どうしても、バンドみたいなことがやってみたかった。
ディスト―ションのあるアンプで大音量で、ドラムとボーカルも入れて。
簡単なコードしか弾けないけど、なんでもいいから、そういうことがしてみたかった。
ギターの先生に「ドラムできますか?やってくれませんか?」とお願いしてみる。
本職ではないのに快く引き受けてくれた。
いつも家でギターの練習するときは座ってやっているけれど、ロックバンド的な格好は付けたいからこの日のために2,3日は立って練習した。
立って弾くのは難しい。
弾きながら歌うのはもっと難しい。
直立だと押さえづらいのでどうしても仁王立ちになってしまう。
架空なのか、遊びなのか、本気なのか、私と友人はバンド名を決めている。
そんな私と友人は、ギターとブルースハープ、そしてボーカル、2人して同じパートになってしまっている。
私たちの軌跡は、全部“やってみただけ”ということから始まる。
いや、いつまで経っても全部“やってみただけ”だ。
でもただそれだけで、いっぱい楽しい時間が作れたし、いっぱい前進したと思う。
バンド名も、ただ付けただけだし、バンドみたいなこともただやってみたいだけ。
何が重要かは、実際にやったのか、ということだけ。
それはどんな類のことであっても。
実際にやった、という事実からしか何も語れない。
「ナビゲーター」「即死」「終わらない歌」「月の爆撃機」「サンダーロード」「キャサディキャサディ」「リンダリンダ」
「リンダリンダ」がラストがいいかなと思ったけれど、難しくて様にならなかったのでやった中で一番良かった「即死」で締める。
最初の準備に手こずったけれど、2時間弱休憩も取らずに拙すぎる演奏を続ける。
後からスタジオの受付の人に「ぶっ続けでがんばったんですね」と言われて知ったけれど、だいたい2時間くらいあると休憩を挟むものらしい。
そんな発想は私たちには全然なかった。
ドラムをやってくれていたギターの先生も実は途中で肩が痛いから休憩したいと思っていたらしい。
はじめてバンドみたいなことをやってみて、いろんなことが分かった。
何せコードしか弾けないので、出だしや間奏ができない。
どうやって演奏を始めたらいいのかもわからない。
それでも、自分たちだけでサウンドを作っているという感じはあった。
だって私がギターを止めてしまったら、ベースはいないのだからサウンドがごっそりなくなってしまう。
私も歌いたかったけれど、ギターに集中していないと間違えてしまうのでボーカルはほとんどを友人に任せた。
でも私が今回一番分かったことは、ある程度自在に弾けないと思いを乗せて自分がそれでぎゅうっとなるまで行けない、ということだった。
何がしたいって、私はそうやってぎゅうっとなりたいわけだから。
それに、やっぱり一曲として完成させるには、ベースも前奏も間奏もギターソロも曲の最後のそれなりの終わり方もやっぱりそれっぽくやりたい。
とりあえずジャーン、とみんなでやるだけで満足だろうと思っていたのだけれど、意外にも自分がこういうふうにしたいというイメージを持っていたんだなと思った。
だから途中で、先生が持ってきた1オクターブ下げることができる機械でギターでベースの役割を入れてみるとよりそれっぽくなって嬉しかった。
でもやっぱりベースはそんなに面白くないなと言うことも分かった。
そういうことも全部含めてドラムをやってくれたギターの先生は「今日は満点だったと思います」と言ってくれた。
途中でテンポが変わったり止まったり間違えたりするギターの拙すぎる演奏に、こちらがドラムのことは一切気にしなくてもいいようにやってくれた。
私は幸いなことにも失礼ながらも、先生がどのようにドラムをやっていたのかは全然憶えていない。
2時間の演奏ですっかり酸欠になって、久しぶりにお酒を飲んだら随分と身体に染みた。
ロックンロールにまつわる自分のことをたくさん話せて、また酸欠になる。
重たいギターを背負ってタクシーに乗ると、「自分も昔バンド組んでましてねえ。ビートルズやストーンズをコピーしてました」と運転手さんが話し始めた。
久しぶりに酔っぱらって寝て起きて、シャワーを浴びると手の甲がヒリヒリした。
見ると何かで引っ掻いたような傷があって蚯蚓腫れになっている。
さっぱり記憶がないけれど、私はどこでどうやってこんな傷を付けたのだろう。
またまた今さらだけれども「リーガルハイ」を観て、面白さに唸ってしまう。
日本のテレビドラマでは、2年前くらいに観た「ケイゾク」と同じくらいの感嘆ぷり。
演技や構成、テンポの速さ、それに巧みに織り込まれる作り手のやりたいこと、言いたいこと。
いやあ本当にすごい。
前作をほとんど見ていないのが今非常に喜ばしい。
これからの楽しみって、うれしい。
マーシーの「手紙」
マーシーの詞はファンタジックな世界観がある。
「背骨で聞いている ハチミツの雨」というフレーズの質感が私は大好きだ。
しかしやはり表装しないと紙の皺があって見づらい。

ディスト―ションのあるアンプで大音量で、ドラムとボーカルも入れて。
簡単なコードしか弾けないけど、なんでもいいから、そういうことがしてみたかった。
ギターの先生に「ドラムできますか?やってくれませんか?」とお願いしてみる。
本職ではないのに快く引き受けてくれた。
いつも家でギターの練習するときは座ってやっているけれど、ロックバンド的な格好は付けたいからこの日のために2,3日は立って練習した。
立って弾くのは難しい。
弾きながら歌うのはもっと難しい。
直立だと押さえづらいのでどうしても仁王立ちになってしまう。
架空なのか、遊びなのか、本気なのか、私と友人はバンド名を決めている。
そんな私と友人は、ギターとブルースハープ、そしてボーカル、2人して同じパートになってしまっている。
私たちの軌跡は、全部“やってみただけ”ということから始まる。
いや、いつまで経っても全部“やってみただけ”だ。
でもただそれだけで、いっぱい楽しい時間が作れたし、いっぱい前進したと思う。
バンド名も、ただ付けただけだし、バンドみたいなこともただやってみたいだけ。
何が重要かは、実際にやったのか、ということだけ。
それはどんな類のことであっても。
実際にやった、という事実からしか何も語れない。
「ナビゲーター」「即死」「終わらない歌」「月の爆撃機」「サンダーロード」「キャサディキャサディ」「リンダリンダ」
「リンダリンダ」がラストがいいかなと思ったけれど、難しくて様にならなかったのでやった中で一番良かった「即死」で締める。
最初の準備に手こずったけれど、2時間弱休憩も取らずに拙すぎる演奏を続ける。
後からスタジオの受付の人に「ぶっ続けでがんばったんですね」と言われて知ったけれど、だいたい2時間くらいあると休憩を挟むものらしい。
そんな発想は私たちには全然なかった。
ドラムをやってくれていたギターの先生も実は途中で肩が痛いから休憩したいと思っていたらしい。
はじめてバンドみたいなことをやってみて、いろんなことが分かった。
何せコードしか弾けないので、出だしや間奏ができない。
どうやって演奏を始めたらいいのかもわからない。
それでも、自分たちだけでサウンドを作っているという感じはあった。
だって私がギターを止めてしまったら、ベースはいないのだからサウンドがごっそりなくなってしまう。
私も歌いたかったけれど、ギターに集中していないと間違えてしまうのでボーカルはほとんどを友人に任せた。
でも私が今回一番分かったことは、ある程度自在に弾けないと思いを乗せて自分がそれでぎゅうっとなるまで行けない、ということだった。
何がしたいって、私はそうやってぎゅうっとなりたいわけだから。
それに、やっぱり一曲として完成させるには、ベースも前奏も間奏もギターソロも曲の最後のそれなりの終わり方もやっぱりそれっぽくやりたい。
とりあえずジャーン、とみんなでやるだけで満足だろうと思っていたのだけれど、意外にも自分がこういうふうにしたいというイメージを持っていたんだなと思った。
だから途中で、先生が持ってきた1オクターブ下げることができる機械でギターでベースの役割を入れてみるとよりそれっぽくなって嬉しかった。
でもやっぱりベースはそんなに面白くないなと言うことも分かった。
そういうことも全部含めてドラムをやってくれたギターの先生は「今日は満点だったと思います」と言ってくれた。
途中でテンポが変わったり止まったり間違えたりするギターの拙すぎる演奏に、こちらがドラムのことは一切気にしなくてもいいようにやってくれた。
私は幸いなことにも失礼ながらも、先生がどのようにドラムをやっていたのかは全然憶えていない。
2時間の演奏ですっかり酸欠になって、久しぶりにお酒を飲んだら随分と身体に染みた。
ロックンロールにまつわる自分のことをたくさん話せて、また酸欠になる。
重たいギターを背負ってタクシーに乗ると、「自分も昔バンド組んでましてねえ。ビートルズやストーンズをコピーしてました」と運転手さんが話し始めた。
久しぶりに酔っぱらって寝て起きて、シャワーを浴びると手の甲がヒリヒリした。
見ると何かで引っ掻いたような傷があって蚯蚓腫れになっている。
さっぱり記憶がないけれど、私はどこでどうやってこんな傷を付けたのだろう。
またまた今さらだけれども「リーガルハイ」を観て、面白さに唸ってしまう。
日本のテレビドラマでは、2年前くらいに観た「ケイゾク」と同じくらいの感嘆ぷり。
演技や構成、テンポの速さ、それに巧みに織り込まれる作り手のやりたいこと、言いたいこと。
いやあ本当にすごい。
前作をほとんど見ていないのが今非常に喜ばしい。
これからの楽しみって、うれしい。
マーシーの「手紙」
マーシーの詞はファンタジックな世界観がある。
「背骨で聞いている ハチミツの雨」というフレーズの質感が私は大好きだ。
しかしやはり表装しないと紙の皺があって見づらい。

