仕事で出かけていた昨日、リーガルハイの最終回のために帰宅した。
家には録画機能はない。
私はドラマ好きだし、これまでもすごいと思ったドラマはいくつかあるけれど、このリーガルハイの2期だけのしかも数話観ただけでナンバー1ドラマになってしまったかもしれない。
最終回、私は打ち震える思いで観ていた。
最終回が私が見たいくつかの話の中で一番すごかった。
脚本家まで調べてしまった。
古沢良太さんというらしい。
どんなものもそうだけれど、誰かの頭の中にその発想がないとストーリーは作れない。
私は小説を読んでいても、ストーリーよりかそれを発想した人の方、つまり小説家に興味が行ってしまう。
たくさん登場人物が出てくる中で、それぞれ違う思想やキャラクターの人が出てきて、物語の中で戦ったり交わったりする。
どれが発想した人の真意であるかは最終的にはその人に聞いてみないとわからないけれど、どれもこれもその人の頭の中にあったことには違いない。
それで想像する、こういうことが作者の真意ではないだろうか、と。
そして、全部が全部真意のために作られているわけでもないところがまた巧い。
織り込まれている他作品に対するオマージュだったり、本質なのか本質でないかの境目のようなちょっとしたエピソードだったり、完全な遊び心だったり。
「意味なんてないよ」といった感じの。
もちろん、そのすべての発想をほとんど正しく体現できなければ元も子もない。
今回で言えば役者陣が申し分なく素晴らしかったのだろうし、演出や編集なども優れていたのだと思う。
ちょっと私にはこの辺はよく分からないけれど。
最後、真実がひっくり返されてうやむやにされたのは、真実は結局それぞれの心の中にしかなく、それがどんなものであれ各自がそれに責任を持って立ち会わねばならず、その責任の上で各自がしたいようにする、ということだったのだと私は解釈している。
古美門研介が言った「醜さを愛せ」とはそういうことなのだと。
人は、ひとつの明確で共通の真実を知りたがる。
ひとつの明確で共通の真実を知れば安心できるし、もうそれについて考えなくても良いからだ。
しかしそれがうやむやにされたということは、そうではいけない、というメッセージはあったのではないかと思う。
“美しそうなもの”“理想っぽいもの”を信じるのは簡単だ。
それが“美しそうだから”“正しそうだから”、いや、“美しいから”“正しいから”とそう思い込んで、他を一切受け入れないのは自己欺瞞である。
人は、誰もが他人と共存する。
「想像力、それは愛だ、歴史の果てまで」と言ったのはマーシーだけれど、私はある種のロックンロールをリーガルハイに見たように思っている。
リーガルハイを作ってくれた人たちに勝手にお礼を言いたい。
この前のブログの記事もそうだけれど、ちょっと偉そうなことを言った後は「あはは」と笑っておきたくなる。
「えへへ」でもいいか。
今の私に、「独房暮らし」

家には録画機能はない。
私はドラマ好きだし、これまでもすごいと思ったドラマはいくつかあるけれど、このリーガルハイの2期だけのしかも数話観ただけでナンバー1ドラマになってしまったかもしれない。
最終回、私は打ち震える思いで観ていた。
最終回が私が見たいくつかの話の中で一番すごかった。
脚本家まで調べてしまった。
古沢良太さんというらしい。
どんなものもそうだけれど、誰かの頭の中にその発想がないとストーリーは作れない。
私は小説を読んでいても、ストーリーよりかそれを発想した人の方、つまり小説家に興味が行ってしまう。
たくさん登場人物が出てくる中で、それぞれ違う思想やキャラクターの人が出てきて、物語の中で戦ったり交わったりする。
どれが発想した人の真意であるかは最終的にはその人に聞いてみないとわからないけれど、どれもこれもその人の頭の中にあったことには違いない。
それで想像する、こういうことが作者の真意ではないだろうか、と。
そして、全部が全部真意のために作られているわけでもないところがまた巧い。
織り込まれている他作品に対するオマージュだったり、本質なのか本質でないかの境目のようなちょっとしたエピソードだったり、完全な遊び心だったり。
「意味なんてないよ」といった感じの。
もちろん、そのすべての発想をほとんど正しく体現できなければ元も子もない。
今回で言えば役者陣が申し分なく素晴らしかったのだろうし、演出や編集なども優れていたのだと思う。
ちょっと私にはこの辺はよく分からないけれど。
最後、真実がひっくり返されてうやむやにされたのは、真実は結局それぞれの心の中にしかなく、それがどんなものであれ各自がそれに責任を持って立ち会わねばならず、その責任の上で各自がしたいようにする、ということだったのだと私は解釈している。
古美門研介が言った「醜さを愛せ」とはそういうことなのだと。
人は、ひとつの明確で共通の真実を知りたがる。
ひとつの明確で共通の真実を知れば安心できるし、もうそれについて考えなくても良いからだ。
しかしそれがうやむやにされたということは、そうではいけない、というメッセージはあったのではないかと思う。
“美しそうなもの”“理想っぽいもの”を信じるのは簡単だ。
それが“美しそうだから”“正しそうだから”、いや、“美しいから”“正しいから”とそう思い込んで、他を一切受け入れないのは自己欺瞞である。
人は、誰もが他人と共存する。
「想像力、それは愛だ、歴史の果てまで」と言ったのはマーシーだけれど、私はある種のロックンロールをリーガルハイに見たように思っている。
リーガルハイを作ってくれた人たちに勝手にお礼を言いたい。
この前のブログの記事もそうだけれど、ちょっと偉そうなことを言った後は「あはは」と笑っておきたくなる。
「えへへ」でもいいか。
今の私に、「独房暮らし」

