冷え症と人見知りと寂しがり屋と乾燥肌。
女の子がよく言う。
どれも定義がよくわからない。
私だってどれも当てはまる気がする。
でもそれらを自ら発する彼女たちに聞いてみると、私はどれもそう自称できるほどの症状がない。
寒がりだし冬は大嫌いだし夏が大好きだし、冷房も以前に比べると苦手になってきた。
でも、今の季節に既に足先が冷えて眠れないとか、触った手がもうひんやりとかしていない。
人が好きとか広く公言できるほど人から慕われたり人に甘えたり、人懐こいタイプでは全くない。
でも、初対面の人ともその場の世間話くらいできるし、そういう場がものすごく苦手でもない。
一人でいると時々一人だなあとしみじみ感じるし、寂しさを感じたりもする。
でも、休日が1日でも予定がなく空いていると不安になったりとかはしない。
お風呂上がりに顔を放っておくと乾燥するし、唇とか荒れる。
でも乾燥肌用の化粧品でないとだめとか、足に粉がふいたりはしない。
でも、「会ったとき目合わせなかったでしょ。人見知り?」とか「寂しくない人なんていないよ」とかごく稀に言われると、いきなりスカートが風でめくれ上がったときみたいに動揺してしまう。
言われると確かに自分で思い当たる節がいくつもあったりして、今まで見ないふりでもしてきたのかと自分に問う。
冷え症も人見知りも寂しがり屋も乾燥肌も、本当は比較でなくて全部自称で成り立つ。
ただどこかに規定しておいた方がコミュニケーション上便利だったり楽だったりするから決め込んでおく。
もっと開放的でありたい、という私の願望は、いつもどこからか俯瞰で私を見ている私がたぶん100%をそうさせてはくれない。
私は解放されていると思える瞬間に、もう一人の自分が上から立ち会うことができるほど俯瞰視できる。
とんでもなく“ええかっこしい”なのだと思う。
それでも解放されていると思えることが増えてきたと思うし、その瞬間が愛おしいと思う。
100%解放ということがないであろうことを知った上で、今までの規定を一旦なかったことにして、ばらばらにしていく。
感じることを優先させていく。
おそらく、やり過ぎくらいやっても、これは比較論で、私の場合やり過ぎになることはないだろう。
ここ数年、ずっと欲しい欲しいと思っているカップ&ソーサーがあるのだが、取り扱っているセレクトショップで再会してしまって再燃してしまった。
以前にも何度か書いたことがある。
フランスのアスティエ・ド・ヴィラットという白磁器で、柔らかで微妙な曲線が美しく、一つひとつに本当に表情がある。
薄くて軽くて、カップとソーサーが触れ合った時の音や感触まで洗練されている。
それ一つを置いただけで、その空間に世界できてそこだけの時間の流れができるような。
それ一つを置いただけで、それ相応でないものを遠ざけたくなるような。
基本的に色ものが好きな私がなぜこれにこんなにも長く惹かれているのか自分でも説明しがたいのだが、私はお店のたくさんのアスティエ・ド・ヴィラットに囲まれるとうっとりして動けなくなってしまう。
確かに値段は高いが、買おうと思って買えない値段では全然ない。
でも、世界観が大切なカップだから、迎え入れるのに準備ができていない。
何がどうなったら買ってもいいことにしようか。
女の子がよく言う。
どれも定義がよくわからない。
私だってどれも当てはまる気がする。
でもそれらを自ら発する彼女たちに聞いてみると、私はどれもそう自称できるほどの症状がない。
寒がりだし冬は大嫌いだし夏が大好きだし、冷房も以前に比べると苦手になってきた。
でも、今の季節に既に足先が冷えて眠れないとか、触った手がもうひんやりとかしていない。
人が好きとか広く公言できるほど人から慕われたり人に甘えたり、人懐こいタイプでは全くない。
でも、初対面の人ともその場の世間話くらいできるし、そういう場がものすごく苦手でもない。
一人でいると時々一人だなあとしみじみ感じるし、寂しさを感じたりもする。
でも、休日が1日でも予定がなく空いていると不安になったりとかはしない。
お風呂上がりに顔を放っておくと乾燥するし、唇とか荒れる。
でも乾燥肌用の化粧品でないとだめとか、足に粉がふいたりはしない。
でも、「会ったとき目合わせなかったでしょ。人見知り?」とか「寂しくない人なんていないよ」とかごく稀に言われると、いきなりスカートが風でめくれ上がったときみたいに動揺してしまう。
言われると確かに自分で思い当たる節がいくつもあったりして、今まで見ないふりでもしてきたのかと自分に問う。
冷え症も人見知りも寂しがり屋も乾燥肌も、本当は比較でなくて全部自称で成り立つ。
ただどこかに規定しておいた方がコミュニケーション上便利だったり楽だったりするから決め込んでおく。
もっと開放的でありたい、という私の願望は、いつもどこからか俯瞰で私を見ている私がたぶん100%をそうさせてはくれない。
私は解放されていると思える瞬間に、もう一人の自分が上から立ち会うことができるほど俯瞰視できる。
とんでもなく“ええかっこしい”なのだと思う。
それでも解放されていると思えることが増えてきたと思うし、その瞬間が愛おしいと思う。
100%解放ということがないであろうことを知った上で、今までの規定を一旦なかったことにして、ばらばらにしていく。
感じることを優先させていく。
おそらく、やり過ぎくらいやっても、これは比較論で、私の場合やり過ぎになることはないだろう。
ここ数年、ずっと欲しい欲しいと思っているカップ&ソーサーがあるのだが、取り扱っているセレクトショップで再会してしまって再燃してしまった。
以前にも何度か書いたことがある。
フランスのアスティエ・ド・ヴィラットという白磁器で、柔らかで微妙な曲線が美しく、一つひとつに本当に表情がある。
薄くて軽くて、カップとソーサーが触れ合った時の音や感触まで洗練されている。
それ一つを置いただけで、その空間に世界できてそこだけの時間の流れができるような。
それ一つを置いただけで、それ相応でないものを遠ざけたくなるような。
基本的に色ものが好きな私がなぜこれにこんなにも長く惹かれているのか自分でも説明しがたいのだが、私はお店のたくさんのアスティエ・ド・ヴィラットに囲まれるとうっとりして動けなくなってしまう。
確かに値段は高いが、買おうと思って買えない値段では全然ない。
でも、世界観が大切なカップだから、迎え入れるのに準備ができていない。
何がどうなったら買ってもいいことにしようか。