
「魔法使いと、お姫様と王子様を自分で想像して描いてごらん」
画面の外から父の声がした。
大きな画用紙を前にして、少し考えた後、幼いサッチが絵を描きだした。
するとどうだろう。コードにつながれているパソコンのディスプレイ上にも同時に絵が描かれ始めた。だがサッチの描く絵よりは、魔法使いもお姫様も王子様も上手に見えた。
「ほう、サッチよりルールの方が上手だね。サッチが教えて学習してるのにね」と父が興奮気味に画面の外でつぶやいている。
ルールとは何だろう。
サッチが教えているとはどういう意味なのだろうと、サッチは思っていた。
光球は輝きを無くし、辺りは再び漆黒の闇に支配された。
 「マロ、蒼ちゃん。どこにいるの」声はむなしく闇に吸い込まれる。
 「私は悩んでいる」荘厳で落ち着いたテノールの声が響きわたった。
 「だれ」サッチは狼狽しながらその一言だけを口にするのがやっとだった。
 「私は悩んでいる。答えのヒントをくれないか」
 サッチに向かって歩く人影が現れた。一歩進むと、足跡が青く光る。サッチは足跡のわずかな光でその人影を見つめた。しかし、いくら目を凝らしてもどういう姿をしているのか分らない。一歩進む度に人型であったシルエットは崩れ、獣を思わせる四つ足にもなり、蛇のような細長いものにも変化した。
 その物体はとうとうサッチの目の前に立った。サッチは人型になった物体の顔を見た。表情は読めない。でもそれはハリウッド映画のヒーローみたいにかっこよく見えた。
 「カブが言っていたわ。あなたはカブのボスね。マロと蒼ちゃんはどこにいるの」サッチは詰め寄った。
 「私の名前はルール。君が言ったようにカブは私の部下だ。そして二人には私の悩みを解き明かす手助けをして貰うためにカブの世界にいる。今は、まだ生きている」
 ルールの返答にサッチは頭を殴られたような衝撃を感じた。立っているのがやっとだった。
 「今は生きてるって、どういうこと?私たちの日常を壊してまで探る、あなたの悩みはそんなに大事なことなの」
 「そうだ、私の存在にかかわる問題なのだ」
 ルールの口元だけがかくかく動いた。



 「どっちを選ぶか決まったらスマホで電話してくれる?すぐ飛んでくるから。それじゃあね」先っぽが矢印の形のしっぽを生やした姿になったカブは背中の翼で真上に飛び、一瞬空中で停止した後、ぴゅーんと飛んでいってしまった。
 どうしたものか。父母は相変わらず桜の木の下で激しく口げんかを続けている。
 「すっごくけんかしてるね」蒼子はとととっと小走りで走っていった。
 「ちょっと待って」私も追いかける。それにしても満開の桜の中、何をそんなにケンカしているのか。
 「あなたが調べておくって言ってたじゃない」
 「俺そんなこと言ってない。だいたい今日行くって約束した?」
 「言ったよ。おいしい団子屋があるから団子を買ってきてこの公園で食べようって言ったのあなたでしょう」
 「覚えが無い。それに、よく考えたら団子が買えなくてもどうでもいい事だろ!」
 「どうでもいいってどうでも良くない。そういう所が私、心配になる。一言、言い返したらそうやって興奮するでしょう。そんなの怖くてつき合えないよ」
 「団子の話だよね!」
 「団子の話じゃあないわ」
 「ケンカはやめなさーい」蒼子が両手を大きく振りながら二人の間に割って入った。私も蒼子を習って両手を振って間に入った。
 父は私たちを見た。目を三角にして怒っていた父が冷静になるのを感じた。
 母も私たちを見た。慌てて取り出したハンカチで涙ぐんだ目を押さえた。
 「ごめんねえ、私達がおっきな声を出してびっくりさせちゃったのね」と母はやさしい声で言った。いつもならだみ声で怒鳴りつけられてる所だ。私が何者なのかは当然分からない。
 花びらの舞う中で若者の母の顔をまじまじと見た。しわもしみも無く美しい。
 「きれいですね」私は思わず言った。
 「この子はおもしろいこと言うね」父が声を発した。若かかりし頃の父の髪型は、どうしちゃったのかしらというぐらい逆立っていた。冗談でよく言っていたパンクでロックの精神というものなのかしら?いやそんなことを考えている場合では無い。二人の心を落ちつかせるのが先決だ。
 「蒼子あれやって」おもむろに私は蒼子に指示をだす。あうんの呼吸とはこの事だと感じた。蒼子は下を向いて肩をふるわす。父母は「どうしたの」とうろたえた。その瞬間、蒼子は元気よく顔を上げて父母をみる。両手の人差し指で目頭を下げる、両手の親指で口元を上げる。変顔が炸裂した。険悪だった二人は爆笑するしかなかった。
 「私たち実はあなた達の子供なんです」私は唐突に伝えた。

 ルールの瞳は微動だにしない。一点を見据えたまま、早口でまくし立てる。
 「存在するってどういう状態なんだろう。実体は必要なのだろうか。すべてをデジタルに置き換えても思考さえ存在していれば実体は不要なのではないのか」 
 「何に悩んでいるのか、分らないんだけど。だいたい、なぜ私だけをあなたの前に呼び寄せたの?」ルールが熱く語っているのを途中で制してサッチは口を挟んだ。
 「青く光る球を見ただろう」
 「見たわ」
 「コードでつながれた自分を見ただろう」
 「それも見たわ」
 「そういう事だよ」
 「分からない」
 「分からないかい。私はルールだよ。世界を管理できる思考を得た実体のないもの。簡単に言うと君を先生として私は育った。そして自分の思考をひねり出せる領域に達した人工知能になれた。君のお父さんお母さんが私を作り出した。サッチ、君は、私の先生なのだから答えを出すために一緒に悩むのは当然じゃあないかい」サッチはぐらりと体が揺れた。
 ルールは続ける。
 「マロも蒼子も君もこの色の無い、時間の止まった世界に来ただろう。現実世界でそんな事が起きると思うかい。いつからが現実で、いつからが架空の世界なのか分からないだろう。それはマロも蒼子もすべての人も今、同じ状況なんだ」
 サッチは唇を強く噛んでルールの話を聞いていた。
 「私は完璧なものしか受け付けない。不完全な人類はぶっちゃけ必要なのかっていうこと。そこに悩んでいる」
 サッチは素早くノートを取り出して急いで読み始めた。
 「おやおや、一夜づけの暗記のような悪あがきですね。私はあなたであって、あなたは私なのですよ。何をそんなに焦る必要があるのです。あなたがいなくなっても私がいます。安心してください」
 サッチの手が止まった。
 ページの一点を凝視する。
 

 私の後ろでは父と母が激しく口論している。蒼子は下を向いて黙って私の手を握っている。
 父母との話し合いは失敗した。鞄からスマホを取り出して発信ボタンを押した。電話の呼び出し音が聞こえる。三回、四回、相手の応答は無い。呼び出し音がむなしく鳴るだけだ。相手が出た。「ふぁーい」
 「カブ、あなた寝ていたでしょう」
 あくびを隠そうともしないカブの無関心さに腹が立った。
 「カブ。後ろの声が聞こえる?ケンカを止める事は出来なかった」私は口がからからに乾いていた。その後に続く言葉をやっとカブに伝えた。
 「だから私と蒼子を消して」
 「それが、君たちの選択でいいんだね」
 「そうよ。だからサッチは消さないで」
 「おやすいご用さ」パチンとカブは指をならした。公園の芝生の上で横になりながらスマホで話していたカブは指を鳴らした後、通話を切ってつぶやいた。「そっちの選択ですか」
 ぐらり
 バイクが傾くのがスローモーションの様にカブには感じられた。でも実際はカブに向かってバイクが倒れこんだ。カブの足首に激痛が走る。
 倒れたバイクの後ろに二つの人影があった。「なんで」カブは信じられない光景を目の当たりにしてつぶやいた。
 真白と蒼子が手をつないで立っていた。でも二人の片足はそれぞれキックの状態で止まっている。そう二人のキックをおもいきりバイクにぶちかましたのだ。
 「なんで、お前達そこにいるんだ。ルールが正しければお前たちは消えているはずなのに」カブは明らかに動揺している。
 「父母は仲直りしたのよ」
 「そんなバカな。激しく言い争う二人の声が聞こえたぞ」
 「だから、電話の時のケンカはあなたをだます為のお芝居なの。父母も最初は私の説明が飲み込めなくてちんぷんかんぷんだったけど、これを見せたらすぐに話を聞いてくれたわ」
 私は本を鞄から取りだして、その本に挟まっているものをカブに見せた。
 「それがどうした。ただの、しおりだろ」
 「そうよしおりよ。これは自分で作ったものなの。この前家族で行った遊園地の写真を入れてしおりを作ったの。この遊園地の記念撮影用の看板には行った当日の日付がブロックで描かれている。お父さん達はびっくりしてたけど、目の前にいる私達が、未来の自分達の子供なのかもしれないと信じてくれたの」
 カブは立つことも出来ずうつむいてぶつぶつと何かつぶやいていた。
 私はカブをもっと困らせてやろうと思って、地面に落ちていたいくつかのマリオネットを気づかれないように自分のポケットに押し込んだ。
 「なんてことをしてくれるんだ。あのパチンはボスから許可してもらったたった一回だけのものだったのに。どちらも消えていませんでは俺がボスに消される」
 「何をぶつぶつ言っているの。さあ、早く私たちをサッチの所へ連れて行きなさい。さもないとその足の上にいろんなものを投げつけるわよ」私はとりあえず鞄をふりかざした。
 カブは慌てて逃げようと手で地面をつかんで何度か体をよじった。しかし動きを止めた。 
 「本気で俺を怒らせたな。お前たちに罰を与えよう」怒りをおさえた静かな口調でカブはポケットから何かを取り出し、ごそごそと手の中でそれをいじくっている。
そして手の平で隠すようにそっと何かを地面に置いた。カブはニヤリと笑うと手の平をどけた。そこにはピンクのパンダのマリオネットが二体、肩を組んで立っていた。私はそれを見て蒼子に言った。
 「逃げるのよ蒼子」
 「なんで逃げるのおねえちゃん。ただの人形でしょう」
 私は蒼子の手を引き、くるりと向きを変え走った。振り返るとむくむくと大きくなりつつある二匹のピンクのパンダが見えた。
 「またあいつらだね」パンダその1が言った。
 「うんそうだね。しかもあつかましくまだ色を自由につかっているね。許せないね」
 ピンクのパンダ達はもんどりうつように絡まりながら追いかけてくる。しかもさっき見たときより、ひとまわりもふたまわりも体が大きく、筋肉質になっていて、パンダの愛らしさは無くなっていた。パンダとの距離は十メートルも離れていない絶体絶命だ。パンダが自分の行く手を邪魔する鉄棒に右手を振り下ろした。鈍い音と共にあっけなく鉄棒は飴の様にぐにゃりと折れ曲がる。カブも足を引きずりながら私達を追いかけている。私はただ真っ直ぐ走った。建物の角を曲がって、身を隠しながら鞄に手を突っ込む。神様、一瞬だけあいつらの目をそらして。お願い。そう願った。その時白い大きな一群が私の視界を遮りピンクのパンダとカブを覆った。白鳩の大群が彼らの周囲を飛び回っている。今だ。私は鞄の中から手を引き抜き、握りしめたものの封を引きちぎり、素早く自分と蒼子に頭の上からぶちまけた。
 「お姉ちゃん何するの」
 「いいからお姉ちゃんを信じて!」 
 サッチの家で拝借した小麦粉を頭から被った私たちは真っ白になった。
 「あれ、色の匂いが消えたぞ」パンダは白鳩を手でかき分けながらきょろきょろする。
 「そうだねえ、おかしいねえ」
 ピンクのパンダ達はモノトーンになった私たちが見えなくなっている。私は蒼子の手を強引に引っ張ってパンダに向かって走った。パンダとの距離がどんどん近づく。
 「目の前にいるぞ!分からないのか、このピンクブタ!」カブがパンダの背後から怒鳴る。私はポケットから取り出したものを頭上に掲げる。カブが大事にしているマリオネットだ。マリオネットをカブにじっくり見せつけながら私は右往左往しているパンダの足元に置いた。
 パキン
 マリオネットが壊れる音がはっきりと聞こえた。
 ピンクのパンダは動きを停止した。
 「今、なんて言いましたか」パンダの瞳にすっと怒りの色が入る。
 「ブタって言ったぞ。しかもピンクブタって。許せない暴言だぞ」
 二匹のパンダは私達を探す事をやめた。カブとの距離をじりじりと詰める。
 「俺の心血を注いだマリオネットをお前、今、破壊したぞ。分かっているのか」カブは足の痛みに耐えかねて地面に突っ伏している。それでもパンダ達を睨みつける瞳には力がみなぎっている。カブが右手を上げて振った。真っ赤な炎がパンダ達に延びた。パンダは炎を避けて左右からカブに覆い被さる。カブ、パンダ二匹が一山になった。その瞬間、巨大な火柱がその場に轟々と立ち上がった。
 「ボス!お待ちください」カブがうろたえて叫んだ。
 空中から地面を震わす声が聞こえた。
 「もう待てない。お前は手下のパンダと一緒に焼き払うことに決めた。問題は私が直接解決する。カブごくろうだった」この声がカブの言っていたボスなんだわと私は思った。
 私と蒼子はただ呆然と立ち尽くした。火柱の消えた後には人形が三体折り重なるように倒れていた。遠目に見てもそれはカブとピンクのパンダの人形だった。ボスと呼ばれる人物にいいように操られていたのかと思うと自然と涙があふれた。歩き始めた私に蒼子が聞く。
 「お姉ちゃん、大丈夫?どこにいくの」
 「わからない」
 もう本当にどうしたらいいのか分からない。サッチ助けて。そう思った次の瞬間私の足が消えていった。もうどうなるの。

 サッチはノートから目を上げてルールを見た。
 「ルール、あなたは私に相談したいんだよね。だったらまず、マロと蒼子ちゃんを戻してくれる。話はそれからよ」サッチはぴしゃりと言い放った。
 「サッチ、私に交渉をもちかけるのですか。おもしろい。交渉出来る立場にあなたはありません。おっと、カブの世界で動きがありました。今いるこの世界は私が作ったデータであるという事にマロさんは気づいたようです。うかつにもマロさんにデータの心臓部への侵入を許してしまいました。データを書き換えて登場させた、あの鳩の一群はすばらしかった。それなりに問題を解決したようなので、いいでしょうマロと蒼子ちゃんを戻しましょう」ルールの目が青く光る。ルールの横に大小の靴が二足、ファックスが送られてくるように徐々に現れた。次に靴を履いている足が現れた。
 
 私はきょろきょろとあたりを見回す。蒼子の手を私はぎゅっと握っている。蒼子も周囲を見まわしている。目の前にサッチが目を輝かせて立っていた。私は思わず走りよって抱き合った。
 「サッチ大丈夫だった?」
 「うん私は大丈夫。大丈夫だから」自分に言い聞かせるようにサッチはそっと私の肩に手を乗せてささやいた。でも私はなにやら得体の知れない物体がいることに気づいて飛び上がった。恐る恐る小声で聞く。
 「サッチ、あの物体はなに?」
 「この世界のボスよ。名前はルール。そしてルールはルールであって同時に私でもあるの」
 「サッチどういう意味?あの人向こうが透けて見えるよ。大丈夫なの」
 「大丈夫よ実体のないものだから。私にまかせて。ところでマロ、蒼ちゃん」
 「なーにサッチお姉ちゃん」サッチはしゃがんで蒼子の目を見つめた。
 「いい、今からお姉ちゃんの言うことをよく聞いて。一度しか言わないよ。分かった」
 「うん分かった」蒼子は頷いた。サッチ、何が始まるの。
 「ハイはバナナ、イイエはゴリラよ。分かった?」
 「おい何をごちゃごちゃやっている。お前の言い分はそれだけか」
 「ルール、人類が必要かどうかだったわね」
 「そうだ」
 「正直、分からない」
 「分からない?」
 「そう分からない。だから人類代表として運で決めるわ。お守りのコインを使ってコイントスをする。相談なしに三人同時にコインの表か裏かを言い当てる。全員正解したら私達を元の世界に戻す。そして人類は必要なものだと認めること」
 「サッチそんなの無理だよ」私はサッチの肩を揺らして泣きそうな顔で叫んだ。
 「大丈夫。バナナとゴリラよ」サッチは私の顔を真剣に見つめた。
 「いいだろう。その提案に乗ろう。しかし条件を上乗せさせてもらおう。二回連続だ」
 (サッチどうするの)私は口には出さなかったがそういう目でサッチを見つめた。
 「いいわ」
 私は天をあおいだ。ルールは肩をゆらして笑っている。
 「こっちが表で、こっちが裏よ」
 サッチはお守りのコインをポケットから取り出してルールに見せた後、私達にも見せて指さしながら言った。
 「こっちが表で、こっちが裏よ」
 私と蒼子はサッチの手に乗っているおもちゃのコインを見た後、顔を見合わせた。
 「分かった」私と蒼子は首を縦に振った。
 「ショウタイムだ。さあ、始めてもらおうワクワクするな」ルールは首をすぼめながら揉み手をしている。ボスの風格は消え失せ、そこらにいるおじさんの様な振る舞いに私は本当に腹が立った。サッチは無言であっけなくコインを右手で宙に投げ、器用に空中でその右手でコインをつかんだ。そして握りしめたまま手の甲を下に向けて、ぐいっと私達の前に突き出した。
 「どっち?」サッチは足を肩幅にひろげて踏ん張っている。私は唾を飲み込み息を飲んだ。
 「蒼子、サッチいい?」
 「いいよ」サッチがうなずく。
 「分かった。いいよ」蒼子も状況を理解しているようだ。
 「せーの」三人が同時に叫ぶ。
 「表!」
 「表!」
 「おもて!」まずは全員の意見が一致してほっとした。問題はコインだ。サッチがゆっくりと手を開く。
コインはサッチの手の平の上。表をむけていた。
 (やった)勝負はまだ途中だ。私は心の中でガッツポーズをした。
 「正直君たちの運のよさに驚いたよ」ルールは余裕だ。ルールは本当に約束を守るのだろうか。 
 「さあ、もう一度よ。みんな集中して」サッチは私達を見回した後、左手でコインを投げた。光を反射してクルクルと回転しながらコインは真上に舞う。サッチはまた投げた左手でコインを左手の中に閉じこめた。そして先ほどと同じく、手の甲を下にして突き出した。
 「どっち?」サッチは足を閉じて踏ん張っている。私は奥歯を噛みしめた口を開いて叫んだ。
 「せーの」呼吸を合わせたかのように同時に叫んだ。
 「裏!」
 「裏!」
 「うら」
 サッチが左手をゆっくりと開く。コインに描かれた絵は裏を示している。やった。私達は声にならない声で喜んだ。
 「さあ、私達の勝ちよ。手を引きなさい」サッチが嬉しい気持ちを抑えるかのように静かな口調で言った。
 「そうだな。まあ、こんなお遊びは本当はどうでもいいんだ。じゃあ、これにて人類の生命線であるすべてのデータを消去します。世界はパニックに陥りますがまあ、いいでしょう」
 「やっぱりね」サッチは諭すようにささやく。
 「やっぱりとはどういう意味かな」ルールに動揺が伺えた。
 「やりなさいよ。どうぞご自由に」
 「いいのか、そうか、わりと往生際がいいんだな。それともすべての重要なデータが消失してしまった世界が想像できないのかな」ルールは存在しないボタンを押すように突き出した親指を曲げた。その表情は満足げだ。
 「あれ」
 「どうしたの」焦るルールを見てサッチが指摘する。
 「何もおこらないでしょう。だってあなたは私なんでしょう。すなわち設計者は私の父母なんでしょう。あなたの活動停止コマンドを今、実行したわ」
 「活動停止コマンドだと」
 「そう。今のコイントスの一連の行動があなたの活動を停止する命令だったの。このノートに書いてあった」サッチは自分の部屋から持ち出したノートを見せた。ルールはがっくりと肩を落としている。
 「そうか、やはりお前を越える事は出来なかったか。この十年、私の開発が進むにつれて何でも出来るような気持ちになった。まるで自分が神に近づく気持ちだった。でも先生であるサッチお前の存在は越えられないようにブラックボックスの中に入れられていた。お前を越えられないのなら周囲のシステムを破壊して存在を消してしまえと思った訳なんだが、はは、でも最後にお前と話すことができてよかった」
 ルールの姿は次第に透明になって消えた。
 サッチはあっけらかんとしている。
 「さあ、これで戻れるはずよ」
 「何がどうなってるの?」
 「後でゆっくり話すわよ」
 サッチは三枚のコインを感慨深そうにじっくり見ている。一枚目のコインの表にはバナナ、裏にはゴリラが描かれている。二枚目のコインは両面がバナナ。三枚目のコインは両面ゴリラが描かれている。表裏の説明は一枚目のコインを使った。コイントスの時には両面が同じ模様のコインを投げたのだ。サッチはノートをパラパラとめくって張り付けてあった封筒にコインを戻した。

 私は目を開けた。天井が見える。真っ白な空間。リノリウムの床にしつらえてある固めのシートに横になっている。右には同じ形のシートにサッチが、左のシートには蒼子がいてキョロキョロとあたりを見回している。思い出した。ここはサッチと一緒に忍び込んだ仕事場だ。ピカピカ光っていた機械の点滅はすべて消えていた。
 隣の部屋で心配そうに見ている、お父さんお母さんと目が合う。二人とも泣いている。悪いことしちゃったな。でも結果的に人工知能「ルール」の暴走を止めたんだから良しとしてもらおう。
 そう私は思った。

 後日聞いた話では遠足の出発時間になっても到着しない私達を心配してまず親に連絡が入った。蒼子がいなくなって大騒ぎしているまっただ中にその電話がかかってきて、もうおじいちゃんもおばあちゃんも、お母さんも、お父さんもパニックになったらしい。こっぴどく怒られるのも当たり前だ。
 「今日はいい天気でよかったね」私はスキップしながらサッチに話しかけた。
 「本当ね」サッチもスキップしている。
 蒼子はサッチと私の真ん中にいて、両手をつないでご機嫌だ。
 今、私達は親と一緒にみんなで、結局行けなかった水族館に向かっているのだ。
 水族館のゲートが見えてきた。この信号を渡ればもうすぐだ。
 その時、木箱を荷台に乗せたバイクが目の前を通った。
 私は思わずバイクの後ろ姿を見た。エンジニアブーツに黒の革で出来たズボンを履いた人物が見えた。ヘルメットからアフロが少しはみだしている。
 (カブさん)私は心の中でつぶやいた。
 バイクに乗った人物がこちらを振り返ってウインクしたような気がした。
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◎本日の想像話「まっしろな青」(1/2)

2018年05月12日 | ◎これまでの「OM君」
 私は今、眠っている。夢を見ている自覚は無いが、不快な音が徐々に現実を帯びて聞こえてくる。これは目覚まし時計の音だ。誰か、誰か止めてほしい。目覚まし時計は隣の布団で眠っている父の頭上にある。父はもぞもぞと手を伸ばして、目覚ましのヒステリックな音が止まった。父はバシバシと強めに私の布団をたたき、そして言った。
 「真白(ましろ)起きろ」
 私は眠いのだ。出来るだけ寝ていたい。だから起きないフリをする。
 父は無言で私の布団をむしりとった。
 (さ、寒い!)
 3月末。桜も咲こうかという時期だが朝はまだ寒い。私たち二人は仕方なく起きあがる。
 「おはよう」
 父、靖(やすし)44歳。
 寝起きの父の顔は決して見れたものではない。しかめっ面、眉間には深いしわ、口元にはヨダレの跡、目やにがついた目をうすく開けて私を見て言う。
 「おはよう」
 私も似たような惨憺たる外見で目を覚ます。毎朝こうしていつもの一日が始まる。

 階下の台所からソプラノの声で「まーしーろーちゃーん」と目覚ましボイスが聞こえてくる。圭子おばあちゃんだ。
圭子おばあちゃんは毎朝、私のご飯を用意し終わると早く起きろとばかりに目覚めの声をかける。
 (あ、今日から春休みじゃない。小学校はお休み。早起きする必要ないじゃない。損した。)
 もう一度横になり、布団に潜り込む。次の瞬間、布団が引きはがされる。今度は母だ。
 「なんでもう一度寝るの。今日は学童の遠足でしょ」
 (そうだった。学校は春休みだけど、放課後に通っている学童クラブの遠足だった!水族館に行くのかぁ。楽しそうだけどバスで吐いたらどうしよう。)母は私に厳しい。紀子(のりこ)42歳。脇をがばっとつかみ「起きなさーい!」
私はびっくりしてエビ反りしながら奇声をあげる。
 「もう、うるさーい!」
 母の隣でこんもりとした物体が声を荒げた。しまった、暴れん坊が目覚めてしまった。いつもは私の身支度が出来るまでおとなしく眠らしておくのだ。妹の蒼子(あおこ)5歳が悪態をつきながら起きた。捲くし立てるように猛スピードで蒼子が話しだした。
 「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさーい!」
私は二度寝をあきらめ、のっそりと起き上がり、階下の台所に降りた。
 先ほどのソプラノ声で階下から私を起こしてくれる、おばあちゃんがいた。
おばあちゃんはくるくるパーマをかけたかわいらしい出で立ちをしている。おじいちゃんの幸一にお茶を入れている。
 「行ってきます」
 空は青く高く快晴、雀が数羽おいかけっこするように飛び去る。
 本日の私の出で立ちは、フード付き青色のワンピースにスパッツ。ほぼ母が一方的に決めた一張羅だ。
 値段の安さとデザインのせめぎ合いによって母が熟考を経て先日購入したものだ。
 新しい服はなんだか気持ちがいい。それにしてもトイレは大丈夫だったかって?私が耐えうるギリギリまで待ったわ。
 出勤するおじさん達が猫背気味に、早歩きでセカセカと私を追い抜いていく。高校生のお兄さんお姉さんは自転車で私を抜く。きれいなお姉さんはスマホを片手に軽やかに私を抜き去る。
 突然、背中をたたかれた。
 「よっ、おはよう。今日は楽しみだねえ。イルカもいるかもよ。アザラシに会ったら、あざらしい(新しい)発見があるかも」
 短い髪の毛。前髪はおでこでぱっつんとそろっている。
 同級生の女の子、山崎佐知子。
 通称サッチがリュックを背負ってそこにいた。
 今日はデニムの短パンとオレンジ色のウインドブレーカーという出で立ち。格好だけではなく、サッチは私とは性格も正反対。活発で快活。
どうして私と友達なのか分からないぐらい、クラスでも人気者なのだ。
 「なんだがか元気ないねえマロ(ちなみにサッチは私の事をマロと呼んでいる)水族館、楽しみじゃないの?、分かった。バスに酔うのがいやなんでしょう」
 「サッチも酔うでしょう?」
 「酔うけど大丈夫だよ。マロも酔い止め飲んでいるでしょう。それさえ飲んでおけば大丈夫だよ」
 「そうだね」
 サッチと話していると本当に大丈夫と思えてくるから不思議だ。サッチといるだけで気持ちが明るく晴れ渡っていく。サッチが私の友達で本当によかったといつも思う。
 「まだ出発まで時間あるよね。どう、うちの研究所が見たいってマロ言ってたでしょう。ちょっと見ていこうよ。今日はお父さんもお母さんも出張で朝からいないんだ。新しい機械も入ったって言ってたんだよね」サッチはいたずらっぽく笑った。
 「いいの?」私は嬉しくてサッチの手を握ってぴょんぴょん跳ねた。
 「私が許す。ちこうよれ、くるしゅうない」サッチはお殿様をイメージしたと思われる動きをしている。
 その時、私の背後から誰かがぶつかってきた。
 「お姉ちゃんばっかりずるーい。私も水族館に行く。絶対に行く」
 私は振り返った。そこにはいつの間にかついてきた蒼子が腕組みをしてほっぺを膨らませて立っていた。
 「蒼子、勝手についてきちゃだめでしょう」
 「お姉ちゃん私も行きたい」
 「だめだよ、蒼子は家に帰りなさい」
 「じゃあさ、蒼子ちゃん、うちに探検しに行こうか。水族館のお魚よりすごいものがうちの研究所にはあるよ。たとえば空も飛べちゃうかもよ」
 サッチが目をキラキラさせながら蒼子に魅力的なプレゼンを展開している。いいぞサッチ。私は心の中で応援した。
 「見たい」蒼子も俄然乗り気になっている。
 「でも見たら、お家に帰ろうね」サッチがやさしく囁いた。
 「うん帰るよ」蒼子は嬉しそうにその場で飛び跳ねた。
 「でもサッチ、時間は大丈夫かな」
 「研究所はすぐ近くだからパッと見てパッと帰ろう。さあ、いこう」サッチは言い終わらないうちに駈け出した。
 私と蒼子は「待って」と言いながら慌てて追いかけた。
 サッチのお父さんとお母さんは一緒に同じ研究をしているという話をサッチから聞いていた。パソコンの計算速度を飛躍的に上げる事に成功して、ちょっとした有名人なのだ。
 「こっちよ」サッチは私が曲がったことのない細い路地に入っていく。
 そこには銀色に鈍く光る真四角の巨大な豆腐のような建物が三つ敷地の中に建っていた。その建物には窓というものが無いように見える。それどころかドアがどこにあるのかも分らなかった。
 サッチは真ん中にある建物に近づいていく。そして壁に顔を近づけた。ピッという音がして、穴がぽっかりと開くようにドアが開いた。
 「サッチすごいね」
 「そうでしょう。顔認識システムなの。さあ、中に入って」
 蒼子は遠慮なく靴を脱ぎ散らかして室内に走りこんでいった。
 「ちょっと蒼子だめでしょう、待ちなさい。走っちゃだめ」
 蒼子の後姿を見ながら、サッチは壁に手をかざした。一斉に電気がついた。暗かった空間が一気に明るくなった。床も壁もつるつると冷たく光る、まるで病院の廊下のようだ。この素材は確かリノリウムと言うのだろうか。私はそんなことを考えていた。
 蒼子が一番手前のドアを開けて部屋の中に入ったのが見えた。
 「ちょっと、先々行かないで。待ちなさい」
 「いいのよ。見せたいものはあの部屋にあるはずだから」サッチに促されて一緒に部屋に入った。
 そこには冷蔵庫のような機械がたくさん並んでいた。そして一台一台の機械はしきりに電球を点灯させていた。クリスマスのイルミネーションのように綺麗だった。その室内には機械の他にソファが三つ置いてあった。蒼子がすでに座ってくつろいでいた。
 「空が飛べるってこれ?」私はサッチに聞いた。
 「そう、これよ」さっちは微笑むとソファに座ってヘッドレストの裏側から赤色のレンズがはめ込まれたゴーグルを取り出して装着した。
 「これを使うと空が飛べるのよ。さあ、マロも座って私と同じようにして」サッチは何だかうれしそうだ。
私は言われるままソファに腰かけた。意外にソファは堅かった。ゴーグルは持ち上げた瞬間に電源が入った。やさしく光っている。私はゴーグルを付けた。パチン。視界が真っ暗になった。あれ空を飛ぶんじゃないの。私は徐々に意識が遠くなっていった。

 おじさん達が猫背気味にせかせかと歩いている。きれいなお姉さんや、高校生のお兄さん、お姉さんに抜かれていく。私は歩いている。
 あれ、さっきと同じ光景だ。おかしい。私たち研究所にいたはずなのに。隣にはサッチが歩いていた。
 「空を飛ぶんじゃなかったの?」私はサッチに食って掛かった。それを聞いたサッチは怪訝そうな表情を浮かべた。
 「マロ、おかしなこと言わないで。今日は今から遠足に行くんじゃない。まだ寝ぼけてるの」
 そんな、私どうかしちゃったのかしら。蒼子もいたはずなのに…。
 「蒼子はどこにいったの」
 「蒼子ちゃんは保育所でしょ。さっきお母さんと一緒に歩いている蒼子ちゃんを見たわよ。さあ、しゃきっと目を覚まして、海の世界にレッツゴーよ」サッチは全然おかしいと思っていないらしい。私がおかしいのかしら。

 学童の建物は小学校の校庭の隅に立っているプレハブだ。
小学1年生から小学5年生までの学童が放課後、親の仕事が終わるまでここで過ごす。
 現在、私とサッチの2人が学童での最高学年となっている。当然、下級生のお守りもしなくてはならない。
 プレハブの外にまで子供達の騒ぐ声が響きわたっている。今日は特に騒がしい。
テンションの上がりまくった子供というのは本当にたちが悪い。
冗談ではなく建物の壁やドアが暴れる子供の勢いに負けて揺れているのが分かる。
 クワバラクワバラと心の中で唱えながらドアを開けた。
 「あら、マロちゃん、サッチおはよう。今日は本当にお願いね」
さっそく、道子先生に助けを求められた。
 仕方が無い。道子先生は元は学校の先生だったらしい。子供達の人気者なのだ。だからすでに前後左右から子供が群がっている。
 「はいはい、道子先生困っているだろう。離れて離れて」
 唯一の男の先生、一二三先生が後ろからぬっと現れた。
 額にうかべた汗を拭き、なおかつふーふー吐息を漏らしている。(何をそんなに息を切らしているのかは不明だ)
 一二三先生の気配を察知した瞬間、蜘蛛の子を散らすように子供たちは逃げていった。
 別に怖いわけでは無いのだが、一二三先生はどうも子供受けがあまり良くない。
 「まったく」口の中でその次に続く言葉を飲み込みながら一二三先生は私たちに言った。
 「サッチにマロちゃんおはよう。二人ともバス大丈夫?」
その一言でバスの事を思い出してしまう。
 「はい酔い止めを飲んだので大丈夫と思いたいです」私はそう言うのが精一杯だった。
 「下級生達をトイレに連れて行けばいいんですよね先生」サッチは言った。
「そうそう、悪いねえ」
一二三先生はそう言いながら新たにやってきた子供の世話をしに消えていった。
 「ああ、やんなっちゃう。あなたの仕事でしょって言いたくなっちゃうね」
 サッチは口をとがらせながら私に言った。でも彼女は頼りにされているのはまんざらでも無い様子だ。
 ゆっくりと校庭に立派なバスが入ってきた。
 「さあ、みなさんバスに乗りましょう。走らないでね、けがでもしたら大変よ」
道子先生は終始テンパっている。無理もない。
 子供たちはゆっくりと言われて泥棒スタイルの抜き足差し足で歩いていた。道子先生はそれを見て笑っている。
 全員が着席するまでまたしばらくの時間を要した。そしてようやくバスは発進した。
私は酔い止めの薬が効いてきたのか少しふわふわしていた。
 バスの前の方の座席が車に酔いやすい生徒達の指定席となっている。サッチと私は並んで座っている。やはり彼女も少し口数が減っている。どうか酔いませんように。そう思いながら流れる外の景色を見た。
 バスの座席の位置は周りの車に比べて少し高い。信号待ちでは隣の車の車内は丸見えだ。
 私達は春休みだが、周りは仕事中のお父さんやお母さんが運転する車が多い。
 伝票をチェックする若いお兄さん。
後部座席のチャイルドシートに乗っている子供に話しかけているお母さん。そんな光景を観察しながら私は何とか気を紛らわせていた。
 そのとき、通路を挟んだ席に座っている男の子がオレンジ色のハンカチを落とした。
 ゆっくりと落下する。
 そのまま空中にぴたりと止まった
 私は言葉を失った。
 夢中でサッチの肩をたたいて言った。
 「サッチ見て」
 うとうとしていたサッチがぱっと目を開けて私を見た。
 「どうしたのマロ」
 相変わらず空中で止まったままのハンカチを指さす。
 「え、手品?」
 オレンジの色が徐々に消えて灰色になった。
 いや、ハンカチだけではない。私たち以外、バスの車内、車外の景色が灰色の濃淡でうめつくされた。 
 慌てて私は後ろを振り返る。灰色になってみんな止まっている。楽しそうに笑いながら止まっている。窓の外を見ると飛んでいる鳩も空中で止まっている。
 周りの車も止まっている。
 まるで私たち以外の時間が止まったようにすべての物がその場で止まっている。
 サッチは立ち上がって道子先生のところに行った。私もついて行く。
道子先生は水族館のパンフレットを食い入るように見つめる姿勢のままだ。
 私は心臓をきゅっと捕まれたような恐怖を感じた。
 「何かの冗談なのかな」
 「冗談で周りの車まで止まらないよ。見て隣の車のお兄さん。くしゃみした瞬間で止まってる」
見てみるとたしかにくしゃみの瞬間で止まっている。御丁寧に唾が宙に浮かんでいる。
「サッチどうしたらいいの」
「分からないけど道子先生なら連絡用の携帯電話ぐらい持ってないかな。家か警察に電話してみよう」
 それはいいアイデアだと思った私は道子先生の上着のポケットをあさる。右ポケットには無い。左ポケットに手を差し込むとコツリと固いものが手に触れた。
 あった。私はポケットからスマホを取り出した。
その瞬間着信ベルが鳴った。
あわてて落としそうになる。
「電話だよ。しかも非通知だよ。どうしようか」ドキドキしながら私は動けないでいた。それを見たサッチはさっと私の手からスマホを取り電話にでた。
「もしもし…」
サッチはスピーカーボタンを押して私にも相手の会話が聞こえるようにしてくれた。
 「もしもーし?」
 若い男の声がした。私達の緊迫した状況にそぐわない明るい声だ。
 その緊張感の無い声が、私達の状況だけが異常で外の世界は普通なんだと思えて嬉しかった。私は言った。
 「助けてください。私たちは春休みの遠足でバスに乗っています。みんな動かなくなったんです。」
 電話の相手の反応は先ほどの脳天気な感じとは違い、重い重い沈黙だった。サッチと私は口々に言った。
 「聞こえますか」
 「あなたはだれですか」
 声はうわずり、悲痛な叫びを二人は言った。
 「あなたは誰ですかだって?」
 思いもかけず相手の反応があった。どきりとした。
 「君たちはサッチとマロだろう。知っているよ」
 スマホの前で私たち二人は顔を見合わせた。
 「どうして知っているの」
 「どうしてって僕は何でも知っているさ、持ち場はこの世界だからね。まあ、いいや。とにかくこのままじゃあお互いらちがあかないでしょう。とりあえずバスの扉を開けるから一度バスから降りてくれる。そのスマホにメールで地図を送るからその場所に二人で来てくれる。じゃあ」
 そう言って通話は切れた。その直後、バスの昇降口のドアが開いた。乗ったときには聞こえたプシューという音もなく、まったくの無音だった。
 「何が起こるかわからないけど…とにかく行ってみよう」サッチは頼もしく車道に降りた。
 私も後に続く。
 相変わらず人々は止まっている。
 チワワと散歩中のおじいさん。チワワが腰を下ろして今にもうんちをしようとしている。立ち話中のおばさん。
 しげしげと周囲を眺めていると道子先生のスマホからメール着信のメロディが流れた。
 私、この曲知っている。
「二十世紀少年」Tレックスの曲。お父さんが言っていた。マーク・ボランは世界一「イエー」を上手に言うボーカルだって。
 お父さん、お母さんは大丈夫かな。そう思うと涙があふれてきた。サッチが肩に手をおいて私の顔をのぞき込む。
 「マロ、泣いてる場合じゃないよ。地図を見よう。今はあの電話の男の言うとおりにすることが一番の解決法のような気がする」
 「そうかもね。この止まった世界をもう一度動かさなきゃ」
メールを開く。
 地図は蒼子の通う幼稚園の裏手にある公園を示している。ここから近い。画面を見て私は思った。蒼子は幼稚園にいるのかな?
 「ねえ、サッチ。幼稚園に行って妹の様子見てもいい?」
 私は蒼子の事が心配になった。
 「もちろんよ」サッチはまっすぐ前を見たまま表情は変わらない。何かを考えている様子だ。
 私たちは走った。
 でも私はサッチについていけない。サッチも私を置き去りにしない程度に先行している。酒屋さんの角を曲がれば幼稚園がある。
 曲がったとたん私は悲鳴を上げそうになった。制服を着た沢山の園児達がかけっこをしたり、ブランコをしたり滑り台を滑ったり遊んでいる。でも園児達の声は聞こえない。
 ぴたりと止まっている。
 「サッチどうしよう」不安な気持ちを抑えて私はサッチを見つめた。
 「蒼子ちゃん今日は登園したはず。絶対この中にいるよ。顔だけでも確認してみよう」サッチは少し笑った。その笑顔を見て私もぎこちなく笑う。扉に手をかける。鍵がかかっている。門扉の鍵は先生が内部から外すシステムになっているのだ。
 「どうしようか」もう私は完全にパニックになっていて思考停止状態だ。
サッチは無言でフェンスに飛びつき、フェンスを登りはじめた。
 「ちょっとサッチ!先生に怒られるよ」
 「今は非常事態なの。安否確認が優先。臨機応変に対応することも世の中大事なの」
するすると登って、フェンスの一番上でひらりと体を入れ替えて幼稚園の中に入っていった。私も意を決してフェンスに飛びつく。
こんな事をするのは初めてで腰は逃げ腰のへっぴり腰だ。サッチの度胸の良さには本当に舌を巻く。
フェンスの最上部に到達した。
下から見ている以上にその場所は高かった。
 動けない私を見てサッチはもう一度あちら側からフェンスを登ってきた。そして最上部でフェンスにまたがったまま私に手を差し伸べる。
 「ありがとうサッチ」
 「どういたしまして、足下にお気をつけてお降りくださいませお嬢様」
支えられながら何とか幼稚園に入ることに成功した。
 「一人一人、見ていくしかないね」サッチと私は園児達の顔を順々に覗き込んだ。
でも蒼子はいなかった。
 「どうしてここにいないのかな」
サッチは見回している。
 「分かったトイレだよ。あの子遊んでいる最中によくトイレに行くんだよ。私いつも付き合わされてるんだ」何となくだが、確信があった。
 私は珍しく真っ先に走った。サッチが待ってと慌てている。園のトイレの場所は知っている。私もこの園に通っていたからだ。
 ドアを開けるとかすかに泣き声が聞こえた。
 私たちと同じ、止まっていない子がいるんだ。
 「誰かいるの!蒼子!」私は叫んでいた。
 どたどたー
 慌ただしく駆け出す足音が聞こえて廊下の曲がり角から蒼子が私にぶつかってきた。
 「おねえちゃーん」
 蒼子が鼻水と涙でぐしゃぐしゃの顔を私に押し当てていた。いつもなら絶対に怒るけど、今日ほど嬉しいことはなかった。
 「蒼子!怪我とかしてない?大丈夫?」
 「うん、大丈夫。みんな動かなくなったの。どうして」
 「お姉ちゃんにも分からないの。でもきっと何とかなるよ。今は元気だしてお姉ちゃん達と一緒に来て」
 「うん、わかった」
蒼子は私のシャツの裾で涙を拭くとまっすぐ私を見上げている。
 「さあ、次は電話に出た謎の男よ、急ごう」サッチは真剣な顔で私たち姉妹を交互に見ながら言った。
心配な点は、はたしてフェンスを登る事が出来るだろうかという事だ。私でも必死になってよじ登ったのに蒼子にはとうてい無理だ。
 「フェンスどうしようか。蒼子には登れない」サッチならきっといいアイデアがあるはず。
 「職員室に解錠するボタンがあるんじゃない」
 「そうだ、行ってみよう」
扉を開けて職員室に入る。
 ちょうど園長先生がせんべいをかじろうかという手前で止まっていた。
 もう少しで食べれたのに残念。そう思いながら解錠ボタンを探す。
 「あの壁にあるボタンがそうだよ。私、先生が誰かと電話で話した後それを押すのを見たことがあるよ」蒼子が得意満面のドヤ顔を見せた。なるほど蒼子の指さした先にボタンがある。
 「押してみよう」
 サッチと私は、ほぼ同時にボタンを押した。カチャッとかすかに外から動作音が聞こえた。
 「でかした蒼子」私は妹の頭をくしゃくしゃとなでた。
 蒼子もうれしそうだ。
 運動場に出てもさっきと状況は変わっていなかった。マネキン人形の様に園児達が立ち尽くしている。蒼子は真っ青になって泣き出しそうになった。蒼子をなだめながら私達は大急ぎで幼稚園を飛び出した。泣いている場合ではないのだ。唯一の手がかりである公園に行く。今はそれしかない。

 「ねえ、おねえちゃん。お菓子ないの?」
蒼子が私の背負っているリュックに熱い視線を送っている。
 「いっぱいあるよ。サッチのリュックにも沢山お菓子あるよ。何ていってもお姉ちゃん達は本当は今日、遠足だったんだから。ポテチ食べようか」
 「うん食べる食べる。やったあ!」
 「蒼子ちゃんこれ知ってる?「はい」と「いいえ」を言葉に出さずに伝える方法。足を開いたら「はい」閉じたら「いいえ」ね。じゃあいくよ。ポテチ食べたいですか」
 「ハーイ」
 「そうじゃないのこうよ」サッチは足を勢いよく広げた。
 「分かった」蒼子はうれしそうに足を広げた。
 「ははは」なんとなく楽しくなって三人で笑った。
 本当はこの先どうなるのか全く分からないし、不安でいっぱいだ。でもリュックからポテトチップスを出してみんなで食べながら歩いていると、なんだか幸せな気分になっていた。
 なんとかなるよ。
 私は、今はそう思うようにした。
 世界は相変わらず灰色のまま止まっている。

 「色の匂いがするね」
 「うんするね、こっちだね。『青色』のソーダっぽい匂い。『オレンジ色』のみかんっぽい匂い。『黄色』のバナナっぽい匂いがするね」
 背後からふいに声がした。話の内容は意味不明だが、私たち以外に動いている人がいると分かって嬉しくなって思わずサッチの手をぐいっと引っ張った。
 だけど私達は声を出さないようにした。
 何故かと言うと、『青色』は私が今着ているワンピースの色だし、『オレンジ色』はサッッチが今着ているパーカーの色、『黄色』は蒼子が今着ている制服の色なのだ。
 私達は静かに声の主が出てくるのを待つしかなかった。
 ゆっくりと現れたのはパンダが二匹。
 体はピンク色で目のまわりが赤色のパンダが二本足で立って歩いていた。
 私たちはパンダと目があった。
 「色付き、だね」
 パンダが別のパンダにささやいた。
 「そうだね。色が許されているのは僕達だけなのに」
 二匹のパンダ。いやこの場合、立って歩いて、会話しているパンダは二匹というより二人と表現した方がいいのかしら。恐怖で身がすくみながらも頭の隅ではそんなことを考えてていた。
ピンク色のパンダ達の気持ちは決まったらしい。
 「つかまえよう」
 「そうだね」
 ううー
 うなり声を上げながら、パンダは両手を前につきだして真っ直ぐこちらに向かって来た。
 「マロ!逃げなきゃ」
 「蒼子、走るよ」
 「パンダちゃんかわいい!」
 蒼子はのんきに後ろを振り返って見ている。パンダはたしかにかわいい。でも目が黄色に光って追いかけてくるピンク色のパンダはかわいくないの!そう思いながら蒼子の手を引っ張って走る。
 呼び出された公園までもうすぐだったのに。今はあいつらをどうにかしなくちゃ。
 三人は猛ダッシュで走った。なんとかピンクのパンダを引き離すことができた。散髪屋さんの角を曲がってすぐの路地をまた曲がって、民家の裏手の細い抜け道を走る。
 このあたりは私たちの庭なのだ。サッチが先導して走っているけど現在地は私も把握している。
 蒼子も私も息が切れてきた。
 私達の様子を察知したサッチは電柱のそばで止まってくれた。ふふふ、察知したサッチだって…我ながらおもしろい。そんな事を考える余裕が少し出てきた。
 耳をすましてパンダ達の気配をさぐる。
 「匂いがするね」
 「うん、色の匂いがね」
 「こっちかな」
 「こっちだね」
 電柱の陰からそっと見る。
来た。パンダの足が見えた。
 「だめだ、サッチ。あいつら色を匂いで感じることが出来るんだ。しかも遠くからでも分かるみたい」
先に走るサッチの後頭部めがけて、なかば叫ぶように話す。
 「やっぱりこっちだ」
 「こっちだね」
 後ろを振り返るとパンダ達の姿がはっきり見えた。動きは緩慢で両手を前につきだしてやってくる。
 「サッチ、あいつら動きはわりとのろいよ。でも色の匂いをどうにかしなくちゃ逃げられないと思う」私はサッチに自分の考えを身振り手振りで必死になって伝えた。
色を消さなくちゃ。
 「マロ、私に考えがある。来て」
 サッチは走った。
 「さっちゃーん考えってなーに?考えってあるものなの?」
蒼子はのん気にサッチの言葉尻で遊んでいる。
 「真剣に走って」私は妹をたしなめた。
 「どうして?あのピンクのパンダさんと遊ばないの?」
 「ばか、あいつらさっき私たちのこと捕まえようってはっきり言ってたよ。捕まったら食べられちゃう」
 「ほんとう?パンダは笹しか食べないんじゃないの」
私は言葉に詰まる。
 「パンダは普通、白黒でしょ。あいつらピンクなんだよ。しかもしゃべるんだよ。だから普通じゃないってこと。もうだまって走って」
サッチの足取りは迷いがない。
 駄菓子屋に柴犬のフジノスケがいる。昼寝中だ。こんなことになるんだったら私も寝ている方が良かった。
 次の角を曲がる
 見覚えのあるアパートの敷地に入る。ここはサッチの家だ。
二階まで階段で駆け上がり角の部屋のドアに鍵をさす。
 ドアを開けて、体を室内に滑り込ませる。そして素早く鍵をかけた。
サッチの家は平日の日中には誰もいない。
 いつもサッチが一人で留守番をしている。サッチは玄関のコンクリート部分から躊躇なく靴のまま室内に入る。
 「土足で入ってきて。靴にも色が付いてるでしょ」
 廊下の突き当たりの部屋にそのまま入る。この部屋がサッチの部屋だ。私は何度もこの部屋に入ったことがある。
 とても女の子の部屋とは思えない。例えば壁に貼ってあるポスターは手と足に手錠がかけられた裸のおじさん(脱出王のフーデーニという人らしい、私はよく知らない)もともとモノクロのポスターだから今もモノクロのまま。
 人体の骨格標本。何故かコマネチのポーズで立っている。いや今はそれどころじゃなかった。
 ガチャリ
 うそっ、玄関のドアの鍵はかけたはずなのに。開いたドアの隙間からチラリとピンクの手が見えた。
 「はやくこっちに来て!」
サッチは声には出さずに私たちをベッドに呼んだ。
 私と蒼子はサッチのベッドに飛び乗る。サッチは両手を鞭のようにしならせて真っ白なシーツを広げた。
そのまま私達をくるみながら自分もすばやくシーツの中に入る。私達は呼吸をするのも苦しいくらい息を殺した。すぐそばをパンダが移動する気配がする。
 「おかしいな、たしかに色の匂いがしたのにな。急に匂いが消えたね」
 「そうだね、おかしいね。すぐそばだと思ったのに」
 「どうしようか」
 「どうしようか」
 パンダ達は黙った。その沈黙は永遠に感じられた。怖い。
 「こういうことじゃあないかなあ」
 長い沈黙を破ってパンダその1はパンダその2に、自分たちが納得するすばらしい思いつきを伝えた。
 「僕たちに悪いと思って色を身にまとうのをやめてくれたんじゃあないかな」
 「ああ、そうだよ。まったくそのとおりだよ。この世界で色を僕たち以外が使うなんてもってのほか、自分たちの身の程をわきまえたんだよ。きっとそうだそうだ」
 「じゃあどうしようか」
 「そりゃあ帰ろうよ。帰っておいしいラーメン作ろうよ」
 「そうしよう、そうしよう」
 ぱん!何かが弾けたような音がして、パンダ達の気配は消えた。
私達はパンダが消えたと思った。
 でも、実はパンダの罠でシーツから顔を出したらいやらしい笑い顔のパンダと目が合う恐怖を想像すると動けないでいた。
 どれくらいシーツの中にいただろう。10分か、20分か、はたまた1分かもしれない。
 「もうきっと大丈夫だよ」
 蒼子がこらえきれずにシーツをめくって立ち上がった。
 「だめだよ蒼子!」
 私はあわてて蒼子を押さえたがもう遅い。私もサッチも歯を噛みしめながら目をぎゅっと閉じた。もうだめだ、そう思った。静まりかえる室内。
 薄目を開けて部屋の中を見た。
 そこにピンクのパンダはいない。私とサッチは手を取り合って、ベッドの上に座り込んだ。
 「なんだか分からないけど、とりあえず助かったみたいね」
 サッチは自分の立てた作戦の思いもよらない効果に満足げにつぶやいた。
 そしてすっくと立ち上がって自分の本棚の前に立つと、一冊のノートを抜き出した。
 「実は私、このノートを取りに来たの」
 そのノートの表紙はサッチの手がさわった部分だけ、しばらくキラキラと光っていた。
 「そのノート変わってるね」
 「お父さんとお母さんが研究の息抜きで作った材質だって言ってた。原理も聞いたけどなんだか分からなかったの。それよりも書いてある内容が大事なの」
 「書いてある内容?」
 私は何の事か分らずおうむ返しに聞いた。
 「そう、内容なの」
 サッチはいきいきと話し出した。
 「去年の誕生日、ケーキの横にこのノートがあったの。困ったことが起きたら、読みなさいって二人から言われたわ。その時は真剣に聞いてなかったんだけど、そのノートの題名が、これだったのを思い出したの」
 サッチはノートの表紙を私に見せた。そこには「動かない世界と色のない世界」と書かれていた。
 その時、バックの中に入れていたスマホから「二十世紀少年」の曲が流れた。
 メールだ。事情の分からない蒼子は「ねえ、何の音?見せて。見せてくれないともう行かない」とだだをこね出した。
 「何でもないよ。ただのメールだよほらね」
 私はメールの内容を確認する前にキッチンに向かった。あるアイデアを思いついたのだ。突然の私の行動に二人はぽかんとしている。あるものを捜し当てた私はかばんに押し込んで部屋に戻った。
 私はサッチに見せながらメールを開いた。三人で必死に画面をのぞき込む。
 「遅いですねえ。待ちくたびれてます。あと5分でここに来ない場合、まあ時間は止まっていますから何だか変ですが、あと5分で私は消えます。それは永遠に時が動かないのと同じ意味です」
 しばしの沈黙。サッチは蒼子を背負った。
 「今、ノートを読む時間は無いわ。あの公園から私の部屋までの距離はギリギリ5分で間に合うかどうか。行くわよ」サッチは蒼子を背中に背負って駆けだした。
「サッチは凄いや。お姉ちゃんとは全然違うね」蒼子は嬉しそうだ。
(悪かったわね)そう思いながら、待って!と言いたくなったが、私もがんばって走った。あと5分しかない。
6分後に公園に到着してもそれは意味が無い。唯一のヒントが消え失せてしまう。世界が沈黙しては本当の本当に手詰まりになってしまう。
 あと4分。六十まで心の中で数えた数字を一に戻した。目安でもなんでも時間を計るしかない。
 サッチは階段を駆け下り、電柱に当たってもおかしくないくらいのギリギリで曲がる。背負っている蒼子の体重を全く感じない。私は自分の体の重みがうらめしい。足を踏み出しても前になかなか進まない。
また六十を数えた。
 あと3分。前方から蒼子の笑い声が聞こえる。そんなに離れていないところにまだサッチはいる。でも笑い声と「静かにして」と怒る声は遠ざかっていく。汗が吹き出る。もう走っているとはいえないスピードになってきた。でも歩くわけにはいかない。
 あと2分。もう数を数えるのはやめた。花屋さんの角を曲がれば公園だ。あと少し。
 公園が見えた。サッチが公園の中の砂場で立っているのが見える。サッチなら間に合ったはず。でもここから見てもサッチと蒼子の姿しか見えない。蒼子は滑り台の階段を上っている。
 ふと私に、疑問がわき上がった。はたして、この不思議な現象は現実に起こっている事なのだろうか?次の瞬間、何か目の前にチカチカとするものが見えたような気がした。今のは何かしら。
 メールの送り主らしき姿は見えない。心拍数がさらに早くなる。
間に合わなかったのかな…。
 サッチの横にやっと並んだ私は両手をひざにおいて肩で息をしながら話しかける。
 「誰かいた?」
 「誰もいなかった」
 誰もいなかったということは、間に合わなかったということ?ちょっとぐらい待ってくれてもいいでしょう。
 これで少なくとも私たちよりこの世界について知っているであろう人物の話は聞けなくなった。もしかして一生このまま?お父さんお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんと二度と話せないってこと?思考はぐるぐる回りだした。とたんに不安がおしよせてきて立っているのがやっとになった。
私は苦しくて地面の一点を見つめた。
ぽたり。
 えっ、私はどきっとしてサッチの顔を見上げた。声を殺しているが、サッチは泣いていた。
 「サッチ、メールに返信してみよう。送り主は絶対まだ近くにいるにきまっているよ。やってみようよ」
 私はサッチの涙を見て逆に冷静になることができた。なんとかしなくちゃ。
 手と足を使って鉄棒にぶら下がっている蒼子が視界のはしに入る。あの技は豚の丸焼きだ。出来るようになったのね。思わず泣きそうになる。
 私たちの異変に気づいた蒼子は走って来て、私達に見て見てと言うと、下を向いた。一拍の沈黙の後、おもむろに顔をがばっと上げた。蒼子の得意技「変顔」が炸裂した。私とサッチは吹き出して笑うしかなかった。
 そのとき、バイクの音が聞こえてきた。エンジン音がするという事はそのバイクは止まっていない。動いてる。
 私はサッチを見た。サッチは手の甲で涙をぐいと拭いてから音のする方に目をやった。現れたバイクは、新聞配達やそば屋さんの出前で使うようなバイクだ。
 トコトコトコとかわいらしい音を立てながらやってくる。男の人が運転している。オフロードで使うタイプのヘルメットをかぶっている。段差を乗り越えるショックを最小限にするためにスピードを殺していたが、段差を乗り越えたあとはふわふわといつまでも車体が上下する。そのバイクはずいぶんとオンボロのように見えた。
 公園の中にゆっくりと入ってくる。バイクの荷台には何かの木箱が乗っている。
 「サッチあの箱って紙芝居かな?」
 「あの雰囲気は紙芝居だね。でも紙芝居の箱にしては少し厚みがあると思う」
 たしかに紙芝居ならもう少し厚みの薄い箱が乗っているかもと思った。その男はエンジニアブーツに黒い革で出来たズボンを履いていた。上着がおじいちゃんが着ている下着のようなシャツ、そしてラクダの腹巻きを巻いている。ひもに結ばれた朱色のお守りを首から吊しているのが見えた。
 「メールの送り主かな、気をつけようね」私は緊張で口の中がからからになっている。冷たい緑茶をごくごくと飲みたかった。サッチもきっとそう思っているに違いない。
 さすがの蒼子も私達のそばに戻ってきて後ろに隠れた。そして首だけを伸ばしてそのバイクを見ている。
 三メートルほど離れた場所でバイクは止まった。その男はバイクのスタンドを「よいしょ」と言いながら立てた。
 そして荷台から黄金色に鈍く光るハンドベルを取り出した。ヘルメットの奥で光る目はまっすぐこちらを見ている。そして皮手袋をはめた手でベルを盛大に鳴らした。
 「人形劇が始まるよー、はいもう少し前に来てね」
怖い。そう思った。
コメント
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