つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

プールに押し寄せる冷ややかな水

2013-12-03 22:28:58 | 日記
タオルを買った。
浴用タオルを自分で買ったのは、もしかすると、フジロックでやむを得ず購入した以外は、初めてかもしれない。

頻度の高い日用品のレベルを上げること、それは私の育った環境からすると実践はなかなか難しい。
私は一般的にいってまあまあ裕福な環境で育ったと思う。
しかし非常に倹約な過程で育ったため、日用品の値段が高いものを買うことに抵抗がある。
とくに消耗品についてはどうせダメになるからと、良いものでも高いものが買えない。

食べるものもそうだ。
今でも買うのは安い食材が基本だし、こちらの地鶏の方が美味しそうだからと高い鶏肉を買うことはめったにない。
しかし食材については代替の利かないものであれば「それが食べたい」あるいは「それが食べてみたい」という欲求探索として最近はお金を払えるようになってきた。

良い包丁、良い急須、良い化粧水、良い筆。
「良い」というのは自分の身体で会得しなければならず、「良い」ものを手に入れる自由を、大人の私はお金以外の制約は一切なく、持っているはずである。
無論、値段が高ければ「良い」わけでもなくて、自分にとっての「良い」を判断ができる審美眼をずっとずっと養い続けなければいけないものである。
高くても安くても大して変わらないというか、私には違いがわからないものもあるだろう。
もちろん、すべては試せないから、私の選べる範囲で「良い」ものを手に入れたい。

誰の価値でも、流行でもなく。
それに満足できなくなったら、もっと「良い」ものが欲しい。

タオルもずっと買い替えたいと思っていた。
これまで使っていたものはほとんど実家でもらったタオルだ。
お歳暮やお中元などのいただき物のタオルを事あるごとにもらっていた。
LANVINのタオルなど、立派過ぎて、大き過ぎて、未だに2回くらいしか使ったことがない。

ちなみに、けいこは洗濯に柔軟剤を使わないので、タオルはどんどんと“バシバシ”になっていく。
“バシバシ”のタオルの方が水をよく吸うからいい、と言うのは一理あるのかもしれないけれど、ふかふかしたタオルの方がふき心地が良いことに気が付いたのはひとり暮らしをはじめて数年後だったように思う。
“バシバシ”のタオルが肌にも良くない、というのは身体で分かる。

実家のいただき物タオルも尽きたようなので、しばらく同じものを使っていたけれど、明らかに替えどきの感じがしていた。
柔軟剤を使ってもふかふかには程遠いし、色もくすんできて、“疲れて”いる感じがした。

タオルも値段が高いものは高い。
以前デパートで見たことがあるが、高級バスタオルはその重量と高級感もさることながら、1万円近くするものもある。
友人宅でそのようなタオルを使ったことがあり、確かにものすごく包まれているような心地は良いのだけれど、これは洗濯の容量と乾くスピードから言って、乾燥機もない私の家では全然現実的ではないと思った。

とりあえず日用品も売っているスーパーに行ってみる。
ぺらぺらの安いタオルではなく、触り心地の良い少しボリュームのあるタオルを2枚買う。
バスタオルよりはひと回り小さいサイズで、レインボーカラーのを1枚、清潔な白に淡い紫のラインが入ったのを1枚。
どちらも980円、このスーパーでは高い方のタオル。

取り替えたことをすぐに忘れてしまうようではだめだ。
長く、「替えてよかった」としみじみ思うものが「良い」ものである。

ちなみに先日買った包丁は未だ切れ味にいちいち喜んでいる。
良品だ。


自分に対して自覚的になるということは、いいことばかりではない。
現実に起こる多くのことが大したことはないのだけれど、ほんの局所的に、ものすごく赤剥けになっている箇所があって、そこに触れられると私はどうしようもなく悲しくなる。
合わせて、怒りも満ちる。

人は人だから、と、ある面では信頼を、ある面では割り切りを、私は持っている。
誰も、そう誰もが、他人のことなど分からない、と思っている。
しかしその前提から除外してしまう例外が私には存在して、そこには思考展開も論理も通用しない。

その存在が私のその赤剥けの部分に触れてきたりすると、自分のコントロール外でおそろしく反応する。
悲しみに満ちているその最中に、「こんなことでこんなになるの?」と私は私に驚愕する。
少しの冷静さを持って見てみると、どんなにそれが幼稚なことか、私にだって分かる。
そしてそれは誰かにとっては、まったくさっぱり何も感じないような些細で取るに足らないことなのかもしれない。

悲しみを自分で増幅させてしまっているのかと、疑ったことがある。
悲しみの増幅だなんてなんて不幸な、と思うしそんなのは嫌だけれど、どうやらそうではなさそうだということを、自分の身体の反応で知る。

悲しいのだ、私はこのことが。
許せないのだ、私はこのことが。

仕方がないので、玉ねぎを刻んで、トマトソースを煮る。