部屋の前の銀杏が色づいてきた。
私の部屋の前は銀杏並木になっていて、まさに部屋の窓の目の前が銀杏の木だ。
今年の夏に引っ越してきたときに、この銀杏が色づいて葉を落としていくことで季節を感じていくんだな、と思っていた。
しかし、窓に網戸がなくまた広い面が窓なので外が丸見えになってしまい、その対策として窓用の目隠しシートを貼った。
そうしたら、窓からの銀杏の景色が8割減ほどになって、銀杏の季節感がまったく気にならなくなってしまっていた。
ふと気づくと、緑と黄色がちょうどグラデーションになっている。
先日小石川植物園に行ったとき、そこの銀杏はすでに真っ黄色だったから、なぜだか道路沿いの並木銀杏は色づくのが遅い。
はらりはらりと、葉も散り始めていて、自転車のかごに数枚入っていた。
取り除くでも手に取るでもなく、そのまま銀杏の葉をかごに入れたまま走り出す。
もう言い訳もできない冬に風にさらわれて、扇形の葉っぱは全部、飛んで行った。
ところで、銀杏と紅葉、というのは秋の訪れとして頻出する言葉であるが、二つとも音読みと訓読みで意味が違い、しかしながらそれを使うときは近い言葉の領域の中で使うことが多いから困る。
口に出してしまえば、「いちょう」「ぎんなん」、「もみじ」「こうよう」だからいいのだけど、漢字で書くとどちらで読めばいいのか、文脈からも類推しづらいときがある。
前述の文章はすべて「いちょう」であるが、「銀杏」という字面は私は必ず最初に「ぎんなん」の読み方が出てきてしまう。
文脈的に「いちょう」であることは分かったとしても、次々に出てくるそれらもまた「ぎんなん、いや、いちょう」と読み返すことになる。
「ぎんなん」も同じ「いちょう」の実だけれど、2つのそのイメージというのはだいぶ異なる。
また、「ぎんなん」「いちょう」、どちらもひらがなで書いても他の言葉の意味とかぶることはなく使える。
一方、「もみじ」と「こうよう」は、「こうよう」は固有のものを指すわけではなく秋に落葉樹が色づくことを意味し、「もみじ」は特定の木を指す。
また、「こうよう」は「こうようする」などと動詞を伴って用いられたりもする。
「紅葉を見に行こう」とあった場合は、例えば背景のポスターが「もみじ」の写真であったとしてもどちらが正しい読み方なのかはわからない。
まあでも、どちらで読んでも抱くイメージにはあまり変わりがないし、「もみじを見に行こう」と読んで見に行ったら別の木の「こうよう」であったとしても特段差し支えもないはないだろう。
「紅葉」という字面があったらパッと見では「もみじ」と読むか「こうよう」と読むか、私はほんの少しわずかながら後者の「こうよう」と読んでしまうことが多い気がする。
またこちらは「もみじ」はいいけれど、「こうよう」はひらがなでは別の意味も出てきてしまって使いづらい。
私はこのどれもが漢字から想起させるイメージが好きなので、どれを使うときにも漢字を使う。
しかし自分で書いた文章すら読み返すと何度も間違って読む。
先日展覧会に来て下さった先生の勧めで、これからブログに書作品を載せてみようかと思う。
まずは最初なので旬な「リンダリンダ」を。
実に恥ずかしい。
いろんな弁解をしてしまいそうである。
本来の意味でなく文字通りの意味で、「筆不精」を解消できたらいいとも思う。
私の部屋の前は銀杏並木になっていて、まさに部屋の窓の目の前が銀杏の木だ。
今年の夏に引っ越してきたときに、この銀杏が色づいて葉を落としていくことで季節を感じていくんだな、と思っていた。
しかし、窓に網戸がなくまた広い面が窓なので外が丸見えになってしまい、その対策として窓用の目隠しシートを貼った。
そうしたら、窓からの銀杏の景色が8割減ほどになって、銀杏の季節感がまったく気にならなくなってしまっていた。
ふと気づくと、緑と黄色がちょうどグラデーションになっている。
先日小石川植物園に行ったとき、そこの銀杏はすでに真っ黄色だったから、なぜだか道路沿いの並木銀杏は色づくのが遅い。
はらりはらりと、葉も散り始めていて、自転車のかごに数枚入っていた。
取り除くでも手に取るでもなく、そのまま銀杏の葉をかごに入れたまま走り出す。
もう言い訳もできない冬に風にさらわれて、扇形の葉っぱは全部、飛んで行った。
ところで、銀杏と紅葉、というのは秋の訪れとして頻出する言葉であるが、二つとも音読みと訓読みで意味が違い、しかしながらそれを使うときは近い言葉の領域の中で使うことが多いから困る。
口に出してしまえば、「いちょう」「ぎんなん」、「もみじ」「こうよう」だからいいのだけど、漢字で書くとどちらで読めばいいのか、文脈からも類推しづらいときがある。
前述の文章はすべて「いちょう」であるが、「銀杏」という字面は私は必ず最初に「ぎんなん」の読み方が出てきてしまう。
文脈的に「いちょう」であることは分かったとしても、次々に出てくるそれらもまた「ぎんなん、いや、いちょう」と読み返すことになる。
「ぎんなん」も同じ「いちょう」の実だけれど、2つのそのイメージというのはだいぶ異なる。
また、「ぎんなん」「いちょう」、どちらもひらがなで書いても他の言葉の意味とかぶることはなく使える。
一方、「もみじ」と「こうよう」は、「こうよう」は固有のものを指すわけではなく秋に落葉樹が色づくことを意味し、「もみじ」は特定の木を指す。
また、「こうよう」は「こうようする」などと動詞を伴って用いられたりもする。
「紅葉を見に行こう」とあった場合は、例えば背景のポスターが「もみじ」の写真であったとしてもどちらが正しい読み方なのかはわからない。
まあでも、どちらで読んでも抱くイメージにはあまり変わりがないし、「もみじを見に行こう」と読んで見に行ったら別の木の「こうよう」であったとしても特段差し支えもないはないだろう。
「紅葉」という字面があったらパッと見では「もみじ」と読むか「こうよう」と読むか、私はほんの少しわずかながら後者の「こうよう」と読んでしまうことが多い気がする。
またこちらは「もみじ」はいいけれど、「こうよう」はひらがなでは別の意味も出てきてしまって使いづらい。
私はこのどれもが漢字から想起させるイメージが好きなので、どれを使うときにも漢字を使う。
しかし自分で書いた文章すら読み返すと何度も間違って読む。
先日展覧会に来て下さった先生の勧めで、これからブログに書作品を載せてみようかと思う。
まずは最初なので旬な「リンダリンダ」を。
実に恥ずかしい。
いろんな弁解をしてしまいそうである。
本来の意味でなく文字通りの意味で、「筆不精」を解消できたらいいとも思う。