私が貿易の仕事を始めたのは輸出からであった。その時の師匠は友人の兄貴であり、学校の先輩でもあった。私の書いた手紙を見て、呆れかえっていた。「お前さん、軍隊の作戦要務令じゃあるまいし、こんな手紙じゃだめだ。お客様になんとか品物を買って頂くのが目的だろう!」と叱られた。独特の軍隊調の英文が私の中にしみ込んでいたのだ。民間では絶対に使わないであろう「and/or」(或いは又)だとかの表現をつい使ってしまう。このブログの表題にもなっている「TDY」もその一つである。また最近は日本の民間企業でも使われ始めた「OJT」(on the job training、仕事に就く上で最初に受ける訓練)もそうである。
先輩は丁寧に、「買って頂くための手紙」の見本を数種類書いてくれた。これを下敷きにしてあらゆる手紙が書けた。此の先輩に教えて頂かなければ私の貿易業は始められなかった。貿易のルールは参考書を見れば何とか理解出来るが、微妙な英文の表現までは私が買ってきた参考書にはなかった。それに参考書の英文は下手くそな紋切型であった。中には小学生でもこのような表現はしないであろう例文まであった。私が貿易業を営むにあたって友人をはじめ多くの方々にお世話になったが、此の先輩には感謝しきれないほどお世話になった。今は鬼籍にあるが、ずっと感謝し続けている。
英文の師匠はもう一人いる。同じ経済学部の同級生であった。日本語を書かせたら小学生にも劣る下手な字と文章であるが、英語を書かせたら恐れ入る。彼はハワイで生まれ、カメハメハ大王の血を引いていると云っているが定かではない。私が原宿に事務所を持ってから付き合いが再開された。それまで彼は日本航空に勤めており、アラスカ、パリ、ロサンゼルス等々に派遣されていた。勉強は駄目だったが、語学力は抜群であった。第二外国語にスペイン語を選択し、それをたったの2年で完全にマスターしてしまった。スペイン語圏に手紙を出すときは随分と彼のお世話になった。また、英文の微妙な表現の時、「どっちを書けばいい?」と聞くと彼は的確に答えてくれた。今でも、お互いに悪口を云い合いながら付き合っている。だが、その友人はパソコンを使えないのでこのブログを読めない。だから悪口をここに書けばいいが、息子さんが読んでいるかもしれないので用心している。
このブログを開設出来たのは、カワセミの撮影の師匠格の一人でもある通称「和田掘のF」さんに全面的にお世話になった。ワード、エクセル、それにフォトショップの使用法には絶対的な自信があるが、ウェブに関しては知識が非常に乏しい。20年ほど前、ホームページを持っていたことがあった。その時はホームページを作るためのソフトを買ってきて、それによって作ったのである。その後、当方の事情でプロバイダーを変えたことを機に、そのホームページは消滅した。それ以後、どのように頑張ってもホームページを復活させることは出来なかった。このブログはFさんの手助けなしには一行も書けなかった。此の事にも非常に感謝している。

フリッチの一本一本に番号をふり、トマシナ(以前の地名はタマタベであった。、マダガスカル唯一の国際貿易港)への出荷準備を終えたパリサンダー。

私が撥ねたフリッチの山。曲っている、木目が良くない、細すぎる、長さが足りない、色が良くない、節がある。このようなものは日本に持っていっても一銭の価値もない。家具の業界であるなら買って頂けるかもしれないが、私はその業界に取引はなかった。BIE社が他に売ることになっている。


曲った材を真っ直ぐにしたり、或いは私が真っ直ぐに見えるように加工している。用心しないと実際は曲っている材でも真っ直ぐに見えてしまうことがある。彼は名工である。

屋根のある倉庫に入りきらないフリッチは厚い布をかぶせて出荷を待つ。


割れ止めの木工用ボンドを丁寧に塗る。乾くと白いボンドが透明になる。



「化ける」であろう上等なフリッチ。このような素晴らしい木目のパリサンダーを見ていると立方メートル当たり幾らとの契約をしなかった方が良かったと反省することもあった。

小型トラックに積めるだけ積み、屋根のある倉庫に移動する。

ジルス・ベド社長の次弟のルイス・ベドと長男。


ジルス・ベド社長の長兄一家。彼等はパリに住んでいる。奥さんはフランス人。

ジルス・ベド社長の末弟。彼はアメリカに留学しているが、夏休みでアンタナナリブに帰ってきていた。母親はこの末の子が一番のお気に入りのようである。
次回からはマジュンガよりさらに暑いアンツォヒヒに行く予定である。乾期になり、川の水が少なくなると、横になって泳ぐ魚がいる川にご案内したい。
先輩は丁寧に、「買って頂くための手紙」の見本を数種類書いてくれた。これを下敷きにしてあらゆる手紙が書けた。此の先輩に教えて頂かなければ私の貿易業は始められなかった。貿易のルールは参考書を見れば何とか理解出来るが、微妙な英文の表現までは私が買ってきた参考書にはなかった。それに参考書の英文は下手くそな紋切型であった。中には小学生でもこのような表現はしないであろう例文まであった。私が貿易業を営むにあたって友人をはじめ多くの方々にお世話になったが、此の先輩には感謝しきれないほどお世話になった。今は鬼籍にあるが、ずっと感謝し続けている。
英文の師匠はもう一人いる。同じ経済学部の同級生であった。日本語を書かせたら小学生にも劣る下手な字と文章であるが、英語を書かせたら恐れ入る。彼はハワイで生まれ、カメハメハ大王の血を引いていると云っているが定かではない。私が原宿に事務所を持ってから付き合いが再開された。それまで彼は日本航空に勤めており、アラスカ、パリ、ロサンゼルス等々に派遣されていた。勉強は駄目だったが、語学力は抜群であった。第二外国語にスペイン語を選択し、それをたったの2年で完全にマスターしてしまった。スペイン語圏に手紙を出すときは随分と彼のお世話になった。また、英文の微妙な表現の時、「どっちを書けばいい?」と聞くと彼は的確に答えてくれた。今でも、お互いに悪口を云い合いながら付き合っている。だが、その友人はパソコンを使えないのでこのブログを読めない。だから悪口をここに書けばいいが、息子さんが読んでいるかもしれないので用心している。
このブログを開設出来たのは、カワセミの撮影の師匠格の一人でもある通称「和田掘のF」さんに全面的にお世話になった。ワード、エクセル、それにフォトショップの使用法には絶対的な自信があるが、ウェブに関しては知識が非常に乏しい。20年ほど前、ホームページを持っていたことがあった。その時はホームページを作るためのソフトを買ってきて、それによって作ったのである。その後、当方の事情でプロバイダーを変えたことを機に、そのホームページは消滅した。それ以後、どのように頑張ってもホームページを復活させることは出来なかった。このブログはFさんの手助けなしには一行も書けなかった。此の事にも非常に感謝している。

フリッチの一本一本に番号をふり、トマシナ(以前の地名はタマタベであった。、マダガスカル唯一の国際貿易港)への出荷準備を終えたパリサンダー。

私が撥ねたフリッチの山。曲っている、木目が良くない、細すぎる、長さが足りない、色が良くない、節がある。このようなものは日本に持っていっても一銭の価値もない。家具の業界であるなら買って頂けるかもしれないが、私はその業界に取引はなかった。BIE社が他に売ることになっている。


曲った材を真っ直ぐにしたり、或いは私が真っ直ぐに見えるように加工している。用心しないと実際は曲っている材でも真っ直ぐに見えてしまうことがある。彼は名工である。

屋根のある倉庫に入りきらないフリッチは厚い布をかぶせて出荷を待つ。


割れ止めの木工用ボンドを丁寧に塗る。乾くと白いボンドが透明になる。



「化ける」であろう上等なフリッチ。このような素晴らしい木目のパリサンダーを見ていると立方メートル当たり幾らとの契約をしなかった方が良かったと反省することもあった。

小型トラックに積めるだけ積み、屋根のある倉庫に移動する。

ジルス・ベド社長の次弟のルイス・ベドと長男。


ジルス・ベド社長の長兄一家。彼等はパリに住んでいる。奥さんはフランス人。

ジルス・ベド社長の末弟。彼はアメリカに留学しているが、夏休みでアンタナナリブに帰ってきていた。母親はこの末の子が一番のお気に入りのようである。
次回からはマジュンガよりさらに暑いアンツォヒヒに行く予定である。乾期になり、川の水が少なくなると、横になって泳ぐ魚がいる川にご案内したい。
割れ止めに木工用ボンドを使用した先人の素晴らしいアイディアに脱帽です。此のボンドのお世話になるのは一カ月、最長でも三カ月程です。コンテナーの中で蒸されても、日本に着くまでの一カ月ほど、割れないようにしっかりと表面を保護していればいいのです。床柱に加工するには真っ先に表面を削りとりますので、ボンドの役目はこれで終りです。木が硬いので、奥まではボンドが入り込むことはありません。割れそうなフリッチには「背割れ」と云って、床柱の背面に割れ目を入れ、全体の割れを防ぎます。また、木工用ボンドはドラム缶で買えば驚くほどの安さです。
日本の古典などに馴染んで日本語の持つすばらしい表現を大事にしたいと思うこの頃になりました。
ところで木工用ボンドですが、私は模型にたびたび使用します。このボンドは湿度を吸収しやすいので経年で膨張が心配です。このように多量に木材に沁み込ませて日本の環境では問題ないのでしょうか気になりますね。
一度見た木目のような気がし、もう一度よく見ると曲っていたので、既にはねたフリッチだと気が付くことがあります。私の目をだまそうと加工したものです。油断も隙もありません。
友人の多さは、あらゆる面で幸せなことだと思っております。而し、仲の良かった友人を亡くしたとき、立ち上がるまでかなりの時間を必要とします。