おせっちゃんの今日2

こちらでお仲間入りいたします。
よろしくお願いいたします

今までありがとうね

2020-09-23 14:11:56 | 主婦として

トップにとんでもないものを登場させて失礼します。この姿ですけれども、我が家では30年おさんどんの主婦を助けてくれた功労者なのです。

30年前には我々夫婦も。子どもたちも元気いっぱい、食い気満点の時代でした。夕食はボリューム満点、揚げ物・肉入り炒め物がテーブルの真ん中にどっかりと大皿で座る時代でした。この直径30センチの中華なべ、フライパンは、家族でお出かけも兼ねて合羽橋まで行って買い求めたものだったと記憶しています。
親子4人に加えて次兄の長男が大学の2年生まで下宿しておりまして、その胃袋を満たすべく大活躍をしてくれたのでした。

主婦の私も若かった、中華鍋が重いなどと思ったことはありませんでした。戦後、農地改革で米も麦も自分で作らなければならないことになって、俄か百姓をして凌いだのです。女の細腕(?)で1俵60キロのカマスをエイッと持ち上げることはかなわずとも、地面を擦るように躱すことはできていました。二の腕には力こぶができていました。中華鍋なんざ~・・・でした。

それが甥っ子が本郷に行き、子どもたちが独立して出て行き、年を重ねて、私はおばさんから婆さんへと移ろいました。夫と二人分作るのには大きくて、買い替えるべきだよなあ、と思いつつもそのまま使っていました。炒め物を仕上げて皿に移す時、その重みに手が震えるようになり、腕だけでなく、胸の筋肉までがピリピリするように弱ってきてしまいました。

2か月ほど前のことです。リハビリで、整形に行き、カーテンで仕切られたベッドで順番が来るのを待っていました。隣から腕を痛めたという女性とリハビリ先生との会話が聞こえてきます。どうも台所で重いものを持ったのが原因のようです。治療が終わって顔を合わせた時、「私一人ではないのですね。中華鍋は無理ですかねえ」と話し仲間に入りました。まだ若い、孫のような先生が
「そうですヨ。何にもしないのは勿論いけませんが無理はいけません。おせっちゃん、意地を張って、大きな鍋と格闘しないでください。今の家族に合うようなものに買い替えてください」とおっしゃいました。
もう鍛えるという段階は過ぎているのでしょう。

台所の功労者ですが、二つには引退してもらうことにしました。功労者ですから、最後にブログに登場させてやろうと思ったのです。
先ほど粗大ごみセンターに電話して見ましたら、各個400円で引き取ってくれるとのこと。

今までありがとうね。よく頑張ってくれました。感謝!!


やる気を失った

2020-09-22 13:50:43 | 日記

町会副会長の地位を、年齢と体調不良で、今年度から辞退させてもらいました。
10月1日の国勢調査の調査員も辞退するつもりにしておりましたが、会長さんが急死なさったり、人員が足りないのでとの要請で、引き受けました。婆さんがよろよろ、みっともないことです。

14日から、調査用紙とその説明書などを配布する仕事をこなさなければなりません。調査対象の家々に通し番号をつけ、間違いなく配るのは結構神経を使います。せっかち婆さんの私は14日にはその仕事を済ませるつもりでした。それが1週間過ぎた今日もまだ配布できない2戸が残っています。

担当区域に、女子学生の大きいマンションがあります。その建物だけで、かなりの戸数なのです。今年は学生が学校に行けなく、ふるさとに長期帰省していて、空き室扱いの部屋がかなりありました。それでも配布の書類が不足してしまいました。

まちづくりセンターに補充は置いてあるとの説明を受けていましたので、当然そこで受け取れるものと取りに行きました。大半のものは受け取れましたが、通し番号を振った書類は本部の方に連絡してそちらからしか出せないとのこと。

本部に電話しました。つながらないこと、つながらないこと。混んでいるのです。やっと係員が。それがアルバイトかも知れないと思うのですが、いくら説明しても、その書類がどうしたものかが分からないようでした。さんざん念を入れて説明して、頼りないなあ!と危ぶみながら電話を切ったことでした。(係員は復唱しますとオウム返しに復唱したのですが)

2日目に郵便で送ってきました。何のための復唱やら!要求した番号どおりに来ていないのです。やっぱり頼りなかった!と怒りながら再び電話。こちらは計画を立てて待っているのよと早い対応を厳しく言って電話をきりました。
待てど暮らせど来ない。請求の電話。調査します。こちらも手一杯やっていますから、との答え。再び待つ。来ない。声を荒げて3度目の電話。確かに処理はしておりますが・・・と。それが来ないうちに、配達のない3休日が。確かに現場は手いっぱいかもしれないけれど、あまりに杜撰。こちらの口調もだんだん厳しくなる。「調査員の指導では20日までに配る」ということだったのですが、間に合いませんよね、これでは。

それに対する担当者の答え。「調査は10月1日の現況です。それに間に合えばいいのです。そんなにカリカリなさらなくても」と。

やる気が失せました。じゃあなんのための「20日まで」なの。こうした絶対に間違いのあってはならない仕事は婆さんには負担なのです。引き受けた方が悪いと言われれば確かにそう。でも引き受けたからには・・・と縮んできている脳味噌をフル稼働して真面目にカレンダーとにらめっこしてやっているのよ。自分たちの不手際で同じ区内の郵便物が1週間以上来ないということがあっていいのですか。おまけにそこをつかれると吐いた言葉が、守る必要はないとの言い訳、気を張ってやっていた自分のやる気が急にしぼんでしまいました。

し~らない。今日も休日だから郵便配達はないよね。


白萩

2020-09-21 14:14:02 | 思い出

朝、一寸肌寒さを感じるほど急に涼しくなってきました。生き返る思いです。
近所を散歩していて、よそ様の垣根から萩が楚々と咲いて枝を垂らしておりました。
父母と暮らした実家を思い出しました。

私は山口県防府市のはずれの村で育ちました。60メートルばかりの山の中腹に家がありました。子どもの頃、若い体力のある頃でしたから、上り下りする坂道も少しも苦にならず毎日当たり前のこととしていました。高校への通学は自転車でしたが、とても乗って登ることはできませんでしたし、下りも押しておりました。4兄が遅刻しそうと乗っておりて見事に骨折をしたほどの坂道でした。

門を入り、坂道を上ると高さ1.5メートルほどの石垣につきあたります。少し右に回って玄関、や勝手口へ行くのです。石垣の上は5・6坪の広場になっておりました。夏は縁台を置いて夕涼みの場所ができるところでした。

その広場の縁・石垣の上には母は自分の好きな白萩を植えておりました。石垣の上でこんもりと茂り、下枝は石垣を下るように垂れて季節には美しく石垣を飾ったものでした。。
説明が遅れましたが、その広場からは瀬戸内海が見下ろせるのです。父の大の自慢の見晴らしでした。

父と母は8人もの子供をなした夫婦でしたが、子どもがこんなことを言うのも失礼と思うのですが凸凹夫婦でした。背が高く細い父、低くてぽっちゃりした母。せっかちな父、遅れがちな母。趣味と言って戦後そんなことからは遠い生活でしたが、一致はしなかったと思います。
海が見えることが大事な父、母の白萩の茂りが、海の見晴らしを邪魔します。母の育てた萩をつんつるテンに剪定ばさみで切ってしまうのです。

かなり激しい言い合いが突発していた記憶があります。

嫁いで、地方勤務の夫について任地を回り借家住まいをしましたが、東京の今の住所の古家に暮らす時がありました。夫の兄と二つに割る前でしたから、庭もかなり広かったのです。実家の母の白萩の根を掘り起こして持ち帰り、移し植えたことがありました。萩、強いんですね。見事に茂りました。土が合ったというのでしょうか、丈高く、株は大きく庭を独り占めしてしまうようでした。萩は高いところに植えて枝を垂らしてこそいい景色になるのでしょうか、場所はとる、葉っぱばかりで、花枝はは土の上にのたくるばかりで、美しさはない緑の塊にしかありませんでした。夫・子どもからは不評、自分でもこれはだめだなあ、と思いました。結局、掘り起こして廃棄してしまいました。

母が同居していたら、嘆いたあなあ。他家の萩を見ての思い出です。


ほっこりした風景

2020-09-19 13:46:20 | 日記

週末は明るく、気持ちよく締めたいと思いました。
朝日新聞・ひとときの投稿文をそのままお借りしました。お断りもなく使わせていただきますので、誠に失礼とは存じますが、お名前を隠させていただきました。
よほど余裕を持った、優しい人でなければできるものではない行いだと存じます。またその時の様子を何ともほんわかと書いた文章にも感心いたしました。
ありがとうございました。無断借用お許しくださいませ。


ラジオ番組のインタビューを受けた

2020-09-18 12:57:39 | 区民センター

82年の人生の中で初めてのことを体験しました。「エフエム世田谷」というラジオ局が代田区民センターを紹介すると取材に来たのです。
世田谷区内には12の区民センターがあり、それぞれを「運営協議会」が運営しています。その12の区民センターを順次紹介していこうという番組のようです。

私は運営協議会の「コミュニティー委員」に加わっています。故郷の父母舅姑をあの世に送り出してから、お友だちに誘われて委員の仲間に加えてもらったのです。はっきり覚えていませんが、15年(いえ、20年?)居座っているかもしれません。居座りが長くなったということは歳とったということです。そろそろお役に立つどころか、迷惑をかけかねない心身になってきておりますが、古いと言うことから「コミュニティー事業委員会委員長」という厳めしい肩書を背負っています。

今日は代田区民センターのコミュニティー委員会がどんな働きをしているか、どんなイベントを企画しているか、他にはない特徴的なイベントは?などの質問に答えるものでした。運営協議会 会長がほとんど答えてくださいましたので、目立つ失敗もなくどうにかこなせました。

先日、妹のらい太が苦笑いをしながらこんなことを言っていました。らい太は東京友の会に長く在籍し、パソコン関係を受け持っているようです。コロナ禍の中、ズームでのオンライン授業をしたのだそうです。かなり自信を持ってのことだったようですが、あとで聞き直してみると、まあ、説明はくどい、言葉は山口弁に傾いている、参った参った、とのことです。

今日のラジオ番組インタビュー出演(大袈裟!)で、らい太を思い出しました。
う~ん、山口弁が出ていたかなあ、くどくど時間ばかり食っての説明だったかなあ、と思うのです。みっともないかな、心配心配。

まあ、いいか。ラジオだから私が見えるわけではなし、小さなラジオ局、聞く人もあまりいないでしょうし。