義男は移動中の電車の中で頭を抱えていた。フリーのライターとなり原稿用紙の升目を一文字ずつうめる作業で生計を立てる暮らしもはや十年となる。元々は地方新聞社の記者だった。
今回ばかりは絶対絶命だと義男自身が感じていた。膝の上にある、スケジュール手帳を確認する必要は無いのだが、薄目をあけて手帳を見た。本日の締め切りの原稿が一つ。明日が締め切りの原稿が三つ。しかもこれからインタビューの仕事が一つ。間違いない。そしてその五つの原稿はどれも絶望的に白紙だった。
義男は待ち合わせ場所に向かっている。平日の午後、車両に乗り合わせた乗客達は義男の極限状態とは真逆ののんびりしたものだ。うたた寝をするおじさん。スマホを凝視する学生。子供の話に興じるママ友。義男はその人々を恨めしげに観察していた。しばしの現実逃避の後、頭をふって義男はぶつぶつと独り言をお経のように唱えた。
「とりあえず、インタビューに集中しよう」
インタビュー相手は売り出し中の芸人。芸名は「きゅう」といった。年齢は若いが、落ち着いた口調で話す内容は、単語一つとっても一切の無駄が無い。この若者の目には未来が見えているのではないかとSNS等でカリスマ視されている。
「未来が見えるカリスマ芸人か……」
義男の口元が笑みを浮かべた。義男は新聞記者からフリーに転身した当時を思い出していた。原稿の締め切りまであと三十分を切った深夜。冬だというのに編集室で冷や汗が吹き出していた。添付する写真のデータを見るためにデジカメをさわっていた。義男の手からデジカメはつるりと回転しながら床に落ちた。フラッシュが光る。あわてて拾い上げた義男はデータが無事かを確認した。データは無事だった。しかし最後の一枚は撮影した覚えの無いものだった。その一枚を義男はデジカメの液晶画面で凝視した。プレビュー画面をアップにして確認した。
新聞の写真だった。しかも義男が今書いている原稿が記事として新聞にのっている。日付は明日だ。
義男は無我夢中で画面の文章を原稿に写しなおして入稿した。ぎりぎり間に合った。
後日締め切りに迫られた瞬間、あの状況を藁にもすがる思いで再現した。未来の原稿を呼び出すことに成功した。義男はフリーライターへの転身を決意した。
車内は空いている。七人掛けのソファーの真ん中にどっかりと座った義男は鞄からデジカメを取り出した。何個デジカメを壊したのか。義男は自分でも把握していなかった。手の中にある耐衝撃モデルのデジカメはやはり頑丈だった。三年以上は壊れていない。義男は手に握ったデジカメをやさしく、でも大胆に落とした。のんびりした車内の空気が落下音で一瞬固まる。義男が何事もなく拾い上げたのを確認した乗客達はまた無関心の状態に安定た。
義男は画像を確認する。
そこには発売された雑誌のインタビュー記事が収められていた。デジカメを操作する。アップにして読み進める。我ながら的確な問いに対して「きゅう」の的確な返答が帰っている。コール・アンド・レスポンスばっちりだ。義男は安堵の息をもらした。これで大丈夫。
「はいラストです。きゅうさんありがとうございました!」
きゅうは拍手にお辞儀で返礼した。
モデルとしても活躍するきゅうは義男のインタビューの後、紙面をかざる撮影をした。義男は開いているデスクで本日のインタビューの原稿を書いていた。原稿事態は先ほど完成記事を見たのでするすると出来上がった。ただ一つ腑に落ちないことがあった。それはきゅうとの別れ際の出来事だ。
義男の描いたシナリオどおりインタビューは終了した。
「本日はありがとうございました」義男が握手を求めて右手を差し出した。
さっきまで穏やかに話していたきゅうは握手と言うには強すぎる力で義男の手を握りかえした。びっくりする義男にきゅうは耳元でささやいた。
「あの、抽象的で申し訳ないけれど……」
「は、はい」義男は耳元でささやくきゅうから出来るだけ逃げるように体を離したが、きゅうは逃れようとする義男に迫る。再び耳元で先ほどよりもっと小声でつぶやいた。
「パンクスに気をつけて」
体を離したきゅうの目が赤くうるんでいるようにも見えた。
(あれは何だったのだろう)
義男は事務所として借りているオフィスに戻った。デジカメをわざとらしく落とす。義男は本日が締め切りの原稿の画面をアップにして読み込んでいた。さすが俺だ。おもしろい。データに起こしなおしてメールで編集部に送信した。はいイッチョ上がりだ。タバコに火をつけようとしたが、さきほど最後の一本を煙に変えたことを思い出した。
義男は引き続き明日が締め切りの原稿三つのデータを得るため、デジカメを床に落とした。三回フラッシュが光る。
デジカメを拾い上げた義男はどれどれと画像を確認する。
するとどうだろう、いつもなら掲載された媒体の画像が記事としてそこにあるはずなのだが……。見慣れない若者がイスに座って眠っている写真が三枚。何度やっても未来の原稿は現れない。義男は焦った。しかし、まだ二十四時間あると考えた義男は自力で原稿をあげると決めた。冷静になるためにタバコをまず仕入れようと思った。近所にコンビニがある。
エレベーターで一階に降りる。都会のオフィス街は深夜でもちらほらと人影があった。義男の思考はぐるぐると回る。なぜ未来の原稿が見えないのか。これからどうなるのか?あの若者は誰なのか。横断歩道の信号が青になり、義男は一歩足を踏み出した。
義男はクルリと一回転していた。
信号無視の車が義男につっこんだ。
義男は回転しながら運転席に座る人物をスローモーションで見ていた。
眠っている若者。
居眠り運転の若者。
鼻ピアスでモヒカンの眠っている若者。
間違いなくパンクスだ。
義男はそう思った。
今回ばかりは絶対絶命だと義男自身が感じていた。膝の上にある、スケジュール手帳を確認する必要は無いのだが、薄目をあけて手帳を見た。本日の締め切りの原稿が一つ。明日が締め切りの原稿が三つ。しかもこれからインタビューの仕事が一つ。間違いない。そしてその五つの原稿はどれも絶望的に白紙だった。
義男は待ち合わせ場所に向かっている。平日の午後、車両に乗り合わせた乗客達は義男の極限状態とは真逆ののんびりしたものだ。うたた寝をするおじさん。スマホを凝視する学生。子供の話に興じるママ友。義男はその人々を恨めしげに観察していた。しばしの現実逃避の後、頭をふって義男はぶつぶつと独り言をお経のように唱えた。
「とりあえず、インタビューに集中しよう」
インタビュー相手は売り出し中の芸人。芸名は「きゅう」といった。年齢は若いが、落ち着いた口調で話す内容は、単語一つとっても一切の無駄が無い。この若者の目には未来が見えているのではないかとSNS等でカリスマ視されている。
「未来が見えるカリスマ芸人か……」
義男の口元が笑みを浮かべた。義男は新聞記者からフリーに転身した当時を思い出していた。原稿の締め切りまであと三十分を切った深夜。冬だというのに編集室で冷や汗が吹き出していた。添付する写真のデータを見るためにデジカメをさわっていた。義男の手からデジカメはつるりと回転しながら床に落ちた。フラッシュが光る。あわてて拾い上げた義男はデータが無事かを確認した。データは無事だった。しかし最後の一枚は撮影した覚えの無いものだった。その一枚を義男はデジカメの液晶画面で凝視した。プレビュー画面をアップにして確認した。
新聞の写真だった。しかも義男が今書いている原稿が記事として新聞にのっている。日付は明日だ。
義男は無我夢中で画面の文章を原稿に写しなおして入稿した。ぎりぎり間に合った。
後日締め切りに迫られた瞬間、あの状況を藁にもすがる思いで再現した。未来の原稿を呼び出すことに成功した。義男はフリーライターへの転身を決意した。
車内は空いている。七人掛けのソファーの真ん中にどっかりと座った義男は鞄からデジカメを取り出した。何個デジカメを壊したのか。義男は自分でも把握していなかった。手の中にある耐衝撃モデルのデジカメはやはり頑丈だった。三年以上は壊れていない。義男は手に握ったデジカメをやさしく、でも大胆に落とした。のんびりした車内の空気が落下音で一瞬固まる。義男が何事もなく拾い上げたのを確認した乗客達はまた無関心の状態に安定た。
義男は画像を確認する。
そこには発売された雑誌のインタビュー記事が収められていた。デジカメを操作する。アップにして読み進める。我ながら的確な問いに対して「きゅう」の的確な返答が帰っている。コール・アンド・レスポンスばっちりだ。義男は安堵の息をもらした。これで大丈夫。
「はいラストです。きゅうさんありがとうございました!」
きゅうは拍手にお辞儀で返礼した。
モデルとしても活躍するきゅうは義男のインタビューの後、紙面をかざる撮影をした。義男は開いているデスクで本日のインタビューの原稿を書いていた。原稿事態は先ほど完成記事を見たのでするすると出来上がった。ただ一つ腑に落ちないことがあった。それはきゅうとの別れ際の出来事だ。
義男の描いたシナリオどおりインタビューは終了した。
「本日はありがとうございました」義男が握手を求めて右手を差し出した。
さっきまで穏やかに話していたきゅうは握手と言うには強すぎる力で義男の手を握りかえした。びっくりする義男にきゅうは耳元でささやいた。
「あの、抽象的で申し訳ないけれど……」
「は、はい」義男は耳元でささやくきゅうから出来るだけ逃げるように体を離したが、きゅうは逃れようとする義男に迫る。再び耳元で先ほどよりもっと小声でつぶやいた。
「パンクスに気をつけて」
体を離したきゅうの目が赤くうるんでいるようにも見えた。
(あれは何だったのだろう)
義男は事務所として借りているオフィスに戻った。デジカメをわざとらしく落とす。義男は本日が締め切りの原稿の画面をアップにして読み込んでいた。さすが俺だ。おもしろい。データに起こしなおしてメールで編集部に送信した。はいイッチョ上がりだ。タバコに火をつけようとしたが、さきほど最後の一本を煙に変えたことを思い出した。
義男は引き続き明日が締め切りの原稿三つのデータを得るため、デジカメを床に落とした。三回フラッシュが光る。
デジカメを拾い上げた義男はどれどれと画像を確認する。
するとどうだろう、いつもなら掲載された媒体の画像が記事としてそこにあるはずなのだが……。見慣れない若者がイスに座って眠っている写真が三枚。何度やっても未来の原稿は現れない。義男は焦った。しかし、まだ二十四時間あると考えた義男は自力で原稿をあげると決めた。冷静になるためにタバコをまず仕入れようと思った。近所にコンビニがある。
エレベーターで一階に降りる。都会のオフィス街は深夜でもちらほらと人影があった。義男の思考はぐるぐると回る。なぜ未来の原稿が見えないのか。これからどうなるのか?あの若者は誰なのか。横断歩道の信号が青になり、義男は一歩足を踏み出した。
義男はクルリと一回転していた。
信号無視の車が義男につっこんだ。
義男は回転しながら運転席に座る人物をスローモーションで見ていた。
眠っている若者。
居眠り運転の若者。
鼻ピアスでモヒカンの眠っている若者。
間違いなくパンクスだ。
義男はそう思った。