今朝もTVで活発に体罰について意見が交わされている。
肯定派と否定派に分かれる。体罰は強いものから弱い立場で弱い者への身体的な罰則を与えると言う行為。これはいじめと同じ延長線上にある事だと考える。
いじめや暴力を肯定する人を見ていると一つの傾向があるようだ。
自分はいじめられる立場にない人・すなわち弱者ではないと胸を張っている人間でもあり、自分は弱い人間であると言う事に気が付いているにもかかわらずそれに目を向けず自分の弱さを見せたくないが為に攻撃的な行動に出るのではないかな?。
本当は自分が弱い人間だと言う事を認めたくないがために「攻撃は最大の防御なり」と行動する人間なのではないかと感じる。
弱い立場(女性であり非力であり稚拙であり等々)を多く体験している人間としては一方的にそのような行為が行われる訳だから、到底承認できるものではない。こうした声が持ち上がっているときしか発進できないという側面もある。この際声を大にしてブログで訴えて行くことにした。
これは昨日のお昼ごろ雪雲が出てきたところです。少し明るく撮れています。チラリホラリと雪が舞っただけでした。家との境目が妙に明るくて不思議な空模様でした。
超小型犬を飼うことになって、更にそれを感じる。小さくても大きくてもいじめてはいけないのです。
上に立つ者は部下に対して逆の立場で、もし自分がその立場だったらどう考えるか?考慮して行動するのであるならこの様な問題は起きない。子供のころに暴力で躾をされてきた人間はその様なやり方しか考え付かないのでしょう、この様な過去による自身の体験で自分の行為を肯定する人間にはどの様な治療が必要なのでしょう。体罰なくして教育や躾が出来ないと本気で考えている人が少なからずいるようです。
それが大きな問題なのです。強い暴力で躾られ、その方法しか知らなかった場合はそう簡単には治す事は出来ないでしょう。したがって大阪の橋下さんが仰る事は理解できます。橋下さん頑張ってください。
長い人生で思い通りの学校にいけなかったからと言って全てがマイナスに転じる事はないでしょう。近視眼的にこの問題を処理して欲しくありません。前向きにこの事態を捉えて欲しいと考えます。このときこの様にしてこの様に対峙したから人生はこうなったのだと強運を呼び込んで欲しいものです。人生は長い道のりで刻々と周りの情勢は変わってきます。
何が良かったのか?それはそれを迎える人の考え方でもあるような気がする。
私も行きたい学校へはいけなかったのですが、だからどうしたか?思い通りにならないのも人生です、それは自分で考えましょう。
仕事上で罰則を頂いたからといってその人の行動や価値観が変わるとは思えないからです。指導者に根本的な治療が必要なのではないかと思います。。
学校関係者の総入れ替えなしには解決は無いと感じます。
試合中に行っているに至っては言語道断ですね。対戦チームの指導者も目撃していて黙っていたのなら同罪です。
こうした問題は当事者だけではなくその周囲の人間も含めて意識を高めなければ、問題があからさまになった時だけうわべだけ対応するだけで、いつまでたっても解決しないように思います。
実際に体験している方の言葉は説得力がありました。
うわべだけ処理をしても何も変えられないと思います。根本的な所まで踏み込んで行かなければと感じます。
コメントありがとうございました。