マジュンガに泊ったのはちゃんとしたホテルであったので、豊富なお湯でシャワーが使えた。それだけではなくバスタブまであった。而し、アンツォヒヒのバンガローはモロンダバのそれと同じように水のシャワーであった。それで、モロンダバで行ったように太陽光の温水を誰よりも早く使うことにした。
本館の裏庭には放し飼いの鶏とアヒルが多数飼われていた。ビルマの田舎と同様に、小屋はあるが出入りを自由にしてあった。ビルマと違う点は、飼い主がちゃんと餌を与えていた。だが、鶏もアヒルも意地汚いのか庭中をほっつき歩いては餌になる虫を探していた。
ある日、気がついてみるとアヒルの一羽が何故か私になついていた。餌をやったこともないのに何処までもついてきた。一度などは私のバンガローの入口までついてきたことがあった。頭を撫でて帰るように云った。理解したのか、彼(彼女?)はトボトボと帰って行った。アヒルの顔を見ても識別はつかないが、羽の汚れ具合で他のアヒルと区別出来た。以後、裏庭に行き、そのアヒルの様子を見るのが楽しみになった。それが、そのアヒルの姿が見えない日があった。ついに人間どもに食われてしまう順番が来てしまったのだと想像し、複雑な思いがした。もしかしたら今日のお昼の弁当だったのか?私の滞在中に順番が来てほしくなかった。

今朝は早く到着したせいか、森の民はテントを片付け始めていたところだった。

少し奥の方に行くと、そこでは全員が忙しそうにしていた。朝食は既に終わったようだった。

この森の民の一家は高床式の家を建設するようであった。どうやらこの地に永住することを決めたらしい。

マンゴーの木。収穫の時期を迎えると、果実の重さで全ての枝は地面に向けて垂れ下がる。

信じられるだろうか?白く丸で囲んである直径2センチにもなっていないマンゴーが、10月の初めには15センチかそれ以上の大きさに育つ。そうなったら届く範囲の実は手でもぎり取り、うすべったい種に沿って切り落とした実にナイフでさいの目の切れ目をつけてかぶりつく。至福の時である。
これと同じ大きさのマンゴーを伊勢丹の地下で一個1,500円で売っていた。私は一度に最低でも4,500円分は食べていた。


お昼になり、森の民の樵の一団が対岸から賑やかに帰ってきた。

トラクターを降り、伐採地に入って行くと樹木は密集しており、森の民から離れてしまったら、二度と文明の地に戻れなくなる。遅れぬよう、必死について行った。

パリサンダー。これがパリサンダーだと云われても、私には黒檀や紫檀の木との区別が全くつかなかった。前にも述べたように、木の皮の文様も葉の形もほぼ同じなのである。同じ場所に全て並べてみなければ区別がつかないとは情けない。

フリッチに仕上がったパリサンダーが置かれていた。材の幅は規定の寸法を何とかクリアーしていたが、木目と色は魅力のある物ではなかった。





最初のフリッチを見て失望した私を見て、ジルス・ベドはニヤニヤしていた。そして、次の置き場に私を急がせた。そこには彼に抱きつきたくなるような、フリッチや加工する前のパリサンダーが山のようにあった。
前にもご説明したように、木目が良いからと高値で売れるわけではない。だが、この素晴らしいパリサンダーを私から買ったと新木場に噂が流れれば、私は取引先に不自由しなくなる。競争相手も蹴落とせる。現に、新木場の大手の銘木の輸入問屋がパリサンダーから手を引いてしまっている。残る強敵は西の方の業者である。
香港のことに触れたい。1997年、香港が英国から中国に返還される年であった。所用で香港に行く必要があった。用事はすぐに終わるので、家内に一緒に行かないかと誘ったが断られた。彼女はもう少しずらして、返還の「7月1日」を跨いで香港に行く予定を立てていた。即ち、家内は入国の時のパスポートに「香港」のスタンプ、出国の時には「中華人民共和国」のスタンプが押されることを計画していたのである。呆れるほどのミーハーである。
私はそれより10日ほど前に行った。ホテルは利用せずに娘のマンションに泊ることにした。娘の住まいは香港の郊外である屯門にある。香港にこれほどの緑があるのかと驚かされるほど樹木の多い、静かな住宅街である。そこには屯門地区を循環している路面電車が走っており、非常に便利である。それに、屯門の港からは香港島に行くホーバークラフトの高速艇が就航している。
そんな住宅街のあちこちに以下のようなポスターが貼ってあった。かなり以前から貼ってあるらしく、はがれかかったり、印刷の色が変わっていたりもしていた。
倒数百天 心懐祖国 家在屯門 屯問区慶祝香港回帰祖国
返還までは後100日、家は屯門にあっても、心は懐かしい祖国にあると云う事だろう。私はこのポスターを見て、香港の人たちは返還に反対なのだと感じた。「どうなるかわからないが、今のうちに中国におべっかを使っておけ」と云うのがこのポスターの心底にあるように思えたのである。それで、心の許せる香港の人に聞いてみた。すると、「自分たちは元々中国人だから、香港が中国に戻るのはいいです。而し、共産主義になるのは絶対に嫌なのです」との答えがすぐに返ってきた。
返還後に香港に行ったとき、中国の云う一国二制度はそれらしく機能していた。而し、香港の魅力は全くなくなっていた。西洋でもない、東洋でもない不思議なところが香港にあったのである。それが一変していた。バーやクラブの従業員に白人の姿が全くなくなっていた。中国政府は外国人を全て排除し、中国本土からそれに代わる人たちを香港に連れてきたのだ。ご存じのように、中国人程サービス業に適さない国民はいない。
また、庶民からは別の愚痴を聞かされた。今までの香港は英国の女王陛下の土地であったので地代は一切無料であった。而し、返還後は中国政府に地代を払わなければならないようになったそうだ。
今回の、若者を中心とするデモは、返還直後からの不満が一挙に爆発したように感じる。私の娘も国籍は日本であるが、デモに参加すると、先日家内にメールをしてきた。
本館の裏庭には放し飼いの鶏とアヒルが多数飼われていた。ビルマの田舎と同様に、小屋はあるが出入りを自由にしてあった。ビルマと違う点は、飼い主がちゃんと餌を与えていた。だが、鶏もアヒルも意地汚いのか庭中をほっつき歩いては餌になる虫を探していた。
ある日、気がついてみるとアヒルの一羽が何故か私になついていた。餌をやったこともないのに何処までもついてきた。一度などは私のバンガローの入口までついてきたことがあった。頭を撫でて帰るように云った。理解したのか、彼(彼女?)はトボトボと帰って行った。アヒルの顔を見ても識別はつかないが、羽の汚れ具合で他のアヒルと区別出来た。以後、裏庭に行き、そのアヒルの様子を見るのが楽しみになった。それが、そのアヒルの姿が見えない日があった。ついに人間どもに食われてしまう順番が来てしまったのだと想像し、複雑な思いがした。もしかしたら今日のお昼の弁当だったのか?私の滞在中に順番が来てほしくなかった。

今朝は早く到着したせいか、森の民はテントを片付け始めていたところだった。

少し奥の方に行くと、そこでは全員が忙しそうにしていた。朝食は既に終わったようだった。

この森の民の一家は高床式の家を建設するようであった。どうやらこの地に永住することを決めたらしい。

マンゴーの木。収穫の時期を迎えると、果実の重さで全ての枝は地面に向けて垂れ下がる。

信じられるだろうか?白く丸で囲んである直径2センチにもなっていないマンゴーが、10月の初めには15センチかそれ以上の大きさに育つ。そうなったら届く範囲の実は手でもぎり取り、うすべったい種に沿って切り落とした実にナイフでさいの目の切れ目をつけてかぶりつく。至福の時である。
これと同じ大きさのマンゴーを伊勢丹の地下で一個1,500円で売っていた。私は一度に最低でも4,500円分は食べていた。


お昼になり、森の民の樵の一団が対岸から賑やかに帰ってきた。

トラクターを降り、伐採地に入って行くと樹木は密集しており、森の民から離れてしまったら、二度と文明の地に戻れなくなる。遅れぬよう、必死について行った。

パリサンダー。これがパリサンダーだと云われても、私には黒檀や紫檀の木との区別が全くつかなかった。前にも述べたように、木の皮の文様も葉の形もほぼ同じなのである。同じ場所に全て並べてみなければ区別がつかないとは情けない。

フリッチに仕上がったパリサンダーが置かれていた。材の幅は規定の寸法を何とかクリアーしていたが、木目と色は魅力のある物ではなかった。





最初のフリッチを見て失望した私を見て、ジルス・ベドはニヤニヤしていた。そして、次の置き場に私を急がせた。そこには彼に抱きつきたくなるような、フリッチや加工する前のパリサンダーが山のようにあった。
前にもご説明したように、木目が良いからと高値で売れるわけではない。だが、この素晴らしいパリサンダーを私から買ったと新木場に噂が流れれば、私は取引先に不自由しなくなる。競争相手も蹴落とせる。現に、新木場の大手の銘木の輸入問屋がパリサンダーから手を引いてしまっている。残る強敵は西の方の業者である。
香港のことに触れたい。1997年、香港が英国から中国に返還される年であった。所用で香港に行く必要があった。用事はすぐに終わるので、家内に一緒に行かないかと誘ったが断られた。彼女はもう少しずらして、返還の「7月1日」を跨いで香港に行く予定を立てていた。即ち、家内は入国の時のパスポートに「香港」のスタンプ、出国の時には「中華人民共和国」のスタンプが押されることを計画していたのである。呆れるほどのミーハーである。
私はそれより10日ほど前に行った。ホテルは利用せずに娘のマンションに泊ることにした。娘の住まいは香港の郊外である屯門にある。香港にこれほどの緑があるのかと驚かされるほど樹木の多い、静かな住宅街である。そこには屯門地区を循環している路面電車が走っており、非常に便利である。それに、屯門の港からは香港島に行くホーバークラフトの高速艇が就航している。
そんな住宅街のあちこちに以下のようなポスターが貼ってあった。かなり以前から貼ってあるらしく、はがれかかったり、印刷の色が変わっていたりもしていた。
倒数百天 心懐祖国 家在屯門 屯問区慶祝香港回帰祖国
返還までは後100日、家は屯門にあっても、心は懐かしい祖国にあると云う事だろう。私はこのポスターを見て、香港の人たちは返還に反対なのだと感じた。「どうなるかわからないが、今のうちに中国におべっかを使っておけ」と云うのがこのポスターの心底にあるように思えたのである。それで、心の許せる香港の人に聞いてみた。すると、「自分たちは元々中国人だから、香港が中国に戻るのはいいです。而し、共産主義になるのは絶対に嫌なのです」との答えがすぐに返ってきた。
返還後に香港に行ったとき、中国の云う一国二制度はそれらしく機能していた。而し、香港の魅力は全くなくなっていた。西洋でもない、東洋でもない不思議なところが香港にあったのである。それが一変していた。バーやクラブの従業員に白人の姿が全くなくなっていた。中国政府は外国人を全て排除し、中国本土からそれに代わる人たちを香港に連れてきたのだ。ご存じのように、中国人程サービス業に適さない国民はいない。
また、庶民からは別の愚痴を聞かされた。今までの香港は英国の女王陛下の土地であったので地代は一切無料であった。而し、返還後は中国政府に地代を払わなければならないようになったそうだ。
今回の、若者を中心とするデモは、返還直後からの不満が一挙に爆発したように感じる。私の娘も国籍は日本であるが、デモに参加すると、先日家内にメールをしてきた。