つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

白すぎる映像

2013-06-10 00:25:23 | 日記
日曜日、とても久しぶりに目覚ましをかけずに起きた。
ずっと眠り足りなかったんだと、身体が言っているかのようにすっきりしていた。
布団を抱きしめながら、深呼吸をしてまたしばしまどろむ。
私にとって睡眠は最も重要な体調管理なのだと思う。

昼過ぎの待ち合わせには、時間の勘違いもあってだいぶ遅れてしまったけれど。

「開塾指導講座」の宿題が思ったよりもハードで、金曜日、夜遅くに帰って宿題を仕上げていたら夜が明けるどころか朝7時になってしまった。
と言っても借りたアルバムをiTunesに取り込んだり、新居探しの色々をしたりで、書き始めたのが2時半だったのだが。

ジャムやらゼッペリンやらトム・ロビンソンやらノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズやらを流しながら「つき」とか「かね」とか「作文」とか「学校」とか「遊園地」とかを半紙に朱墨で書いていく。
墨量も筆使いも余白の取り方も普段やっているものとはわけが違う。
始筆も収筆も、線の反る方向も、点の打ち方も、全然違う。
そして創作はアンバランスの中のバランスだけれど、これはバランスの中のバランスなのである。

太めの筆で紙いっぱいにたっぷりの墨を付けてひらがなを書く。
これがまたとても気持ちが良い。

ただ、どこで良しとするかが決められなくて、結局15枚くらいの提出物を仕上げるのに、1000枚入りの半紙の3分の1くらいを書いた。
それでも完璧と思えるものを書くには程遠過ぎて、完全な夜明けの光とともにそこで断念した。
普段から負けず嫌いなところはありつつも慢性的怠慢なので、このように頑張れる自分に触れると、なんだ頑張れるじゃないかと少し安心する。

私が大人になって書道を始めようと思ったのはこういうことに近くて、「きちんとした上手な字」所謂楷書が上手くなりたかった。
昔、小中学生の頃、字を書くために黒板を写していたことがよくあった。
家に筆ペンが転がっていたらそれを一日で使い切るくらい字を書くことが好きだった。
それがなぜなのかは今も判然としない。
別にそれは必ずしも筆でなければならないこともなくて、鉛筆でもペンでも別に良かった。

もっとも、今の教室に通い始めた理由は先生の書いている姿に打たれたからで、今は今で創作の面白さがようやくわかってきたところだけれど、このような所謂「お習字」という感じの文字に触れて昔を思い出す。
誰の目も気にせずに堂々と、やりたくてやっているんだと夢中で何かができることは子どものときの私には無理だったなあと思い返す。
だから、私は「大人になることは自由になることだ」と本気でそう思っている。

そしてようやく新居が決まりそうである。
もうこのタイミングの引っ越しを諦めようかと思うほど、私はこれに生気を奪われてしまったけれど、何とか広いところに引っ越せそうだ。

結局、広さと住みたいエリアは譲らず、築年数と物件クオリティを譲る結果となった。
今住んでいるところから自転車で10分くらいのところだ。
引っ越しはまたとても骨が折れるけれど、変化を自分で作っていきたいと思う。

そしてまた来週の宿題をやる。
楽しいけど、疲れるけど、楽しいけど、疲れる。
書道だけでは全然ないけれど、ここから先2か月くらいの予定がすでにいっぱいである。
時間が欲しい。