つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

うむす

2012-02-15 13:20:01 | 日記
大晦日に年越しをした同じ場所で、急にまた類家さんに会いに行けることになった。
大晦日に来るはずだったのが、インフルエンザで来られなかった南さんとのセッション。
今回は立ち見ではなく席もあるらしい。
ジャズの生演奏はなるべく近くで、なるべく狭いところでやってほしい。
と言っても生を見たのは数回しかないけれど。

ジャズの生演奏は「音楽を聞く」というよりは「音を浴びる」といった方がしっくりくる。
演奏者が煙草を吸っているくらいの、煙草の煙で会場全体が白く霞んでいるくらいの、お酒が煙草の煙で苦くなってしまうくらいの、そんなくぐもったシチュエーションがいい。
まさに「このままどこか遠く連れてってくれないか」みたいな状況がそこにある。
別に私は自分が喫煙者でも愛煙家でもないけれど。

1か月半前を思い出すに、やっぱり類家さんはセクシーだなと思う。
本当は前日の菊地さんのライブにもぜひ行きたかったのだが、飛ぶには金曜日でないとならない。


一昨年、かれこれ7,8年の付き合いになる友人が「私はもう動物的なところと感情しか信じない。理性になんて意味がない。意味なんて意味がない」というようなことを言っていて、ああ離れて行ってしまうかもしれない、とその時の私は少し悲しく思ったものだ。
それまで彼女は自分のことを極めて理性的で客観的な自己の持ち主だと思っていて、すべての物事に対してその意味を考えてしまう癖があったという。
動物的・感情的というのはそうしようと考えてできるものではないことではあるものの、私が見る限りでも、彼女は動物的・感情的に生きているようだった。
その彼女は去年「今までほぼ理性的に考えてきたのを、去年1年できる限り動物的に生きた。2011年はその統合の年だ」と言って、やはり私が見る限りでも、理性と感情がミックスされて統合されて、以前の彼女が少し戻ってきたように思えた。
そして今年、その彼女は紆余曲折の末にひとつの柱を見い出して、落ち着きを得たように見える。

そうしているうちに今度は私自身が一昨年の彼女と似たような状況になっている。
理性になんて意味がないとまでは毛頭思わないし、それを完全に感情優先で生きることなど正しく言って不可能である。
だからそれなりの制御を持ちつつではあるが、感情の優位比率が高まっていることは感じる。
素直でなかった子供時代の経験を、今大人としても子どもとしても味わっているかのようだ。

その彼女は最近の私に「面白いけど危なっかしい」なんて笑いながら言う。
最初はおそらく同じ匂いを感じて近づき合った私たちだが、お互いの歩み方を離れず傍から眺めながら、時に爆破みたいな経験も各々しながら20代の前半を過ごしてきた。

やりたいようにやればいいよ、見てるから。
いろいろ言って、結局最後はいつも、そう言ってくれているみたいな優しい傍観者。

どこかで、相容れることのエクスタシーを持った人間同士が、やっぱり他人だというその事実を理解をする。
たぶんそういうことなのだと思う。

私が統合されるのはおそらくもう少しあと。

『バームクーヘン』が頭から離れない。