富士山! 冬 三つ峠山 ここも有名な富士山展望地です。
幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は72~77/288頁を見ていくことにします。
今回も欲求というものと幸福(≒生きがい)とを考えます。
テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房
2 生きがいを求めるこころ
自己実現への欲求 自由への欲求 意味と価値への欲求
【その場で生きる決意】
たとえ宿命的と形容されるような境遇にあっても、いっさいを放り出してしまおうか。放り出そうと思えば放り出すこともできるのだ。放り出して自殺やその他の逃げ道をえらぶこともできるのだ。そういう可能性を真剣に考えた上てその「宿命的」な状況をうけ入れることに決めたのならば、それはすでに宿命でもなく、あきらめでもない。一つの選択なのである。そこにはもうぐちの余地はない。そしてぐちこそ生きがい感の最大の敵である。
【自己への忠誠】
本質的な自己を実現して行くには多くの努力と根気が必要とされる。その結果、この目標が少しでも達せらるならば、そこにはすべてを圧倒するようなよろこびが湧きあがるであろう。…
「業績への欲求」とか「自尊心を維持する欲求」などを人間の基本的欲求のうちに数え上げてる学者もあるが、これも根本的に似たところがある。いずれの場合にも、他人の眼に対しての業績をあげることや自尊心を保つことが第一の問題ではなく、何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか、に関係して欲求であると思われる。
もしこの意味で自己にもとっているならば、外面的、対人的にどんな立派にみえようとも、心の底にはやましさの意識がひそんでいて、心の眼はーそしてしばしば肉体の眼までも、自己をも人生をも正視することができなくなり、横眼づかいや上眼づかいをするようになる。いきいきと、堂々と歩いて行くためには、どうしてもひとは自己に忠実に「そのあるところのものになる」必要がある。
【性格の要素】
ひとは自分でもそうと意識しないで、たえず自己の生の意味をあらゆる体験のなかで自問自答し、たしかめているのではなかろうか。そしてその問に対して求める答えは、どんなものでもよいから自己の生を正当化するするもの、「生肯定的」なものではなくては生きがいは感じられないのであろう。
この肯定の答が簡単にえられるひとは生きて行くことがらくであり、たのしみにちがいない。…ところが、ひとによっては性格の出来が複雑で、劣等感を抱きやすく、他者からの肯定もうけ入れられず、自分で自分の生意味をみとめることもできず、一生をこの意味への探求に苦闘してくらすひともある。
わずか数ページの中に一見矛盾した部分を引用した。
「自己に忠実」であろうとすると「宿命」は受け入れがたいということになるだろう。
しかし、実際はこの2つはリアルな問題である。
前回のキーワード(質のいい未来性と、良質な「基質」の共同体)に続いてこれも幸福論の対抗軸なのかもしれない。
多くの仕事や日常の諸事は意思や希望に関係なく「せざるを得ない」ものと感じるものである。
現実の中に縛りつけられて、それでもそれらを生きるために気持ちに鞭を打って頑張っている時も少なくないだろう。
「宿命」をうけ入れることはそれに対する積極的な答えである。
「多くの努力と根気が必要とされる」本質的な自己を保留しながらも、「宿命」をうけ入れることに路線変更するのである。
そして、その時のこころの変化を成熟と言ったりするのだろう。
しかし、一方で現実に即しているとふと、自分を見失っている感覚も出てくる。
「何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか」という問いである。
そんなうねりがある。
ただ、もともとの「自己への忠誠」の内容が粗略だとずっと自己肯定感は得られにくい。現実に即して生きていくことの代償が「(「自己への忠誠」への)諦め」となることは避けたい。大事にしている「自己への忠誠」が自己肯定感につながらないのは幸福ではない。これは教育の問題でもあろう。
「ひとは自分でもそうと意識しないで、たえず自己の生の意味をあらゆる体験のなかで自問自答し、たしかめている」という。私達は小さく一喜一憂して暮らしている。そういう起伏が絶えずあるのだろう。
幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は72~77/288頁を見ていくことにします。
今回も欲求というものと幸福(≒生きがい)とを考えます。
テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房
2 生きがいを求めるこころ
自己実現への欲求 自由への欲求 意味と価値への欲求
【その場で生きる決意】
たとえ宿命的と形容されるような境遇にあっても、いっさいを放り出してしまおうか。放り出そうと思えば放り出すこともできるのだ。放り出して自殺やその他の逃げ道をえらぶこともできるのだ。そういう可能性を真剣に考えた上てその「宿命的」な状況をうけ入れることに決めたのならば、それはすでに宿命でもなく、あきらめでもない。一つの選択なのである。そこにはもうぐちの余地はない。そしてぐちこそ生きがい感の最大の敵である。
【自己への忠誠】
本質的な自己を実現して行くには多くの努力と根気が必要とされる。その結果、この目標が少しでも達せらるならば、そこにはすべてを圧倒するようなよろこびが湧きあがるであろう。…
「業績への欲求」とか「自尊心を維持する欲求」などを人間の基本的欲求のうちに数え上げてる学者もあるが、これも根本的に似たところがある。いずれの場合にも、他人の眼に対しての業績をあげることや自尊心を保つことが第一の問題ではなく、何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか、に関係して欲求であると思われる。
もしこの意味で自己にもとっているならば、外面的、対人的にどんな立派にみえようとも、心の底にはやましさの意識がひそんでいて、心の眼はーそしてしばしば肉体の眼までも、自己をも人生をも正視することができなくなり、横眼づかいや上眼づかいをするようになる。いきいきと、堂々と歩いて行くためには、どうしてもひとは自己に忠実に「そのあるところのものになる」必要がある。
【性格の要素】
ひとは自分でもそうと意識しないで、たえず自己の生の意味をあらゆる体験のなかで自問自答し、たしかめているのではなかろうか。そしてその問に対して求める答えは、どんなものでもよいから自己の生を正当化するするもの、「生肯定的」なものではなくては生きがいは感じられないのであろう。
この肯定の答が簡単にえられるひとは生きて行くことがらくであり、たのしみにちがいない。…ところが、ひとによっては性格の出来が複雑で、劣等感を抱きやすく、他者からの肯定もうけ入れられず、自分で自分の生意味をみとめることもできず、一生をこの意味への探求に苦闘してくらすひともある。
わずか数ページの中に一見矛盾した部分を引用した。
「自己に忠実」であろうとすると「宿命」は受け入れがたいということになるだろう。
しかし、実際はこの2つはリアルな問題である。
前回のキーワード(質のいい未来性と、良質な「基質」の共同体)に続いてこれも幸福論の対抗軸なのかもしれない。
多くの仕事や日常の諸事は意思や希望に関係なく「せざるを得ない」ものと感じるものである。
現実の中に縛りつけられて、それでもそれらを生きるために気持ちに鞭を打って頑張っている時も少なくないだろう。
「宿命」をうけ入れることはそれに対する積極的な答えである。
「多くの努力と根気が必要とされる」本質的な自己を保留しながらも、「宿命」をうけ入れることに路線変更するのである。
そして、その時のこころの変化を成熟と言ったりするのだろう。
しかし、一方で現実に即しているとふと、自分を見失っている感覚も出てくる。
「何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか」という問いである。
そんなうねりがある。
ただ、もともとの「自己への忠誠」の内容が粗略だとずっと自己肯定感は得られにくい。現実に即して生きていくことの代償が「(「自己への忠誠」への)諦め」となることは避けたい。大事にしている「自己への忠誠」が自己肯定感につながらないのは幸福ではない。これは教育の問題でもあろう。
「ひとは自分でもそうと意識しないで、たえず自己の生の意味をあらゆる体験のなかで自問自答し、たしかめている」という。私達は小さく一喜一憂して暮らしている。そういう起伏が絶えずあるのだろう。