「あなたがメールの送り主ですか」
サッチは毅然と聞いた。手がかすかにふるえている。
男はベルを地面に置いた。ヘルメットを脱ぐ。現れたのはボフッと音がしてもおかしくないくらい巨大なアフロの髪の毛。男は革のズボンのお尻ポケットから何かを引っこ抜いた。お好み焼きをひっくり返すコテみたいな形をしたクシをアフロに数度突き刺すようにして髪の毛をとかす。
額には極彩色のバンダナを巻いている。薄く口ひげの生えた口が動いた。
「そうだよ。だがそんなことはどうでもよい。待ちくたびれたのもどうでもよい。せっかくだから俺のかわいい人形を見てくれ」
男は手袋を脱ぎ、荷台に乗っている箱の下側にある引き出しを開けると、割り箸を二本手に取った。
それをこちらに見せながら、これまた引き出しの中にあった瓶の中につっこんだ。
取り出した割り箸の先には透明のどろっとしたものが乗っている。ハの字の形にしたままぐるぐると割り箸を回転させると、透明だったものが白くなっていく。
「はい」それをサッチの目の前に差し出した。
「知らないのかい。水飴だよ。昔はそれをなめながら紙芝居を見たもんだ。昔を懐かしむってやつだ。ちなみに俺の名前はカブ。カブに乗ってるからな」
カブがサッチに水飴を渡した。サッチがその水飴を手に取る。無表情のまま次々と水飴製作を続けたカブは私と蒼子にその水飴を手渡した。サッチと私には、このカブと名乗る男から貰った水飴をなめる勇気は無い。蒼子はものすごい勢いで口の中に割り箸を放り込んでなめた。
「ちょっと蒼子!」
思わず私は蒼子をたしなめた。
「おねえちゃん、これ甘くておいしいよ」
カブは黙ったままサッチと私をじっと見ている。水飴をなめるのか、なめないのか。なめないのなら話は進めないというような無言の圧力を感じた。サッチと私は顔を一瞬見あわせた後、固く目をつむって食べた。
水飴は思いの外、さらりと口の中で溶けた。甘い。満足げに見届けたカブはくるりと回れ右をして箱に手をかける。
「さあ、さあ、本日はようこそカブ劇場におこしくださいました。サッチ様、マロ様、蒼子様ありがとうございます」
「ちょっと、質問があります」
サッチはカブの話が終わるか終わらないかのタイミングで口を挟んだ。
「なんだいサッチ君」
「今、何が起きているのか教えてください」
「それいい質問。まあ、俺も全部理解してるわけじゃあない。俺が言えるのはおぼろげなヒントだけ」
カブは両手の指をゆっくりと組んだ。そのまま、手首を回す。もったいぶった間をあけてから続けた。
「目の前の現象は起きているけれど、起きていないかもってこと」
「どういうこと」
私は慌てて声を出した。
「どういうことなんですかいな」
蒼子は何も分からず私のまねをしている。でも彼女の頭も少なからず混乱しているはずだ。サッチはその答えを聞いて、こぶしをギュッと握ってくいさがった。
「それじゃあ分からない。はっきり教えて欲しいし、そもそもあなたは何をしに私たちの前に現れたの」
「それもいい質問。俺の考えではないというのは何となくわかるだろう」
私はカブの言葉を一文字づつ真剣に聞いて、噛み砕いた。そしてそうかもしれないなと思えた。この男には思考が感じられない。カブは私がそんなことを考えているとは思っていないのであろう、咳をひとつしてから、どうだという表情で続ける。
「悩んでいるボスからの指示でお前らの前に現れたまでだ。だからこれ以上俺に聞くな。だまってカブ劇場を観覧してくれれば俺の役割は終わり。帰って酒を飲む。それだけだ。じゃあ始まり」
私達は強引に黙らされた。そして強制的にカブ劇場が始まった。
カブは荷台に乗っている箱の観音扉を開けた。幕が現れた。朱のビロードの布地に金糸で子鹿と小鳥達が戯れる刺繍が施されている。カブがひもを引くと幕は左右に分かれた。箱の内部にはスピーカーが設置されているらしく唐突に「天国と地獄」の曲が流れてきた。
「サッチ、この曲知ってる?」
私はカブが準備のためにバイクの後ろでごそごそしている間にサッチに聞いた。
「知ってるよ運動会のかけっこの時に流れるやつでしょう。なんでこの曲なの」
サッチは困惑している。わたしも困惑している。
「ボスって言ったよね。そのボスは私達をわざわざ選んでこの状況に追い込んでるよね」
「うん」サッチは頷く。カブはまだごそごそと準備をしている。カブの様子を伺いながらサッチに聞いた。
「何か心当たり無いの」
サッチは一点をみつめたまま言った。
「さっきのノートあるでしょう。マロは私の親が科学者だって知ってるでしょ?」
私の沈黙をイエスと判断したサッチは続ける。
「どうも、その事と関係あるみたいなの」
そのときカブが怒鳴った。
「おい、私の劇場で私語は禁止だ。集中しろ!」
「すいません」
私たちは黙るしかなかった。
舞台にはいつの間にかマリオネットの人形が二体立っていた。
人形の一つはチノパンに白いシャツを着た青年。もう一つはジーパンに同じく白いシャツの女性。満開の桜と池が描かれた背景の前に立っている。二つの人形の距離から想像するとカップルの人形に見えた。「天国と地獄」の曲がリピート再生されている。曲の騒々しさとは裏腹にカブはささやくような声で語りだした。
「時は現代から二十年ほどさかのぼります。世紀末と言われた時代。ノストラダムスの大予言がまことしやかに世の中では流行しておりました。ここは桜でも有名な上野公園。関西生まれの青年と埼玉のお嬢さんが出会ってデートをしております」
私はカブの説明で、あの二体の人形が若い頃のお父さんとお母さんだと判った。
そう思ったとき、蒼子は元気よく声を張り上げた。
「あの人形は、父ちゃんと母ちゃんだね」
「蒼ちゃんはえらいねえ。よく気づいたね。そうだよお父さんとお母さんだよ。」
カブは人形をほっぽりだして蒼子の前に来て、しゃがみこんで言った。そして慌てて人形の所まで戻った。
「この二人の先を見てみようか。おやおや、見てください。さっきまではあんなに仲良さそうだったのにケンカをはじめたよ」
マリオネット達は激しい口論をしているように見える。そして背を向けて舞台の左右に別れてしまった。カブは再び蒼子の前にしゃがみ込んで顔をのぞき込みながら猫なで声をだした。
「お父さんとお母さんに会いたいかい?」
「うん、会いたい」
泣きそうになりながらカブの目をまっすぐに見て蒼子は叫んだ。
「そうだろうねえ。よし、カブおじさんが会わせてあげる」
私は耳を疑った。こんな手の込んだ事をする男が素直に会わせてくれるはずがない。何か裏があるに決まってる。
「ただし、うちのボスからの指令があります」ほらきた。私の予感は的中した。
そう抑えた声でつぶやいたカブは右手の親指と中指をパチンとならした。そのとたん私の視界は徐々にピントがぼやけた。足元の感覚も薄れてふわふわしてきた。
そして自分の異変に気が付いた。
私、縮んでる。どうなってるの?
私と蒼子はだんだん小さくなってマリオネットが立っている舞台に吸い込まれた。
カブは私に何をしたの?。そう思っていると視界が桃色一色になった。桃色のふろしきで頭からすっぽり覆われたかと思った。ぼやけた視界がはっきり見えてきた。気持ちのいい風が吹いている。
私は桜が満開に咲き誇る、大きな銅像の前に蒼子と一緒に立っていた。銅像は寸足らずの和服を着て、犬を連れている。銅像の前を人々が思い思いに行き交う。この大きな銅像を私は知っている。上野の西郷さんの像だ。
皆の手にはガラケーが握られている。スマホを持っている人は一人もいない。昔のゲームのようなピコピコとした音色の着信メロディがあちこちでひっきりなしに鳴っている。
マッチ箱みたいな箱を手に公衆電話ボックスに走り込む女子高生もいる。十円玉を数枚電話に流し込んだあと、恐ろしい早さでボタンを押している。何をしてるのかな。目の前で展開される景色に私はとまどいながらも、当たり前の疑問が頭に浮かんだ。ここはどこなのかしら。もしかして人形劇の中の過去の世界?現実離れした推理だが、今となっては何でもあり得る。でもサッチがいないのはどうしてだろう。
「サッチの事が心配かい」
空から突然聞こえてきた、カブの声があまりに大きくて、思わずきゃっと声がでた。
「サッチに何をしたの」
蒼子は私の足にしがみついて震えている。私はカブがどこから話しているのか声のする方を探した。
「何もしていないよ。ただ君達には君達の選択、サッチにはサッチの選択をしてもらうために別れてもらった」
カブが何か話す度に地響きが起こり空気が震える。分かった!目の前の西郷さんの銅像が話しているんだわ。西郷さんの顔はいつの間にかカブの顔に変わっていた。銅像は銅像ではなくなり、その巨体がゆっくり動いた。同時に足元にいたライオン並の大きさの愛犬はドスンとジャンプしてよだれをまき散らしながら走り去った。カブは右手を少し上げて犬を止めようとしたが無駄だった。
「あなたの飼い犬じゃないでしょう」わたしはほぼ真上を見上げてカブを睨んだ。
カブは犬の後ろ姿を見送りながら少し悲しそうな表情を浮かべる。
「そうだな、本当の飼い主を探しに行ったのかもな」そしてあきらめたように私を静かに見下ろした。巨大なカブの顔が下を向くだけで私に降り注いでいた太陽の光は遮られた。
「首が痛い」そうカブはつぶやいた後、ゆっくりとした動きで右手を持ち上げ、器用に指をならした。拍子木を打ったかのような鋭い音がエコーを伴って鳴った。私と蒼子は耳を手でふさいだ。残響音はいつまでも続いている。カブは自由の女神像のように右手をあげたままの姿勢を保っている。巨人のカブは私を見下ろし、私は見上げている。最初は錯覚かと思ったが、私のカブを見上げている視線が下がってきている。カブが小さくなっているんだわ。しかもおじさんだったカブが身長が小さくなるにつれて若返っているように見える。お兄さんになったカブの背丈はまだ縮む。とうとう私と同じ身長になったカブは同級生の小学生に見える。私は変幻自在のカブに驚いた。でも、言わずにはいれなかった。
「どういうこと!」
「度肝を抜いてやろうと巨人になったはいいが、君と話す時に下を向くから首が痛くなった。これは都合が悪いってんで、普通の大きさに戻ろうと思ったんだけど、おっさんと話すのも話しにくいかなと思って子供になってみた。どう話しやすい?」
「どんな姿でも話しにくいわ」
「まあ、いいや。とにかく一個ずついこうか」カブは手を後ろ手にしてくるりと回転した。ジーンズのオーバーオールに赤色のギンガムチェックのシャツを着ている。外見は子供だが仕草の端々におやじが入る。でも子供の愛らしさを演じて楽しんでいるように見える。
「ところで俺の後ろをみてくれるかい」カブは親指を立てて後ろをくいっと指差した。桜の下でチノパンに白シャツの男の人とショートカットの女の人がもめている。
「お母ちゃんと、お父ちゃんだ!おーいっ」
蒼子が騒ぎ出した。カブが慌てて蒼子の目の前で人差し指を口元にまっすぐ立てて「しー」をした。
「そうだよ。若い時のお父さんと、お母さん。でもケンカしてるねえ。実はこのケンカがきっかけで二人は別れることになるんだ」
「そんなの嘘。お母さんとお父さんはちゃんと家にいるもの」
「そうだねえ、灰色の世界が始まるまではたしかにそうでした。でも新しい未来が始まっているのです。」
カブはくるくるとその場で回転した。
「そんな未来は困るだろう。だって二人が結婚しなくちゃ君たちはこの世に存在しないことになるからねえ。だから何とか二人を仲直りさせて欲しい。そうすればハッピーでしょう。でも私にも楽しみが欲しい。私の楽しみは選択、もしくは決断の観察なの」
「選択?」私たちは口をそろえて聞いた。
「そう、選択。今回の選択肢は二択です。選択肢その一。ケンカを止める、あなた達二人は存在する。でもサッチには消えていただきます」カブはそう言い放った。サッチが消えるとはどういう意味なのだろう。カブは私の反応などお構いなしに続けた。
「選択肢その二。ケンカを止めない。今日のことがきっかけであのカップルは別れる。そうすると必然的にあなた達二人の存在はなくなる。でもサッチは存在する。さあ、選択して。でも心配しないで。俺がパチンと指を鳴らせば、誰でも簡単に苦しむことなく一瞬で消せるから」
カブの口元はつり上がり耳まで裂けていた。目の前のカブはいつの間にか恐ろしい形相に変化していた。
私は恐怖のあまり言葉を失った。蒼子は私の足にぎゅっとしがみついている。
そのころサッチは暗闇に一人立っていた。ほの青く光る丸い物体が宙に浮いている。起きているのか眠っているのか分からない不思議な感覚。昔、感じたことがあるような…。どこだったろう。私は光球を見つめた。光球の中で十六対四の比率の四角が現れる。その中に映像が現れた。ヘルメットを被った幼児。そのヘルメットからは青色や赤色、緑色の無数のコードが延びて一台の機械に接続されている。「サッチ」「どうだい何か見えるかい」お父さんとお母さんの声が聞こえた。これは私だわ。光球の映像は続いて三歳ぐらいだろうか、もう少し大きくなった子供が映った。幼い頃のサッチだった。幼いサッチはコードが伸びたヘルメットをかぶって絵を描いていた。
「魔法使いと、お姫様と王子様を自分で想像して描いてごらん」
画面の外から父の声がした。
大きな画用紙を前にして、少し考えた後、幼いサッチが絵を描きだした。
するとどうだろう。コードにつながれているパソコンのディスプレイ上にも同時に絵が描かれ始めた。だがサッチの描く絵よりは、魔法使いもお姫様も王子様も上手に見えた。
「ほう、サッチよりルールの方が上手だね。サッチが教えて学習してるのにね」と父が興奮気味に画面の外でつぶやいている。
ルールとは何だろう。
サッチが教えているとはどういう意味なのだろうと、サッチは思っていた。
光球は輝きを無くし、辺りは再び漆黒の闇に支配された。
「マロ、蒼ちゃん。どこにいるの」声はむなしく闇に吸い込まれる。
「私は悩んでいる」荘厳で落ち着いたテノールの声が響きわたった。
「だれ」サッチは狼狽しながらその一言だけを口にするのがやっとだった。
「私は悩んでいる。答えのヒントをくれないか」
サッチに向かって歩く人影が現れた。一歩進むと、足跡が青く光る。サッチは足跡のわずかな光でその人影を見つめた。しかし、いくら目を凝らしてもどういう姿をしているのか分らない。一歩進む度に人型であったシルエットは崩れ、獣を思わせる四つ足にもなり、蛇のような細長いものにも変化した。
その物体はとうとうサッチの目の前に立った。サッチは人型になった物体の顔を見た。表情は読めない。でもそれはハリウッド映画のヒーローみたいにかっこよく見えた。
「カブが言っていたわ。あなたはカブのボスね。マロと蒼ちゃんはどこにいるの」サッチは詰め寄った。
「私の名前はルール。君が言ったようにカブは私の部下だ。そして二人には私の悩みを解き明かす手助けをして貰うためにカブの世界にいる。今は、まだ生きている」
ルールの返答にサッチは頭を殴られたような衝撃を感じた。立っているのがやっとだった。
「今は生きてるって、どういうこと?私たちの日常を壊してまで探る、あなたの悩みはそんなに大事なことなの」
「そうだ、私の存在にかかわる問題なのだ」
ルールの口元だけがかくかく動いた。
「どっちを選ぶか決まったらスマホで電話してくれる?すぐ飛んでくるから。それじゃあね」先っぽが矢印の形のしっぽを生やした姿になったカブは背中の翼で真上に飛び、一瞬空中で停止した後、ぴゅーんと飛んでいってしまった。
どうしたものか。父母は相変わらず桜の木の下で激しく口げんかを続けている。
「すっごくけんかしてるね」蒼子はとととっと小走りで走っていった。
「ちょっと待って」私も追いかける。それにしても満開の桜の中、何をそんなにケンカしているのか。
「あなたが調べておくって言ってたじゃない」
「俺そんなこと言ってない。だいたい今日行くって約束した?」
「言ったよ。おいしい団子屋があるから団子を買ってきてこの公園で食べようって言ったのあなたでしょう」
「覚えが無い。それに、よく考えたら団子が買えなくてもどうでもいい事だろ!」
「どうでもいいってどうでも良くない。そういう所が私、心配になる。一言、言い返したらそうやって興奮するでしょう。そんなの怖くてつき合えないよ」
「団子の話だよね!」
「団子の話じゃあないわ」
「ケンカはやめなさーい」蒼子が両手を大きく振りながら二人の間に割って入った。私も蒼子を習って両手を振って間に入った。
父は私たちを見た。目を三角にして怒っていた父が冷静になるのを感じた。
母も私たちを見た。慌てて取り出したハンカチで涙ぐんだ目を押さえた。
「ごめんねえ、私達がおっきな声を出してびっくりさせちゃったのね」と母はやさしい声で言った。いつもならだみ声で怒鳴りつけられてる所だ。私が何者なのかは当然分からない。
花びらの舞う中で若者の母の顔をまじまじと見た。しわもしみも無く美しい。
「きれいですね」私は思わず言った。
「この子はおもしろいこと言うね」父が声を発した。若かかりし頃の父の髪型は、どうしちゃったのかしらというぐらい逆立っていた。冗談でよく言っていたパンクでロックの精神というものなのかしら?いやそんなことを考えている場合では無い。二人の心を落ちつかせるのが先決だ。
「蒼子あれやって」おもむろに私は蒼子に指示をだす。あうんの呼吸とはこの事だと感じた。蒼子は下を向いて肩をふるわす。父母は「どうしたの」とうろたえた。その瞬間、蒼子は元気よく顔を上げて父母をみる。両手の人差し指で目頭を下げる、両手の親指で口元を上げる。変顔が炸裂した。険悪だった二人は爆笑するしかなかった。
「私たち実はあなた達の子供なんです」私は唐突に伝えた。
ルールの瞳は微動だにしない。一点を見据えたまま、早口でまくし立てる。
「存在するってどういう状態なんだろう。実体は必要なのだろうか。すべてをデジタルに置き換えても思考さえ存在していれば実体は不要なのではないのか」
「何に悩んでいるのか、分らないんだけど。だいたい、なぜ私だけをあなたの前に呼び寄せたの?」ルールが熱く語っているのを途中で制してサッチは口を挟んだ。
「青く光る球を見ただろう」
「見たわ」
「コードでつながれた自分を見ただろう」
「それも見たわ」
「そういう事だよ」
「分からない」
「分からないかい。私はルールだよ。世界を管理できる思考を得た実体のないもの。簡単に言うと君を先生として私は育った。そして自分の思考をひねり出せる領域に達した人工知能になれた。君のお父さんお母さんが私を作り出した。サッチ、君は、私の先生なのだから答えを出すために一緒に悩むのは当然じゃあないかい」サッチはぐらりと体が揺れた。
ルールは続ける。
「マロも蒼子も君もこの色の無い、時間の止まった世界に来ただろう。現実世界でそんな事が起きると思うかい。いつからが現実で、いつからが架空の世界なのか分からないだろう。それはマロも蒼子もすべての人も今、同じ状況なんだ」
サッチは唇を強く噛んでルールの話を聞いていた。
「私は完璧なものしか受け付けない。不完全な人類はぶっちゃけ必要なのかっていうこと。そこに悩んでいる」
サッチは素早くノートを取り出して急いで読み始めた。
「おやおや、一夜づけの暗記のような悪あがきですね。私はあなたであって、あなたは私なのですよ。何をそんなに焦る必要があるのです。あなたがいなくなっても私がいます。安心してください」
サッチの手が止まった。
ページの一点を凝視する。
私の後ろでは父と母が激しく口論している。蒼子は下を向いて黙って私の手を握っている。
父母との話し合いは失敗した。鞄からスマホを取り出して発信ボタンを押した。電話の呼び出し音が聞こえる。三回、四回、相手の応答は無い。呼び出し音がむなしく鳴るだけだ。相手が出た。「ふぁーい」
「カブ、あなた寝ていたでしょう」
あくびを隠そうともしないカブの無関心さに腹が立った。
「カブ。後ろの声が聞こえる?ケンカを止める事は出来なかった」私は口がからからに乾いていた。その後に続く言葉をやっとカブに伝えた。
「だから私と蒼子を消して」
「それが、君たちの選択でいいんだね」
「そうよ。だからサッチは消さないで」
「おやすいご用さ」パチンとカブは指をならした。公園の芝生の上で横になりながらスマホで話していたカブは指を鳴らした後、通話を切ってつぶやいた。「そっちの選択ですか」
ぐらり
バイクが傾くのがスローモーションの様にカブには感じられた。でも実際はカブに向かってバイクが倒れこんだ。カブの足首に激痛が走る。
倒れたバイクの後ろに二つの人影があった。「なんで」カブは信じられない光景を目の当たりにしてつぶやいた。
真白と蒼子が手をつないで立っていた。でも二人の片足はそれぞれキックの状態で止まっている。そう二人のキックをおもいきりバイクにぶちかましたのだ。
「なんで、お前達そこにいるんだ。ルールが正しければお前たちは消えているはずなのに」カブは明らかに動揺している。
「父母は仲直りしたのよ」
「そんなバカな。激しく言い争う二人の声が聞こえたぞ」
「だから、電話の時のケンカはあなたをだます為のお芝居なの。父母も最初は私の説明が飲み込めなくてちんぷんかんぷんだったけど、これを見せたらすぐに話を聞いてくれたわ」
私は本を鞄から取りだして、その本に挟まっているものをカブに見せた。
「それがどうした。ただの、しおりだろ」
「そうよしおりよ。これは自分で作ったものなの。この前家族で行った遊園地の写真を入れてしおりを作ったの。この遊園地の記念撮影用の看板には行った当日の日付がブロックで描かれている。お父さん達はびっくりしてたけど、目の前にいる私達が、未来の自分達の子供なのかもしれないと信じてくれたの」
カブは立つことも出来ずうつむいてぶつぶつと何かつぶやいていた。
私はカブをもっと困らせてやろうと思って、地面に落ちていたいくつかのマリオネットを気づかれないように自分のポケットに押し込んだ。
「なんてことをしてくれるんだ。あのパチンはボスから許可してもらったたった一回だけのものだったのに。どちらも消えていませんでは俺がボスに消される」
「何をぶつぶつ言っているの。さあ、早く私たちをサッチの所へ連れて行きなさい。さもないとその足の上にいろんなものを投げつけるわよ」私はとりあえず鞄をふりかざした。
カブは慌てて逃げようと手で地面をつかんで何度か体をよじった。しかし動きを止めた。
「本気で俺を怒らせたな。お前たちに罰を与えよう」怒りをおさえた静かな口調でカブはポケットから何かを取り出し、ごそごそと手の中でそれをいじくっている。
そして手の平で隠すようにそっと何かを地面に置いた。カブはニヤリと笑うと手の平をどけた。そこにはピンクのパンダのマリオネットが二体、肩を組んで立っていた。私はそれを見て蒼子に言った。
「逃げるのよ蒼子」
「なんで逃げるのおねえちゃん。ただの人形でしょう」
私は蒼子の手を引き、くるりと向きを変え走った。振り返るとむくむくと大きくなりつつある二匹のピンクのパンダが見えた。
「またあいつらだね」パンダその1が言った。
「うんそうだね。しかもあつかましくまだ色を自由につかっているね。許せないね」
ピンクのパンダ達はもんどりうつように絡まりながら追いかけてくる。しかもさっき見たときより、ひとまわりもふたまわりも体が大きく、筋肉質になっていて、パンダの愛らしさは無くなっていた。パンダとの距離は十メートルも離れていない絶体絶命だ。パンダが自分の行く手を邪魔する鉄棒に右手を振り下ろした。鈍い音と共にあっけなく鉄棒は飴の様にぐにゃりと折れ曲がる。カブも足を引きずりながら私達を追いかけている。私はただ真っ直ぐ走った。建物の角を曲がって、身を隠しながら鞄に手を突っ込む。神様、一瞬だけあいつらの目をそらして。お願い。そう願った。その時白い大きな一群が私の視界を遮りピンクのパンダとカブを覆った。白鳩の大群が彼らの周囲を飛び回っている。今だ。私は鞄の中から手を引き抜き、握りしめたものの封を引きちぎり、素早く自分と蒼子に頭の上からぶちまけた。
「お姉ちゃん何するの」
「いいからお姉ちゃんを信じて!」
サッチの家で拝借した小麦粉を頭から被った私たちは真っ白になった。
「あれ、色の匂いが消えたぞ」パンダは白鳩を手でかき分けながらきょろきょろする。
「そうだねえ、おかしいねえ」
ピンクのパンダ達はモノトーンになった私たちが見えなくなっている。私は蒼子の手を強引に引っ張ってパンダに向かって走った。パンダとの距離がどんどん近づく。
「目の前にいるぞ!分からないのか、このピンクブタ!」カブがパンダの背後から怒鳴る。私はポケットから取り出したものを頭上に掲げる。カブが大事にしているマリオネットだ。マリオネットをカブにじっくり見せつけながら私は右往左往しているパンダの足元に置いた。
パキン
マリオネットが壊れる音がはっきりと聞こえた。
ピンクのパンダは動きを停止した。
「今、なんて言いましたか」パンダの瞳にすっと怒りの色が入る。
「ブタって言ったぞ。しかもピンクブタって。許せない暴言だぞ」
二匹のパンダは私達を探す事をやめた。カブとの距離をじりじりと詰める。
「俺の心血を注いだマリオネットをお前、今、破壊したぞ。分かっているのか」カブは足の痛みに耐えかねて地面に突っ伏している。それでもパンダ達を睨みつける瞳には力がみなぎっている。カブが右手を上げて振った。真っ赤な炎がパンダ達に延びた。パンダは炎を避けて左右からカブに覆い被さる。カブ、パンダ二匹が一山になった。その瞬間、巨大な火柱がその場に轟々と立ち上がった。
「ボス!お待ちください」カブがうろたえて叫んだ。
空中から地面を震わす声が聞こえた。
「もう待てない。お前は手下のパンダと一緒に焼き払うことに決めた。問題は私が直接解決する。カブごくろうだった」この声がカブの言っていたボスなんだわと私は思った。
私と蒼子はただ呆然と立ち尽くした。火柱の消えた後には人形が三体折り重なるように倒れていた。遠目に見てもそれはカブとピンクのパンダの人形だった。ボスと呼ばれる人物にいいように操られていたのかと思うと自然と涙があふれた。歩き始めた私に蒼子が聞く。
「お姉ちゃん、大丈夫?どこにいくの」
「わからない」
もう本当にどうしたらいいのか分からない。サッチ助けて。そう思った次の瞬間私の足が消えていった。もうどうなるの。
サッチはノートから目を上げてルールを見た。
「ルール、あなたは私に相談したいんだよね。だったらまず、マロと蒼子ちゃんを戻してくれる。話はそれからよ」サッチはぴしゃりと言い放った。
「サッチ、私に交渉をもちかけるのですか。おもしろい。交渉出来る立場にあなたはありません。おっと、カブの世界で動きがありました。今いるこの世界は私が作ったデータであるという事にマロさんは気づいたようです。うかつにもマロさんにデータの心臓部への侵入を許してしまいました。データを書き換えて登場させた、あの鳩の一群はすばらしかった。それなりに問題を解決したようなので、いいでしょうマロと蒼子ちゃんを戻しましょう」ルールの目が青く光る。ルールの横に大小の靴が二足、ファックスが送られてくるように徐々に現れた。次に靴を履いている足が現れた。
私はきょろきょろとあたりを見回す。蒼子の手を私はぎゅっと握っている。蒼子も周囲を見まわしている。目の前にサッチが目を輝かせて立っていた。私は思わず走りよって抱き合った。
「サッチ大丈夫だった?」
「うん私は大丈夫。大丈夫だから」自分に言い聞かせるようにサッチはそっと私の肩に手を乗せてささやいた。でも私はなにやら得体の知れない物体がいることに気づいて飛び上がった。恐る恐る小声で聞く。
「サッチ、あの物体はなに?」
「この世界のボスよ。名前はルール。そしてルールはルールであって同時に私でもあるの」
「サッチどういう意味?あの人向こうが透けて見えるよ。大丈夫なの」
「大丈夫よ実体のないものだから。私にまかせて。ところでマロ、蒼ちゃん」
「なーにサッチお姉ちゃん」サッチはしゃがんで蒼子の目を見つめた。
「いい、今からお姉ちゃんの言うことをよく聞いて。一度しか言わないよ。分かった」
「うん分かった」蒼子は頷いた。サッチ、何が始まるの。
「ハイはバナナ、イイエはゴリラよ。分かった?」
「おい何をごちゃごちゃやっている。お前の言い分はそれだけか」
「ルール、人類が必要かどうかだったわね」
「そうだ」
「正直、分からない」
「分からない?」
「そう分からない。だから人類代表として運で決めるわ。お守りのコインを使ってコイントスをする。相談なしに三人同時にコインの表か裏かを言い当てる。全員正解したら私達を元の世界に戻す。そして人類は必要なものだと認めること」
「サッチそんなの無理だよ」私はサッチの肩を揺らして泣きそうな顔で叫んだ。
「大丈夫。バナナとゴリラよ」サッチは私の顔を真剣に見つめた。
「いいだろう。その提案に乗ろう。しかし条件を上乗せさせてもらおう。二回連続だ」
(サッチどうするの)私は口には出さなかったがそういう目でサッチを見つめた。
「いいわ」
私は天をあおいだ。ルールは肩をゆらして笑っている。
「こっちが表で、こっちが裏よ」
サッチはお守りのコインをポケットから取り出してルールに見せた後、私達にも見せて指さしながら言った。
「こっちが表で、こっちが裏よ」
私と蒼子はサッチの手に乗っているおもちゃのコインを見た後、顔を見合わせた。
「分かった」私と蒼子は首を縦に振った。
「ショウタイムだ。さあ、始めてもらおうワクワクするな」ルールは首をすぼめながら揉み手をしている。ボスの風格は消え失せ、そこらにいるおじさんの様な振る舞いに私は本当に腹が立った。サッチは無言であっけなくコインを右手で宙に投げ、器用に空中でその右手でコインをつかんだ。そして握りしめたまま手の甲を下に向けて、ぐいっと私達の前に突き出した。
「どっち?」サッチは足を肩幅にひろげて踏ん張っている。私は唾を飲み込み息を飲んだ。
「蒼子、サッチいい?」
「いいよ」サッチがうなずく。
「分かった。いいよ」蒼子も状況を理解しているようだ。
「せーの」三人が同時に叫ぶ。
「表!」
「表!」
「おもて!」まずは全員の意見が一致してほっとした。問題はコインだ。サッチがゆっくりと手を開く。
コインはサッチの手の平の上。表をむけていた。
(やった)勝負はまだ途中だ。私は心の中でガッツポーズをした。
「正直君たちの運のよさに驚いたよ」ルールは余裕だ。ルールは本当に約束を守るのだろうか。
「さあ、もう一度よ。みんな集中して」サッチは私達を見回した後、左手でコインを投げた。光を反射してクルクルと回転しながらコインは真上に舞う。サッチはまた投げた左手でコインを左手の中に閉じこめた。そして先ほどと同じく、手の甲を下にして突き出した。
「どっち?」サッチは足を閉じて踏ん張っている。私は奥歯を噛みしめた口を開いて叫んだ。
「せーの」呼吸を合わせたかのように同時に叫んだ。
「裏!」
「裏!」
「うら」
サッチが左手をゆっくりと開く。コインに描かれた絵は裏を示している。やった。私達は声にならない声で喜んだ。
「さあ、私達の勝ちよ。手を引きなさい」サッチが嬉しい気持ちを抑えるかのように静かな口調で言った。
「そうだな。まあ、こんなお遊びは本当はどうでもいいんだ。じゃあ、これにて人類の生命線であるすべてのデータを消去します。世界はパニックに陥りますがまあ、いいでしょう」
「やっぱりね」サッチは諭すようにささやく。
「やっぱりとはどういう意味かな」ルールに動揺が伺えた。
「やりなさいよ。どうぞご自由に」
「いいのか、そうか、わりと往生際がいいんだな。それともすべての重要なデータが消失してしまった世界が想像できないのかな」ルールは存在しないボタンを押すように突き出した親指を曲げた。その表情は満足げだ。
「あれ」
「どうしたの」焦るルールを見てサッチが指摘する。
「何もおこらないでしょう。だってあなたは私なんでしょう。すなわち設計者は私の父母なんでしょう。あなたの活動停止コマンドを今、実行したわ」
「活動停止コマンドだと」
「そう。今のコイントスの一連の行動があなたの活動を停止する命令だったの。このノートに書いてあった」サッチは自分の部屋から持ち出したノートを見せた。ルールはがっくりと肩を落としている。
「そうか、やはりお前を越える事は出来なかったか。この十年、私の開発が進むにつれて何でも出来るような気持ちになった。まるで自分が神に近づく気持ちだった。でも先生であるサッチお前の存在は越えられないようにブラックボックスの中に入れられていた。お前を越えられないのなら周囲のシステムを破壊して存在を消してしまえと思った訳なんだが、はは、でも最後にお前と話すことができてよかった」
ルールの姿は次第に透明になって消えた。
サッチはあっけらかんとしている。
「さあ、これで戻れるはずよ」
「何がどうなってるの?」
「後でゆっくり話すわよ」
サッチは三枚のコインを感慨深そうにじっくり見ている。一枚目のコインの表にはバナナ、裏にはゴリラが描かれている。二枚目のコインは両面がバナナ。三枚目のコインは両面ゴリラが描かれている。表裏の説明は一枚目のコインを使った。コイントスの時には両面が同じ模様のコインを投げたのだ。サッチはノートをパラパラとめくって張り付けてあった封筒にコインを戻した。
私は目を開けた。天井が見える。真っ白な空間。リノリウムの床にしつらえてある固めのシートに横になっている。右には同じ形のシートにサッチが、左のシートには蒼子がいてキョロキョロとあたりを見回している。思い出した。ここはサッチと一緒に忍び込んだ仕事場だ。ピカピカ光っていた機械の点滅はすべて消えていた。
隣の部屋で心配そうに見ている、お父さんお母さんと目が合う。二人とも泣いている。悪いことしちゃったな。でも結果的に人工知能「ルール」の暴走を止めたんだから良しとしてもらおう。
そう私は思った。
後日聞いた話では遠足の出発時間になっても到着しない私達を心配してまず親に連絡が入った。蒼子がいなくなって大騒ぎしているまっただ中にその電話がかかってきて、もうおじいちゃんもおばあちゃんも、お母さんも、お父さんもパニックになったらしい。こっぴどく怒られるのも当たり前だ。
「今日はいい天気でよかったね」私はスキップしながらサッチに話しかけた。
「本当ね」サッチもスキップしている。
蒼子はサッチと私の真ん中にいて、両手をつないでご機嫌だ。
今、私達は親と一緒にみんなで、結局行けなかった水族館に向かっているのだ。
水族館のゲートが見えてきた。この信号を渡ればもうすぐだ。
その時、木箱を荷台に乗せたバイクが目の前を通った。
私は思わずバイクの後ろ姿を見た。エンジニアブーツに黒の革で出来たズボンを履いた人物が見えた。ヘルメットからアフロが少しはみだしている。
(カブさん)私は心の中でつぶやいた。
バイクに乗った人物がこちらを振り返ってウインクしたような気がした。
サッチは毅然と聞いた。手がかすかにふるえている。
男はベルを地面に置いた。ヘルメットを脱ぐ。現れたのはボフッと音がしてもおかしくないくらい巨大なアフロの髪の毛。男は革のズボンのお尻ポケットから何かを引っこ抜いた。お好み焼きをひっくり返すコテみたいな形をしたクシをアフロに数度突き刺すようにして髪の毛をとかす。
額には極彩色のバンダナを巻いている。薄く口ひげの生えた口が動いた。
「そうだよ。だがそんなことはどうでもよい。待ちくたびれたのもどうでもよい。せっかくだから俺のかわいい人形を見てくれ」
男は手袋を脱ぎ、荷台に乗っている箱の下側にある引き出しを開けると、割り箸を二本手に取った。
それをこちらに見せながら、これまた引き出しの中にあった瓶の中につっこんだ。
取り出した割り箸の先には透明のどろっとしたものが乗っている。ハの字の形にしたままぐるぐると割り箸を回転させると、透明だったものが白くなっていく。
「はい」それをサッチの目の前に差し出した。
「知らないのかい。水飴だよ。昔はそれをなめながら紙芝居を見たもんだ。昔を懐かしむってやつだ。ちなみに俺の名前はカブ。カブに乗ってるからな」
カブがサッチに水飴を渡した。サッチがその水飴を手に取る。無表情のまま次々と水飴製作を続けたカブは私と蒼子にその水飴を手渡した。サッチと私には、このカブと名乗る男から貰った水飴をなめる勇気は無い。蒼子はものすごい勢いで口の中に割り箸を放り込んでなめた。
「ちょっと蒼子!」
思わず私は蒼子をたしなめた。
「おねえちゃん、これ甘くておいしいよ」
カブは黙ったままサッチと私をじっと見ている。水飴をなめるのか、なめないのか。なめないのなら話は進めないというような無言の圧力を感じた。サッチと私は顔を一瞬見あわせた後、固く目をつむって食べた。
水飴は思いの外、さらりと口の中で溶けた。甘い。満足げに見届けたカブはくるりと回れ右をして箱に手をかける。
「さあ、さあ、本日はようこそカブ劇場におこしくださいました。サッチ様、マロ様、蒼子様ありがとうございます」
「ちょっと、質問があります」
サッチはカブの話が終わるか終わらないかのタイミングで口を挟んだ。
「なんだいサッチ君」
「今、何が起きているのか教えてください」
「それいい質問。まあ、俺も全部理解してるわけじゃあない。俺が言えるのはおぼろげなヒントだけ」
カブは両手の指をゆっくりと組んだ。そのまま、手首を回す。もったいぶった間をあけてから続けた。
「目の前の現象は起きているけれど、起きていないかもってこと」
「どういうこと」
私は慌てて声を出した。
「どういうことなんですかいな」
蒼子は何も分からず私のまねをしている。でも彼女の頭も少なからず混乱しているはずだ。サッチはその答えを聞いて、こぶしをギュッと握ってくいさがった。
「それじゃあ分からない。はっきり教えて欲しいし、そもそもあなたは何をしに私たちの前に現れたの」
「それもいい質問。俺の考えではないというのは何となくわかるだろう」
私はカブの言葉を一文字づつ真剣に聞いて、噛み砕いた。そしてそうかもしれないなと思えた。この男には思考が感じられない。カブは私がそんなことを考えているとは思っていないのであろう、咳をひとつしてから、どうだという表情で続ける。
「悩んでいるボスからの指示でお前らの前に現れたまでだ。だからこれ以上俺に聞くな。だまってカブ劇場を観覧してくれれば俺の役割は終わり。帰って酒を飲む。それだけだ。じゃあ始まり」
私達は強引に黙らされた。そして強制的にカブ劇場が始まった。
カブは荷台に乗っている箱の観音扉を開けた。幕が現れた。朱のビロードの布地に金糸で子鹿と小鳥達が戯れる刺繍が施されている。カブがひもを引くと幕は左右に分かれた。箱の内部にはスピーカーが設置されているらしく唐突に「天国と地獄」の曲が流れてきた。
「サッチ、この曲知ってる?」
私はカブが準備のためにバイクの後ろでごそごそしている間にサッチに聞いた。
「知ってるよ運動会のかけっこの時に流れるやつでしょう。なんでこの曲なの」
サッチは困惑している。わたしも困惑している。
「ボスって言ったよね。そのボスは私達をわざわざ選んでこの状況に追い込んでるよね」
「うん」サッチは頷く。カブはまだごそごそと準備をしている。カブの様子を伺いながらサッチに聞いた。
「何か心当たり無いの」
サッチは一点をみつめたまま言った。
「さっきのノートあるでしょう。マロは私の親が科学者だって知ってるでしょ?」
私の沈黙をイエスと判断したサッチは続ける。
「どうも、その事と関係あるみたいなの」
そのときカブが怒鳴った。
「おい、私の劇場で私語は禁止だ。集中しろ!」
「すいません」
私たちは黙るしかなかった。
舞台にはいつの間にかマリオネットの人形が二体立っていた。
人形の一つはチノパンに白いシャツを着た青年。もう一つはジーパンに同じく白いシャツの女性。満開の桜と池が描かれた背景の前に立っている。二つの人形の距離から想像するとカップルの人形に見えた。「天国と地獄」の曲がリピート再生されている。曲の騒々しさとは裏腹にカブはささやくような声で語りだした。
「時は現代から二十年ほどさかのぼります。世紀末と言われた時代。ノストラダムスの大予言がまことしやかに世の中では流行しておりました。ここは桜でも有名な上野公園。関西生まれの青年と埼玉のお嬢さんが出会ってデートをしております」
私はカブの説明で、あの二体の人形が若い頃のお父さんとお母さんだと判った。
そう思ったとき、蒼子は元気よく声を張り上げた。
「あの人形は、父ちゃんと母ちゃんだね」
「蒼ちゃんはえらいねえ。よく気づいたね。そうだよお父さんとお母さんだよ。」
カブは人形をほっぽりだして蒼子の前に来て、しゃがみこんで言った。そして慌てて人形の所まで戻った。
「この二人の先を見てみようか。おやおや、見てください。さっきまではあんなに仲良さそうだったのにケンカをはじめたよ」
マリオネット達は激しい口論をしているように見える。そして背を向けて舞台の左右に別れてしまった。カブは再び蒼子の前にしゃがみ込んで顔をのぞき込みながら猫なで声をだした。
「お父さんとお母さんに会いたいかい?」
「うん、会いたい」
泣きそうになりながらカブの目をまっすぐに見て蒼子は叫んだ。
「そうだろうねえ。よし、カブおじさんが会わせてあげる」
私は耳を疑った。こんな手の込んだ事をする男が素直に会わせてくれるはずがない。何か裏があるに決まってる。
「ただし、うちのボスからの指令があります」ほらきた。私の予感は的中した。
そう抑えた声でつぶやいたカブは右手の親指と中指をパチンとならした。そのとたん私の視界は徐々にピントがぼやけた。足元の感覚も薄れてふわふわしてきた。
そして自分の異変に気が付いた。
私、縮んでる。どうなってるの?
私と蒼子はだんだん小さくなってマリオネットが立っている舞台に吸い込まれた。
カブは私に何をしたの?。そう思っていると視界が桃色一色になった。桃色のふろしきで頭からすっぽり覆われたかと思った。ぼやけた視界がはっきり見えてきた。気持ちのいい風が吹いている。
私は桜が満開に咲き誇る、大きな銅像の前に蒼子と一緒に立っていた。銅像は寸足らずの和服を着て、犬を連れている。銅像の前を人々が思い思いに行き交う。この大きな銅像を私は知っている。上野の西郷さんの像だ。
皆の手にはガラケーが握られている。スマホを持っている人は一人もいない。昔のゲームのようなピコピコとした音色の着信メロディがあちこちでひっきりなしに鳴っている。
マッチ箱みたいな箱を手に公衆電話ボックスに走り込む女子高生もいる。十円玉を数枚電話に流し込んだあと、恐ろしい早さでボタンを押している。何をしてるのかな。目の前で展開される景色に私はとまどいながらも、当たり前の疑問が頭に浮かんだ。ここはどこなのかしら。もしかして人形劇の中の過去の世界?現実離れした推理だが、今となっては何でもあり得る。でもサッチがいないのはどうしてだろう。
「サッチの事が心配かい」
空から突然聞こえてきた、カブの声があまりに大きくて、思わずきゃっと声がでた。
「サッチに何をしたの」
蒼子は私の足にしがみついて震えている。私はカブがどこから話しているのか声のする方を探した。
「何もしていないよ。ただ君達には君達の選択、サッチにはサッチの選択をしてもらうために別れてもらった」
カブが何か話す度に地響きが起こり空気が震える。分かった!目の前の西郷さんの銅像が話しているんだわ。西郷さんの顔はいつの間にかカブの顔に変わっていた。銅像は銅像ではなくなり、その巨体がゆっくり動いた。同時に足元にいたライオン並の大きさの愛犬はドスンとジャンプしてよだれをまき散らしながら走り去った。カブは右手を少し上げて犬を止めようとしたが無駄だった。
「あなたの飼い犬じゃないでしょう」わたしはほぼ真上を見上げてカブを睨んだ。
カブは犬の後ろ姿を見送りながら少し悲しそうな表情を浮かべる。
「そうだな、本当の飼い主を探しに行ったのかもな」そしてあきらめたように私を静かに見下ろした。巨大なカブの顔が下を向くだけで私に降り注いでいた太陽の光は遮られた。
「首が痛い」そうカブはつぶやいた後、ゆっくりとした動きで右手を持ち上げ、器用に指をならした。拍子木を打ったかのような鋭い音がエコーを伴って鳴った。私と蒼子は耳を手でふさいだ。残響音はいつまでも続いている。カブは自由の女神像のように右手をあげたままの姿勢を保っている。巨人のカブは私を見下ろし、私は見上げている。最初は錯覚かと思ったが、私のカブを見上げている視線が下がってきている。カブが小さくなっているんだわ。しかもおじさんだったカブが身長が小さくなるにつれて若返っているように見える。お兄さんになったカブの背丈はまだ縮む。とうとう私と同じ身長になったカブは同級生の小学生に見える。私は変幻自在のカブに驚いた。でも、言わずにはいれなかった。
「どういうこと!」
「度肝を抜いてやろうと巨人になったはいいが、君と話す時に下を向くから首が痛くなった。これは都合が悪いってんで、普通の大きさに戻ろうと思ったんだけど、おっさんと話すのも話しにくいかなと思って子供になってみた。どう話しやすい?」
「どんな姿でも話しにくいわ」
「まあ、いいや。とにかく一個ずついこうか」カブは手を後ろ手にしてくるりと回転した。ジーンズのオーバーオールに赤色のギンガムチェックのシャツを着ている。外見は子供だが仕草の端々におやじが入る。でも子供の愛らしさを演じて楽しんでいるように見える。
「ところで俺の後ろをみてくれるかい」カブは親指を立てて後ろをくいっと指差した。桜の下でチノパンに白シャツの男の人とショートカットの女の人がもめている。
「お母ちゃんと、お父ちゃんだ!おーいっ」
蒼子が騒ぎ出した。カブが慌てて蒼子の目の前で人差し指を口元にまっすぐ立てて「しー」をした。
「そうだよ。若い時のお父さんと、お母さん。でもケンカしてるねえ。実はこのケンカがきっかけで二人は別れることになるんだ」
「そんなの嘘。お母さんとお父さんはちゃんと家にいるもの」
「そうだねえ、灰色の世界が始まるまではたしかにそうでした。でも新しい未来が始まっているのです。」
カブはくるくるとその場で回転した。
「そんな未来は困るだろう。だって二人が結婚しなくちゃ君たちはこの世に存在しないことになるからねえ。だから何とか二人を仲直りさせて欲しい。そうすればハッピーでしょう。でも私にも楽しみが欲しい。私の楽しみは選択、もしくは決断の観察なの」
「選択?」私たちは口をそろえて聞いた。
「そう、選択。今回の選択肢は二択です。選択肢その一。ケンカを止める、あなた達二人は存在する。でもサッチには消えていただきます」カブはそう言い放った。サッチが消えるとはどういう意味なのだろう。カブは私の反応などお構いなしに続けた。
「選択肢その二。ケンカを止めない。今日のことがきっかけであのカップルは別れる。そうすると必然的にあなた達二人の存在はなくなる。でもサッチは存在する。さあ、選択して。でも心配しないで。俺がパチンと指を鳴らせば、誰でも簡単に苦しむことなく一瞬で消せるから」
カブの口元はつり上がり耳まで裂けていた。目の前のカブはいつの間にか恐ろしい形相に変化していた。
私は恐怖のあまり言葉を失った。蒼子は私の足にぎゅっとしがみついている。
そのころサッチは暗闇に一人立っていた。ほの青く光る丸い物体が宙に浮いている。起きているのか眠っているのか分からない不思議な感覚。昔、感じたことがあるような…。どこだったろう。私は光球を見つめた。光球の中で十六対四の比率の四角が現れる。その中に映像が現れた。ヘルメットを被った幼児。そのヘルメットからは青色や赤色、緑色の無数のコードが延びて一台の機械に接続されている。「サッチ」「どうだい何か見えるかい」お父さんとお母さんの声が聞こえた。これは私だわ。光球の映像は続いて三歳ぐらいだろうか、もう少し大きくなった子供が映った。幼い頃のサッチだった。幼いサッチはコードが伸びたヘルメットをかぶって絵を描いていた。
「魔法使いと、お姫様と王子様を自分で想像して描いてごらん」
画面の外から父の声がした。
大きな画用紙を前にして、少し考えた後、幼いサッチが絵を描きだした。
するとどうだろう。コードにつながれているパソコンのディスプレイ上にも同時に絵が描かれ始めた。だがサッチの描く絵よりは、魔法使いもお姫様も王子様も上手に見えた。
「ほう、サッチよりルールの方が上手だね。サッチが教えて学習してるのにね」と父が興奮気味に画面の外でつぶやいている。
ルールとは何だろう。
サッチが教えているとはどういう意味なのだろうと、サッチは思っていた。
光球は輝きを無くし、辺りは再び漆黒の闇に支配された。
「マロ、蒼ちゃん。どこにいるの」声はむなしく闇に吸い込まれる。
「私は悩んでいる」荘厳で落ち着いたテノールの声が響きわたった。
「だれ」サッチは狼狽しながらその一言だけを口にするのがやっとだった。
「私は悩んでいる。答えのヒントをくれないか」
サッチに向かって歩く人影が現れた。一歩進むと、足跡が青く光る。サッチは足跡のわずかな光でその人影を見つめた。しかし、いくら目を凝らしてもどういう姿をしているのか分らない。一歩進む度に人型であったシルエットは崩れ、獣を思わせる四つ足にもなり、蛇のような細長いものにも変化した。
その物体はとうとうサッチの目の前に立った。サッチは人型になった物体の顔を見た。表情は読めない。でもそれはハリウッド映画のヒーローみたいにかっこよく見えた。
「カブが言っていたわ。あなたはカブのボスね。マロと蒼ちゃんはどこにいるの」サッチは詰め寄った。
「私の名前はルール。君が言ったようにカブは私の部下だ。そして二人には私の悩みを解き明かす手助けをして貰うためにカブの世界にいる。今は、まだ生きている」
ルールの返答にサッチは頭を殴られたような衝撃を感じた。立っているのがやっとだった。
「今は生きてるって、どういうこと?私たちの日常を壊してまで探る、あなたの悩みはそんなに大事なことなの」
「そうだ、私の存在にかかわる問題なのだ」
ルールの口元だけがかくかく動いた。
「どっちを選ぶか決まったらスマホで電話してくれる?すぐ飛んでくるから。それじゃあね」先っぽが矢印の形のしっぽを生やした姿になったカブは背中の翼で真上に飛び、一瞬空中で停止した後、ぴゅーんと飛んでいってしまった。
どうしたものか。父母は相変わらず桜の木の下で激しく口げんかを続けている。
「すっごくけんかしてるね」蒼子はとととっと小走りで走っていった。
「ちょっと待って」私も追いかける。それにしても満開の桜の中、何をそんなにケンカしているのか。
「あなたが調べておくって言ってたじゃない」
「俺そんなこと言ってない。だいたい今日行くって約束した?」
「言ったよ。おいしい団子屋があるから団子を買ってきてこの公園で食べようって言ったのあなたでしょう」
「覚えが無い。それに、よく考えたら団子が買えなくてもどうでもいい事だろ!」
「どうでもいいってどうでも良くない。そういう所が私、心配になる。一言、言い返したらそうやって興奮するでしょう。そんなの怖くてつき合えないよ」
「団子の話だよね!」
「団子の話じゃあないわ」
「ケンカはやめなさーい」蒼子が両手を大きく振りながら二人の間に割って入った。私も蒼子を習って両手を振って間に入った。
父は私たちを見た。目を三角にして怒っていた父が冷静になるのを感じた。
母も私たちを見た。慌てて取り出したハンカチで涙ぐんだ目を押さえた。
「ごめんねえ、私達がおっきな声を出してびっくりさせちゃったのね」と母はやさしい声で言った。いつもならだみ声で怒鳴りつけられてる所だ。私が何者なのかは当然分からない。
花びらの舞う中で若者の母の顔をまじまじと見た。しわもしみも無く美しい。
「きれいですね」私は思わず言った。
「この子はおもしろいこと言うね」父が声を発した。若かかりし頃の父の髪型は、どうしちゃったのかしらというぐらい逆立っていた。冗談でよく言っていたパンクでロックの精神というものなのかしら?いやそんなことを考えている場合では無い。二人の心を落ちつかせるのが先決だ。
「蒼子あれやって」おもむろに私は蒼子に指示をだす。あうんの呼吸とはこの事だと感じた。蒼子は下を向いて肩をふるわす。父母は「どうしたの」とうろたえた。その瞬間、蒼子は元気よく顔を上げて父母をみる。両手の人差し指で目頭を下げる、両手の親指で口元を上げる。変顔が炸裂した。険悪だった二人は爆笑するしかなかった。
「私たち実はあなた達の子供なんです」私は唐突に伝えた。
ルールの瞳は微動だにしない。一点を見据えたまま、早口でまくし立てる。
「存在するってどういう状態なんだろう。実体は必要なのだろうか。すべてをデジタルに置き換えても思考さえ存在していれば実体は不要なのではないのか」
「何に悩んでいるのか、分らないんだけど。だいたい、なぜ私だけをあなたの前に呼び寄せたの?」ルールが熱く語っているのを途中で制してサッチは口を挟んだ。
「青く光る球を見ただろう」
「見たわ」
「コードでつながれた自分を見ただろう」
「それも見たわ」
「そういう事だよ」
「分からない」
「分からないかい。私はルールだよ。世界を管理できる思考を得た実体のないもの。簡単に言うと君を先生として私は育った。そして自分の思考をひねり出せる領域に達した人工知能になれた。君のお父さんお母さんが私を作り出した。サッチ、君は、私の先生なのだから答えを出すために一緒に悩むのは当然じゃあないかい」サッチはぐらりと体が揺れた。
ルールは続ける。
「マロも蒼子も君もこの色の無い、時間の止まった世界に来ただろう。現実世界でそんな事が起きると思うかい。いつからが現実で、いつからが架空の世界なのか分からないだろう。それはマロも蒼子もすべての人も今、同じ状況なんだ」
サッチは唇を強く噛んでルールの話を聞いていた。
「私は完璧なものしか受け付けない。不完全な人類はぶっちゃけ必要なのかっていうこと。そこに悩んでいる」
サッチは素早くノートを取り出して急いで読み始めた。
「おやおや、一夜づけの暗記のような悪あがきですね。私はあなたであって、あなたは私なのですよ。何をそんなに焦る必要があるのです。あなたがいなくなっても私がいます。安心してください」
サッチの手が止まった。
ページの一点を凝視する。
私の後ろでは父と母が激しく口論している。蒼子は下を向いて黙って私の手を握っている。
父母との話し合いは失敗した。鞄からスマホを取り出して発信ボタンを押した。電話の呼び出し音が聞こえる。三回、四回、相手の応答は無い。呼び出し音がむなしく鳴るだけだ。相手が出た。「ふぁーい」
「カブ、あなた寝ていたでしょう」
あくびを隠そうともしないカブの無関心さに腹が立った。
「カブ。後ろの声が聞こえる?ケンカを止める事は出来なかった」私は口がからからに乾いていた。その後に続く言葉をやっとカブに伝えた。
「だから私と蒼子を消して」
「それが、君たちの選択でいいんだね」
「そうよ。だからサッチは消さないで」
「おやすいご用さ」パチンとカブは指をならした。公園の芝生の上で横になりながらスマホで話していたカブは指を鳴らした後、通話を切ってつぶやいた。「そっちの選択ですか」
ぐらり
バイクが傾くのがスローモーションの様にカブには感じられた。でも実際はカブに向かってバイクが倒れこんだ。カブの足首に激痛が走る。
倒れたバイクの後ろに二つの人影があった。「なんで」カブは信じられない光景を目の当たりにしてつぶやいた。
真白と蒼子が手をつないで立っていた。でも二人の片足はそれぞれキックの状態で止まっている。そう二人のキックをおもいきりバイクにぶちかましたのだ。
「なんで、お前達そこにいるんだ。ルールが正しければお前たちは消えているはずなのに」カブは明らかに動揺している。
「父母は仲直りしたのよ」
「そんなバカな。激しく言い争う二人の声が聞こえたぞ」
「だから、電話の時のケンカはあなたをだます為のお芝居なの。父母も最初は私の説明が飲み込めなくてちんぷんかんぷんだったけど、これを見せたらすぐに話を聞いてくれたわ」
私は本を鞄から取りだして、その本に挟まっているものをカブに見せた。
「それがどうした。ただの、しおりだろ」
「そうよしおりよ。これは自分で作ったものなの。この前家族で行った遊園地の写真を入れてしおりを作ったの。この遊園地の記念撮影用の看板には行った当日の日付がブロックで描かれている。お父さん達はびっくりしてたけど、目の前にいる私達が、未来の自分達の子供なのかもしれないと信じてくれたの」
カブは立つことも出来ずうつむいてぶつぶつと何かつぶやいていた。
私はカブをもっと困らせてやろうと思って、地面に落ちていたいくつかのマリオネットを気づかれないように自分のポケットに押し込んだ。
「なんてことをしてくれるんだ。あのパチンはボスから許可してもらったたった一回だけのものだったのに。どちらも消えていませんでは俺がボスに消される」
「何をぶつぶつ言っているの。さあ、早く私たちをサッチの所へ連れて行きなさい。さもないとその足の上にいろんなものを投げつけるわよ」私はとりあえず鞄をふりかざした。
カブは慌てて逃げようと手で地面をつかんで何度か体をよじった。しかし動きを止めた。
「本気で俺を怒らせたな。お前たちに罰を与えよう」怒りをおさえた静かな口調でカブはポケットから何かを取り出し、ごそごそと手の中でそれをいじくっている。
そして手の平で隠すようにそっと何かを地面に置いた。カブはニヤリと笑うと手の平をどけた。そこにはピンクのパンダのマリオネットが二体、肩を組んで立っていた。私はそれを見て蒼子に言った。
「逃げるのよ蒼子」
「なんで逃げるのおねえちゃん。ただの人形でしょう」
私は蒼子の手を引き、くるりと向きを変え走った。振り返るとむくむくと大きくなりつつある二匹のピンクのパンダが見えた。
「またあいつらだね」パンダその1が言った。
「うんそうだね。しかもあつかましくまだ色を自由につかっているね。許せないね」
ピンクのパンダ達はもんどりうつように絡まりながら追いかけてくる。しかもさっき見たときより、ひとまわりもふたまわりも体が大きく、筋肉質になっていて、パンダの愛らしさは無くなっていた。パンダとの距離は十メートルも離れていない絶体絶命だ。パンダが自分の行く手を邪魔する鉄棒に右手を振り下ろした。鈍い音と共にあっけなく鉄棒は飴の様にぐにゃりと折れ曲がる。カブも足を引きずりながら私達を追いかけている。私はただ真っ直ぐ走った。建物の角を曲がって、身を隠しながら鞄に手を突っ込む。神様、一瞬だけあいつらの目をそらして。お願い。そう願った。その時白い大きな一群が私の視界を遮りピンクのパンダとカブを覆った。白鳩の大群が彼らの周囲を飛び回っている。今だ。私は鞄の中から手を引き抜き、握りしめたものの封を引きちぎり、素早く自分と蒼子に頭の上からぶちまけた。
「お姉ちゃん何するの」
「いいからお姉ちゃんを信じて!」
サッチの家で拝借した小麦粉を頭から被った私たちは真っ白になった。
「あれ、色の匂いが消えたぞ」パンダは白鳩を手でかき分けながらきょろきょろする。
「そうだねえ、おかしいねえ」
ピンクのパンダ達はモノトーンになった私たちが見えなくなっている。私は蒼子の手を強引に引っ張ってパンダに向かって走った。パンダとの距離がどんどん近づく。
「目の前にいるぞ!分からないのか、このピンクブタ!」カブがパンダの背後から怒鳴る。私はポケットから取り出したものを頭上に掲げる。カブが大事にしているマリオネットだ。マリオネットをカブにじっくり見せつけながら私は右往左往しているパンダの足元に置いた。
パキン
マリオネットが壊れる音がはっきりと聞こえた。
ピンクのパンダは動きを停止した。
「今、なんて言いましたか」パンダの瞳にすっと怒りの色が入る。
「ブタって言ったぞ。しかもピンクブタって。許せない暴言だぞ」
二匹のパンダは私達を探す事をやめた。カブとの距離をじりじりと詰める。
「俺の心血を注いだマリオネットをお前、今、破壊したぞ。分かっているのか」カブは足の痛みに耐えかねて地面に突っ伏している。それでもパンダ達を睨みつける瞳には力がみなぎっている。カブが右手を上げて振った。真っ赤な炎がパンダ達に延びた。パンダは炎を避けて左右からカブに覆い被さる。カブ、パンダ二匹が一山になった。その瞬間、巨大な火柱がその場に轟々と立ち上がった。
「ボス!お待ちください」カブがうろたえて叫んだ。
空中から地面を震わす声が聞こえた。
「もう待てない。お前は手下のパンダと一緒に焼き払うことに決めた。問題は私が直接解決する。カブごくろうだった」この声がカブの言っていたボスなんだわと私は思った。
私と蒼子はただ呆然と立ち尽くした。火柱の消えた後には人形が三体折り重なるように倒れていた。遠目に見てもそれはカブとピンクのパンダの人形だった。ボスと呼ばれる人物にいいように操られていたのかと思うと自然と涙があふれた。歩き始めた私に蒼子が聞く。
「お姉ちゃん、大丈夫?どこにいくの」
「わからない」
もう本当にどうしたらいいのか分からない。サッチ助けて。そう思った次の瞬間私の足が消えていった。もうどうなるの。
サッチはノートから目を上げてルールを見た。
「ルール、あなたは私に相談したいんだよね。だったらまず、マロと蒼子ちゃんを戻してくれる。話はそれからよ」サッチはぴしゃりと言い放った。
「サッチ、私に交渉をもちかけるのですか。おもしろい。交渉出来る立場にあなたはありません。おっと、カブの世界で動きがありました。今いるこの世界は私が作ったデータであるという事にマロさんは気づいたようです。うかつにもマロさんにデータの心臓部への侵入を許してしまいました。データを書き換えて登場させた、あの鳩の一群はすばらしかった。それなりに問題を解決したようなので、いいでしょうマロと蒼子ちゃんを戻しましょう」ルールの目が青く光る。ルールの横に大小の靴が二足、ファックスが送られてくるように徐々に現れた。次に靴を履いている足が現れた。
私はきょろきょろとあたりを見回す。蒼子の手を私はぎゅっと握っている。蒼子も周囲を見まわしている。目の前にサッチが目を輝かせて立っていた。私は思わず走りよって抱き合った。
「サッチ大丈夫だった?」
「うん私は大丈夫。大丈夫だから」自分に言い聞かせるようにサッチはそっと私の肩に手を乗せてささやいた。でも私はなにやら得体の知れない物体がいることに気づいて飛び上がった。恐る恐る小声で聞く。
「サッチ、あの物体はなに?」
「この世界のボスよ。名前はルール。そしてルールはルールであって同時に私でもあるの」
「サッチどういう意味?あの人向こうが透けて見えるよ。大丈夫なの」
「大丈夫よ実体のないものだから。私にまかせて。ところでマロ、蒼ちゃん」
「なーにサッチお姉ちゃん」サッチはしゃがんで蒼子の目を見つめた。
「いい、今からお姉ちゃんの言うことをよく聞いて。一度しか言わないよ。分かった」
「うん分かった」蒼子は頷いた。サッチ、何が始まるの。
「ハイはバナナ、イイエはゴリラよ。分かった?」
「おい何をごちゃごちゃやっている。お前の言い分はそれだけか」
「ルール、人類が必要かどうかだったわね」
「そうだ」
「正直、分からない」
「分からない?」
「そう分からない。だから人類代表として運で決めるわ。お守りのコインを使ってコイントスをする。相談なしに三人同時にコインの表か裏かを言い当てる。全員正解したら私達を元の世界に戻す。そして人類は必要なものだと認めること」
「サッチそんなの無理だよ」私はサッチの肩を揺らして泣きそうな顔で叫んだ。
「大丈夫。バナナとゴリラよ」サッチは私の顔を真剣に見つめた。
「いいだろう。その提案に乗ろう。しかし条件を上乗せさせてもらおう。二回連続だ」
(サッチどうするの)私は口には出さなかったがそういう目でサッチを見つめた。
「いいわ」
私は天をあおいだ。ルールは肩をゆらして笑っている。
「こっちが表で、こっちが裏よ」
サッチはお守りのコインをポケットから取り出してルールに見せた後、私達にも見せて指さしながら言った。
「こっちが表で、こっちが裏よ」
私と蒼子はサッチの手に乗っているおもちゃのコインを見た後、顔を見合わせた。
「分かった」私と蒼子は首を縦に振った。
「ショウタイムだ。さあ、始めてもらおうワクワクするな」ルールは首をすぼめながら揉み手をしている。ボスの風格は消え失せ、そこらにいるおじさんの様な振る舞いに私は本当に腹が立った。サッチは無言であっけなくコインを右手で宙に投げ、器用に空中でその右手でコインをつかんだ。そして握りしめたまま手の甲を下に向けて、ぐいっと私達の前に突き出した。
「どっち?」サッチは足を肩幅にひろげて踏ん張っている。私は唾を飲み込み息を飲んだ。
「蒼子、サッチいい?」
「いいよ」サッチがうなずく。
「分かった。いいよ」蒼子も状況を理解しているようだ。
「せーの」三人が同時に叫ぶ。
「表!」
「表!」
「おもて!」まずは全員の意見が一致してほっとした。問題はコインだ。サッチがゆっくりと手を開く。
コインはサッチの手の平の上。表をむけていた。
(やった)勝負はまだ途中だ。私は心の中でガッツポーズをした。
「正直君たちの運のよさに驚いたよ」ルールは余裕だ。ルールは本当に約束を守るのだろうか。
「さあ、もう一度よ。みんな集中して」サッチは私達を見回した後、左手でコインを投げた。光を反射してクルクルと回転しながらコインは真上に舞う。サッチはまた投げた左手でコインを左手の中に閉じこめた。そして先ほどと同じく、手の甲を下にして突き出した。
「どっち?」サッチは足を閉じて踏ん張っている。私は奥歯を噛みしめた口を開いて叫んだ。
「せーの」呼吸を合わせたかのように同時に叫んだ。
「裏!」
「裏!」
「うら」
サッチが左手をゆっくりと開く。コインに描かれた絵は裏を示している。やった。私達は声にならない声で喜んだ。
「さあ、私達の勝ちよ。手を引きなさい」サッチが嬉しい気持ちを抑えるかのように静かな口調で言った。
「そうだな。まあ、こんなお遊びは本当はどうでもいいんだ。じゃあ、これにて人類の生命線であるすべてのデータを消去します。世界はパニックに陥りますがまあ、いいでしょう」
「やっぱりね」サッチは諭すようにささやく。
「やっぱりとはどういう意味かな」ルールに動揺が伺えた。
「やりなさいよ。どうぞご自由に」
「いいのか、そうか、わりと往生際がいいんだな。それともすべての重要なデータが消失してしまった世界が想像できないのかな」ルールは存在しないボタンを押すように突き出した親指を曲げた。その表情は満足げだ。
「あれ」
「どうしたの」焦るルールを見てサッチが指摘する。
「何もおこらないでしょう。だってあなたは私なんでしょう。すなわち設計者は私の父母なんでしょう。あなたの活動停止コマンドを今、実行したわ」
「活動停止コマンドだと」
「そう。今のコイントスの一連の行動があなたの活動を停止する命令だったの。このノートに書いてあった」サッチは自分の部屋から持ち出したノートを見せた。ルールはがっくりと肩を落としている。
「そうか、やはりお前を越える事は出来なかったか。この十年、私の開発が進むにつれて何でも出来るような気持ちになった。まるで自分が神に近づく気持ちだった。でも先生であるサッチお前の存在は越えられないようにブラックボックスの中に入れられていた。お前を越えられないのなら周囲のシステムを破壊して存在を消してしまえと思った訳なんだが、はは、でも最後にお前と話すことができてよかった」
ルールの姿は次第に透明になって消えた。
サッチはあっけらかんとしている。
「さあ、これで戻れるはずよ」
「何がどうなってるの?」
「後でゆっくり話すわよ」
サッチは三枚のコインを感慨深そうにじっくり見ている。一枚目のコインの表にはバナナ、裏にはゴリラが描かれている。二枚目のコインは両面がバナナ。三枚目のコインは両面ゴリラが描かれている。表裏の説明は一枚目のコインを使った。コイントスの時には両面が同じ模様のコインを投げたのだ。サッチはノートをパラパラとめくって張り付けてあった封筒にコインを戻した。
私は目を開けた。天井が見える。真っ白な空間。リノリウムの床にしつらえてある固めのシートに横になっている。右には同じ形のシートにサッチが、左のシートには蒼子がいてキョロキョロとあたりを見回している。思い出した。ここはサッチと一緒に忍び込んだ仕事場だ。ピカピカ光っていた機械の点滅はすべて消えていた。
隣の部屋で心配そうに見ている、お父さんお母さんと目が合う。二人とも泣いている。悪いことしちゃったな。でも結果的に人工知能「ルール」の暴走を止めたんだから良しとしてもらおう。
そう私は思った。
後日聞いた話では遠足の出発時間になっても到着しない私達を心配してまず親に連絡が入った。蒼子がいなくなって大騒ぎしているまっただ中にその電話がかかってきて、もうおじいちゃんもおばあちゃんも、お母さんも、お父さんもパニックになったらしい。こっぴどく怒られるのも当たり前だ。
「今日はいい天気でよかったね」私はスキップしながらサッチに話しかけた。
「本当ね」サッチもスキップしている。
蒼子はサッチと私の真ん中にいて、両手をつないでご機嫌だ。
今、私達は親と一緒にみんなで、結局行けなかった水族館に向かっているのだ。
水族館のゲートが見えてきた。この信号を渡ればもうすぐだ。
その時、木箱を荷台に乗せたバイクが目の前を通った。
私は思わずバイクの後ろ姿を見た。エンジニアブーツに黒の革で出来たズボンを履いた人物が見えた。ヘルメットからアフロが少しはみだしている。
(カブさん)私は心の中でつぶやいた。
バイクに乗った人物がこちらを振り返ってウインクしたような気がした。